百人一首ものがたり 61番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 61番目のものがたり「花車」

いにしへの 奈良の都の 八重桜
けふ九重に にほひぬるかな

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「末世ともなると何が起きても驚かなくなりますが、先日、興福寺の僧侶共が武装して奈良から京に押しかけ、公卿の邸に押し入ってさんざんに暴れ、衣類も食料も根こそぎ奪ったと噂に聞きましたが、世も末も極まりました」と心寂坊がため息をつくと、

「興福寺の僧侶共の悪行は今に始まったことではありませんよ。創建当時から東大寺と幾度となく領地争いをしておりますし中でも大和国の国守、(みなもとの)頼親(よりちか)父子との争いは無惨なものでした」

「源頼親・・・」

「源頼光の弟ですよ。道長が『殺人の上手なり』と評した荒武者です」

「恐ろしい人物のようでござります」

「粗暴で始末に負えない性格の者であったようですよ。何につけても武力に訴えて勢力拡大を謀ったので春日大社や興福寺、東大寺などとの所領争いが絶えず、三度目に大和国司に就任した時には興福寺の悪僧共と頼親の次男の頼房が合戦に及んで、数百の死者を出すという惨事を引き起こしました。そのため頼親親子は土佐国に流罪となったのです」

「寺相手に戦争を仕掛けたのですか」

「頼親親子は言語道断ですが、浅ましさにおいては僧侶共も同罪です。仏の教えなどまるでお構いなしに、年がら年中紛争を起こして朝廷を悩ませ続けていましたからね」

「なにが理由でそのように争いを起こしたのでしょうか」

「一つ一つの騒動にはそれなりの理屈はありましょうが、最も根深い理由は南都が見捨てられた事に対する恨みでしょう。桓武天皇は延暦十二年(793)平安京に遷都しましたが、都が移れば全てが変わります。貴族、地下人から庶民にいたるまで数知れぬ者が一斉に奈良から京の都に移りました。商人、料理人はもとより大工、左官、織物職人、染め物やなどの職人から酒造り、飾り物師、紙筆職人、遊女、傀儡師などまでがこぞって移ってしまったのですから、後に残されたのは東大寺・興福寺・元興寺などの大小の寺と僧侶、寺院に品物を納めている商人、下働きの者たちだけでしたから、廃墟同然になったのです」

「・・・」

「かててくわえて桓武天皇は新参者の最澄を重んじて比叡山に延暦寺を建立させ、嵯峨天皇は空海を日本国の精神的支柱として敬愛し、莫大な寄進をしただけでなく内裏内に真言院を設置させたほどですから南都仏教の存在は無きに等しく有様になったのです。ところが最澄空海が亡くなりますと最長が興した天台宗、空海の真言宗それぞれに宗派内対立が生じ、特に比叡山は山門・寺門が武力抗争にまで及んだので、南都は息を吹き返しました。中でも興福寺は藤原氏の菩提寺ですから、兼家・道長が朝廷を牛耳るようになると我が天下到来とばかりに驚喜して、自らの力を誇示するようになったのです」

第61番目のものがたり 「花車」 )

 興福寺の歴史は天智天皇の御代に始まったと伝えられている。大化改新を成功に導いた中臣鎌足は内大臣として朝廷に不動の地位を築き、天皇からいていたが、天智八年秋、突如病に倒れた。鎌足の妻・鏡女王は夫の病平癒を祈願して仏殿建立を発願し、夫鎌足にその意向を伝えた。鎌足は病の床でこれを聞き、心から有り難い事であるとは思ったが、建立には強く反対した。というのも、寺院の建立はそのほとんどが天皇か皇族によって為され、臣下がこれを試みた時はことごとく悲劇に終わっていたからである。

 蘇我氏は欽明天皇の御代、向原の蘇我の私邸を寺と為して仏像を祀ったが、疫病が大流行したため、『異国の神を祀ったからこのような不幸を招いたのだ』として天皇は物部尾輿と中臣鎌子(後の鎌足)に破壊を命じた。蘇我氏は用明天皇・崇峻天皇の時にも氏寺の建立を祈願し、推古天皇の御代に飛鳥寺として完成したが、大化改新によって蘇我氏が滅亡すると、飛鳥寺も破壊された。

