百人一首ものがたり 64番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 64番目のものがたり「宇治川」

朝ぼらけ 宇治(うぢ)の川霧(かはぎり) たえだえに
あらはれわたる 瀬々(せぜ)の網代木(あじろぎ)

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「定頼は大納言公任の息子ですし才能もありましたから大いに期待されたのですが、女好きで派手好きで、喧嘩もよくしましたので公任に心痛の絶えることはありませんでした。和歌を詠むにしても大いに奇を衒うので公任は困ったようです」
「奇を衒うとは、例の大堰川でござりますか」
「あの出来事が一番定頼の性格を現していると言えましょうね」

 大堰川の出来事というのは、大堰川に一条院が行幸された折、定頼は父の大納言公任と共に和歌を奉る役目を仰せつかっていた時の事である。秋の水が滔滔と流れる様を前にして一条院は『詠んでみよ』と定頼に仰せつけられたので詠んだ初句は、
  水もなく見え渡るかな大堰川 
 講師がこの初句を詠み上げた時、並み居る殿上人たちは、『これは何の事か!』と驚き呆れた。目の前には美しい大堰川の清流が秋空を写して流れているというのに『水もなく見え渡る』とは・・・院のお側近くに控えていた大納言公任も青くなった。ところが定頼は 
峰の紅葉は雨と降れども 
と下の句を詠んだので、一同どっと感嘆の声を上げ、一条院も苦笑なされながらも定頼を誉めたので、公任も胸をなで下ろした。

「逸話にもなっているのですから余興としては成功したと言えましょうが、和歌としてはひどいものです。ともかく定頼は公務よりも遊興を好んだばかりか、関白道長に気に入られているのを笠に着てしばしば騒動を起こしましたので、右大臣実資は『無頼人』とあだ名したほどです。実資は硬骨漢でしたから定頼のような者が一族に居るのがいまいましかったのでしょう」
「・・・しかし、無頼人とまであだ名された人物を中納言様がわざわざお取り上げるになるには理由があると存じますが・・・」
「いかにも、その理由を一言で表せば、定頼は業平と対極にいる者、とでも申せましょうか」
「・・・対極とは・・・」
「業平は権力に媚びず、多くの女に愛されながら、生涯一人の女をひたすら想い続け、その想いを貫きました。定頼は権力に媚び、多くの女と交わり、誰からも愛されず、心から愛した女はただの一人もいませんでした」
「・・・」
「ではそのような定頼を私がなぜ選ばざるを得なかったか、その理由は、定頼という人物とその和歌には『時代の傾き』が他の誰よりも顕著に感じられると思うからです。定頼は傾きかけた時代の申し子なのです」
「時代の傾き・・・」
「そうですとも。平安初期の業平や小町の和歌には形容しがたい余情が漂っています。古今和歌集六百十六番に、『やよひのついたちより、しのびに人にものら言ひてのちに、雨のそほふりけるに、よみてつかはしける』と詞書きして

 起きもせず寝もせで夜をあかしては
春の物とてながめくらしつ

 雨だれの音を聞きながら恋する人を思って輾転反側する業平の姿が目に浮かぶようではありませんか・・・。
 こうした和歌の心は彼等が生きていた時代の吐息のようなものです。美や恋を何よりも尊いものとする業平の心は伊勢や平兼盛、壬生忠見などに受け継がれて多くの和歌が生まれ、天徳内裏歌合の頃になると、朝野をあげて良い歌を詠むことに心を砕きました。ところが兼家、道長の時代になりますと、人の心は次第に現世欲に押し流され、権力におもねるようになって、和歌にも翳りの色が見られるようになってきます。その有様は源氏物語の宇治十帖に示されている通りです」
「・・・」
「定頼という男の生き様はそうした時代の危うさ、心の翳り、退廃の気配をよく示しているのです。次の和歌をごらん下さい。詞書きに、 『ある人のもとに届けようとした恋文を、使いの者が間違えて、既に縁が切れてしまった女に手渡したので、女から返しの歌が届いたのを見て』とあり、
 忘られぬ下の心やしるべにて
君が宿にはふみたがへけん
(あなたを忘れられない私の心に誘われて、使いがあなたのところへうっかり文を届けてしまったようですが・・・どうかお忘れ下さい。お手元の恋の歌は別のお方に差し上げた歌なのですから)
 この歌には恋する者のひたむきな心も一途な想いもありません。愛することの苦しみや哀しみは微塵もない。聞こえて来るのは淪落した男の皮肉な嘲笑、歪んだ諧謔です。定頼のような男が現れた事こそが、衰退へと向かおうとする時代の精神をはっきりと顕しているのでしょう」