 蘇我山田石川麻呂は鎌足と並ぶ大化改新の功臣として右大臣に任じられたが、氏寺である山田寺の建立の途上、反逆の罪で死に追いやられた。こうした経緯をつぶさに知っていた鎌足は、臣下が己の氏寺を持つのはあまりにも危険であると考え、鏡女王の発願を聞き入れようとしなかったのである。しかしこれを伝え聞いた天智天皇は、鎌足の枕辺に行幸され、鎌足に「藤原」の姓を賜り、日本国最高の官位である大織冠(たいしょくかん)を与えると共に、藤原家の氏寺の建立を許した。天皇は大化の改新決行を企てた時、鎌足が蘇我氏打倒を発願して、『大願成就の暁には寺を建立し、釈迦三尊像と四天王像を安置してお祀りいたします』と誓った事を忘れなかったからである。こうして建てられた寺は「山階寺」と名付けられたのだが、後に興福寺と改められ藤原家の菩提寺として隆盛を誇った。

 興福寺と藤原家との関係が通常のものではないことは、桜の花の儀式に最もよく象徴されていた。花の季節になると、興福寺は境内の桜の大木から見事な枝を折り取って藤原家に献ずるという習わしがあり、都が奈良から京に遷都されて後も伝統は受け継がれていた。しかも道長の娘、彰子が中宮にとして入内した後はさらに重要な儀式となり、興福寺から直接宮中の中宮に桜の花を献じるのが定めとなっていたのである。

 こうした事からしても、興福寺から届けられる桜の花の取り入れ役に選ばれるということは、宮廷の女房にとって最高の栄誉であり、輝かしい晴れの舞台とみなされていたので、誰もがその役を命じられること望んでいた。そしてその年の取り入れ役に命じられたのは紫式部だったのだが、紫式部はその役を「是非とも伊勢大輔様にお命じ下さいますように」と譲ってしまったのである。思いもよらない大役に大輔は当惑し「とても私のような者には」と再三ご辞退申し上げたのだけれど、中宮彰子は「紫式部がそなたにと申すのですから、お引き受けなさい。そなたまでが辞退したら、父は『中宮の側には人がおらぬと見える』と皮肉りましょう。あなたなら必ず果たせます」と励ましたので、大輔は覚悟して引き受けたのだった。しかしその日がいよいよ明日に迫ると、大輔は緊張のあまり水さえ喉を通らなくなった。

 やはりご遠慮申しあげるべきだった。もしも失態を演じたら、私ばかりか中宮様にもご迷惑を掛けることになる、そう思うと不安はどこまでも広がるばかりだった。

 密やかな沓の音がこつこつと渡殿に響く。静まりかえった闇の中に突然物言いたげな咳払いがする。几帳の陰からひそひそ声が漏れてくる。

「今年の桜の花の取り入れ役は紫式部様でしたのに、なぜ大輔に渡ってしまったのかしら」

「式部大丞範永様のお話では、紫式部が左大臣道長様に『そのお役は伊勢大輔様にお申し付けいただきますように』と願い出たのだそうですよ。道長様は訝しんで『このような晴れの舞台を、なぜうら若い伊勢大輔に回してしまうのか』とお尋ねになられたのですけれど、紫式部が『どうしても大輔様に』と三度までも言い張るので、道長様も不承不承お認めになられたと聞いていますよ」

「でもそれにしても合点ができませんわ。紫式部のようなお方が他人に晴れ舞台を譲るなどはとても考えられませんもの。あの方は何を考えているか少しも本心を見せない方ですけれど、物語などを書いて得意になっているところからすると、やはり功名心はあるのですよ」

「中宮様に特別扱いされているのでのぼせているのでしょうね。やけに取り澄まして、学問があるということをわざと隠して、そのくせ気取りやで、蔵人の方が何か困ったような顔をすると『そのようなことも知らずにお役目が務まるのかしら』と言いたげに作り笑いをして、何かにつけ、即座に歌を詠んであたりの人々を睥睨してみせたり、そうかとおもうと『ほんの片言の漢詩も読んだことがありません』というように惚けてみせたりして、つかみどころがないというのか、底意地が悪いというか、ほんとうにこんな憎らしい方が宮廷にいるとは信じられない事ですのに、そのような方が晴れの舞台を伊勢大輔に譲ってしまったのですから、いくら考えても不思議ですわ」

 横になって物思いに耽っていると、誰かが近寄ってくる気配がするので振り返ると範永(のりなが)様だった。範永様は床に袖を広げて、

「みんなあなたの噂でもちきりですよ。良い和歌が出来ましたか」

と訊ねるので、

「まだなにも」と答えると、

「まさか、二首や三首はこしらえたでしょう。私が出来映えを聞いてあげますから」という。範永様とは常日頃から親しくしているし、最近はしげしげと通って下さるのでこの方は他の方々とは別なのだわ、と思っていたので、

「どうしたわけか今夜は少しも良い和歌が浮かばないのです」と打ち明けると、

「ほんとうですか、それは心配ですね」と言って添い寝をして、

「それなら私が古今和歌集の中からこれはという花の和歌を思い出してみますから、それを本歌にしては」と述べて、

  見てのみや人に語らむさくら花

手ごとにおりて家づとにせん

と素性法師の山桜の和歌を小声で詠って、「このように山に桜狩りに出かけた景色を思い浮かべてはいかがですか」という。その声をきいて伊勢はふっと心が動いて、

 いずことも知らぬ山路に入りにけり

梢の桜たずね来し間に

 と詠むと、範永は大輔の肩を抱きしめて、

「あなたはなんかとすばらしい方でしょうか。これほどの和歌が口をついて出るとは、さすがに紫式部様が推したわけがわかります。とても明日まで胸に秘めておくことはできません。部屋に戻って書き留めておきましょう」と言って起き上がると急いで出て行ってしまった。

大輔は、桜が到着する前にあの和歌が他の人の目に触れるようなことがあったらどうしようと思ったけれど、『範永様が漏らしたりするはずはないのだわ』と自らに言い聞かせたが、もしもの時には別の和歌を詠まなければと思うと落ち着かなくなって、暗い中であれこれと考えていると、誰かが手探りで近づいて、

「大輔様、いかがです。もう詠めましたか」という声がする。まぎれもない平棟仲様だ。棟仲様は桓武平氏の流れを汲むお方で、母は道隆様の娘だけれど、とても和歌に秀でられておいでなので常日頃からお慕いしている。その棟仲様が明日の事を心配して、

「良い和歌が作れましたか」と訊くので、さきほどの和歌はもう範永様に聞かせてしまったし、同じ和歌をお聞かせして後になってそうだと知れたら恥ずかしいと思って、

「まだ詠めてはおりません」というと、

「それは不安でしょう。私が何か古歌を思い出しますから、それを聞けば思いつくかもしれません。興福寺は古い寺ですから、その気配がある和歌が良いでしょうね」と言って詠んだ和歌は、紀友則の、

  色も香もおなじ昔にさくらめど

年ふる人ぞあらたまりける

 これを聞くと大輔は、

   面影は見しにかはらで八重桜

いろは昔の心地こそすれ

 こう詠むと、棟仲様は驚いて、

「これほどの和歌を即座に作れるとはやはり、花の取り入れ役を紫式部様がお譲りになったのは当然の事です。忘れないうちに書き留めておきましょう」と述べて、

「すぐに戻りますから」と言い残して出て行ったが、それきり戻らないので、大輔は『今夜は特別の夜だから夜離(よがれ)でも仕方がないわ』と思っていると、不意に誰かが入ってきたので、どなたかと思っていると、聞き慣れた香のかおりがするので源頼実様と知れたのだった。

 頼実はつねづね『良い和歌のためなら命も惜しくはありません』と公言し、住吉大社にもそのように祈願しているほどだったので大輔は、『好もしいお方』と思っていたのである。頼実は身を寄せると、