第64番目のものがたり 「宇治川」 )

 万寿三年の暮れ、六十二才になった大納言公任は出家して山城国、長谷の山寺に隠棲したが、家人から山寺の有様を聞いた定頼は見舞いの和歌を送り届けた。

  

  ふるさとの板間の風に夢さめて

谷の嵐を思ひこそすれ 

(栄花物語巻二十七・ころものたまより・千載集・雑中)

(我が家の床板の隙間から吹き込んでくる寒風にふと寝覚めして父上を思っております。都の私がこれほど寒さに震えているのですから、山寺においでの父上はどれほど辛い谷嵐に耐えておいでなのでしょうか)

  公任の返歌

 山里の谷の嵐の寒きには

このもとをこそ思ひやりつれ 

(おまえは山の中で暮らしている私を心配してくれているようだが、谷の嵐の寒さを身に凍みるにつけ、お前がどうしているか、心掛かりでなりません)

 年が明けた元旦の早々、定頼は威儀を正して屋敷を出立し、宇治に一泊して、翌日の昼近くには父公任の隠棲する長谷の山寺に到着した。公任は正月早々に息子が年賀の挨拶に来てくれるなどとは思ってもみなかったので感激して定頼を迎え、さまざまに語り合った。

 夕刻が近づく頃、公任は他の者を遠ざけ、定頼と二人きりになるとつくづくと息子の顔を見つめ、深いため息をついた。

「私の生涯は不甲斐ないものであった」と公任は言った。「言うべき事も言わず、不満や嫉妬や憎しみを腹の中にため、その日その日をようやく過ごしてきた。ただ私が誇りに思うのは、そうした不自由の中でも、私でなければ為せなかった事をすべて成し遂げた事だ。何もかも終えた今、宮廷を去り、山寺に住んでようやく自由を得た。そなたは私の粗末な住まいの有様を心配しているようだが、私は今初めてこの世に生まれた喜びを味わっている。しかし、心残りがないかといえばそうではない。山の清流の音や森、森を渡る風の音を聞きながら思うのは、そなたのことだ」

「・・・」

「そなたは道長の寵愛を受けて図に乗り、敦明親王と事を構え、親王の従者を死に至らしめた。我が子がこれほど傍若無人な振る舞いをしたあげく、人の命まで奪ったと知って、私は耐え難い苦しみを覚えた・・・そなたがこれから後も増長し、勝手な振る舞いをするようであれば、きっと己の身を滅ぼすであろう。私は、それが心配でならぬ」

 窓辺から吹き込んでくる松風に白鬢がほつれている。定頼は老いた父の顔を見つめていたが、やがて懐から折りたたんだ半紙を取り出すと床に広げた。

朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに

    あらはれわたる瀬々の網代木

「今朝ほど詠んだ和歌でございます」

「・・・これを、そなたが詠んだというのか?」

「はい」

「・・・とてもそなたの和歌とは思えぬ・・・」

「私も、自身のものとは思えませぬ」

 定頼の顔にはいつもの不遜さは見えずむしろ何かを畏れているような気配が感じられるので、公任は息子の話に耳を傾けたのだった。

        *

「長谷寺へ向かう途中宇治で日が暮れましたので一泊いたしましたが、朝まだ暗いうちに目覚めました。川瀬の音も聞こえず静まり返っている。不思議になって川縁を歩いてみたのです」と定頼は話し始めた。

「宇治川の川面は霧に覆われておりましたが、見え隠れに見える流れはひどくさむざむとして、めまいを覚えるほどでした。ぼんやりとて立っておりますと、霧の彼方からなにやら恐ろしい叫び声が聞こえて来たのです。何事かとその方を見ると、霧の中に、年老いた僧侶の姿が見えました。僧侶は霧のただよう水面をまっすぐこちらの方に歩いてまいります。水の上を人間が歩いて来る・・・我が目を疑っておりますと、僧侶は滑るようにこちらに近づいて、やがて岸辺に降り立ちましたが、それは、他ならぬ、源信僧都だったのでございます」

「・・・」

「源信僧都のお姿は二十年ほど前、宮中でお見掛けしましたのですぐにわかりましたま。父上もご存じの通り、源信の名は都内外はもとより、大陸にまで届き、『往生要集』は漢語に訳されて大陸の僧侶たちにも大きな影響を及ぼしていると評判でしたし、源信の阿弥陀如来経を聞いた者はだれでも極楽へ行くことができるとのもっぱらの噂でしたので、道長様は源信に帰依することに決め、宮中に源信を呼んで、権少僧都の位をお授けになられました。寛弘元年(1004年)の事であったと記憶しております。道長様の願いは『極楽往生するための方便』を源信僧都から聞くことでした。ところが源信は一年も経たぬ間に突然辞任して、呼び出しにも応じようともしませんでした。道長様は激怒し、詰問の使者を送りましたが、僧都は、「母の遺言を思い出しましたので、名誉ある地位に就くことは許されぬのでございます」と返答してまいりました。その遺言というのは、源信がまだ十五才の時、学識があまりに光り輝いていたので、村上天皇は源信を抜擢して法華八講の講師の一人に任じ、さまざまな褒美の品を賜りました。源信は喜んでそれらの品々を母の元に届けました。源信の母は、

 後の世を渡す橋とぞ思ひしに

 世渡る僧となるぞ悲しき

         まことの求道者となり給へ

  と詠んで、品々を送り返してきました。源信はこの歌を見て己を恥じ、以後、一切の名誉と地位を辞退することに決めていたので、左大臣から賜った僧都の地位も一度はお受けしたものの、辞退して去ってしまったのです。左大臣は激怒したものの、村上天皇でさえどうしようもなかった源信を捕まえるわけには行かず、不問に付すことにしたのです」

「・・・その経緯は聞かずともよく父も知っている。だが源信は既に亡くなられたのだぞ。入滅の時、源信は阿弥陀如来像の手に結びつけた糸を両手にはさみ、合掌して息を引き取ったと聞いている・・・だが・・・そなたは今朝ほど宇治の川辺で源信僧都を見たと申した。それは確かか」

「お会いいたしました」

「・・では、言葉を交わしたのか」

「はい」

「僧都は、何と申されたのだ」

「川面を指さして、そなたは危うい、と申されました」

「危ういと‼・・・何故?」

「波にもまれて流れてくる人々と同じである、と」

「流れてくる人々とは、何のことだ」

「僧都はこう私に尋ねました」

     *

僧都「あなたの目には何が映っておりますか」

私「・・・宇治川が見えます」

僧都「では、川には何が流れていますか」

「水が流れております」

「水の中を良くごらん下さい」

 言われて、川面に目をやると、それは水ではない・・・血が流れている。真っ赤な・・・黒ずんだ・・・曇り空の夕日のように淡い・・・血の川だ。愕然としていると、霧の向こうから叫ぶような歌声が響いてきた。

 ちはやぶる宇治の渡りに棹執りに

 速けむ人し我がもこに来む

(棹を素早く操る宇治の渡し場にいる人よ、私を助けに来てくれ)

 赤く染まった水に浮きつ沈みつしながら、人が流れてくる。

「あれは‼」

「争いを起こして敗れた応神天皇の第一皇子、大山守命(おおやまもりのみこと)」

「・・・皇子・・・」

「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)との戦に敗れた皇子です」

「しかし、それは神代の昔・・・それがなにゆえ、目の前を、あのように叫びながらながされてゆくのです」

「時に今と昔があるように思うのは、現世の欲望にとらわれているからです。美や真実が時を超越して生き続けるように、欲望と憎悪は時代を超えて人々に取りつきます。

争いを起こして死ねば、三途の川に溺れてどこまでもながされ続け、そして誰かに取りついて、その者を血の池地獄に引きづり込むのです」

「・・・では、私は、この川で溺れて死ぬのですか」

「今のままではそうなりましょう」

 

 凝然として言葉を失っていると、遠くからか細い女の声が聞こえてきた。

  身を投げし涙の川のはやき瀬を

しがらみかけてたれかとどめし

(恋の涙の苦しみに身投げをした宇治川の早い流れに、誰がしがらみを掛けて私の命を救って下さったのでしょう)

「・・・あれは浮舟が詠った和歌・・・では浮船も」

「良きことをせずに己の生をのみ生きようとしたものは、三途の川の藻屑とならねばならぬ・・・そなたもまた、あやうい・・・」

      *

 ふと我に返るとあたりには霧がたちこめ、源信の姿はどこにも見えなかった。 

 朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに     あらはれわたる瀬々の網代木