「さきほどどなたかが出てゆくところをちらりと見掛けたのですが、もしや良い和歌が出来たので聞かせたのではないでしょうね」などと訊ねるので、

「いいえ、まだ」と答えると、

「それは意外ですが、今夜は特別な夜ですから是非ともご一緒に考えさせて下さい」と言いながら袂を重ねて、

「桜の和歌は数えきれぬほどありますが、私が殊に好きな和歌は、伊勢御の、

  見る人もなき山里の桜花

ほかの散りなんのちぞ咲かまし

「常日頃は誰も見向きもしない山桜ですが、名所の桜はみな散り果てて、深山隠れの山桜だけがひっそりと咲いている、そんな桜はこれ見よがしの花とはひと味違いますから、私もこうした花のようになりたいと常々願っているのですよ」としみじみとわが身と重ね会わせて述べるので、

「伊勢御の和歌はいずれもすぐれていて、私があれこれいうことなど思いも寄りませんけれど、明日の桜のお役は目出度い儀式の和歌ですから、散りなん後、という言葉は相応しいとは思いませんわ」と言うと、

「ではあなたは伊勢御よりも良い和歌が詠めそうですか」というので、小声で、

   九重に匂ふを見れば桜狩り

重ねて来たる春かとぞ見る

 このように詠うと、頼実は驚いて、

「それほどの和歌をいつお詠みになられたのです」と訊くので、

「いましがた思い浮かんだまま詠んでみたのです」というと、

「私が長年神々に祈願しても少しも良い和歌を詠めないというのに、瞬きをする間に作ってしまうとは・・・でも私が一言申し述べたい事があります。それというのは、先ほど散るという言葉がよろしくないと言われましたが、私はこのような身なのでどうしても桜の盛りを過ぎた時に美しさを感じるのです。紀貫之も、

 春霞なに隠すらんさくら花

ちる間をだにもみるべき物を

 と詠っておりますから、桜は咲くも散るも良いのではないでしょうか」と水洟をすすりながら言うので、

「それは私も頼実さまと同じに思います。でも明日は、やはり目出度い言葉が欲しいものですわ」と言うと、

「しかし、南都は捨てられて既に二百年も経って寂れてしまいましたので、散る花の哀れそのものですよ。そうしたいにしえの都の桜に相応しい和歌がありましょうか」と言う。そこで大輔は、

 これやこの奈良の都の八重桜

にほひも数も知られざりけり

     と歌った。頼実は瞠目して、

「これは何とも・・・さきほども一つ作られましたが、その和歌も今お作りになったのですか」

「はい」

「・・・では・・・それなら、大輔様に是非ともお願いがございます。いま読まれた、これやこの奈良の都の ・・・の歌を、私に下さいませんか」

「・・・それはどのような意味でしょうか」

「私はこれまで命がけで良い和歌を作りたいと思って住吉の神だけでなくあらゆる神仏に祈願してまいりました。そして今宵、私が紀貫之の歌を口ずさむと、たちまちあなたの口から歌がこぼれおちました。ですからあなたが歌った和歌は・・・何と申しますか・・私の願いを叶えるために、あなたの口を借りてこの世に生んだように思えるのです。ですから、是非ともこの和歌を私のものとすることをお許し下さい」

 大輔はあまりにも思いがけない言葉に驚いたけれど、頼実の声が滑稽なほど真剣なので、「どうぞ」とうなずくと、それまでしずまりかえっていた几帳の陰から笑い声がして、

「神様にお祈りしていたのに、大輔さまの和歌をかすめ取るとは何事でしょうか」とあからさまに非難するので、頼実は、

「そのよう言われるのは心外です。大輔さまは私がお訪ねするまでひとつの和歌も詠むことができませんでした。ところが共寝をしたとたんに二つも生まれたのですから、これは私たち二人から生まれた子供のようなものです。その子の一人を我が子とするのがどうして可笑しい事でしょうか」と向きになって言ったので、几帳の陰の女達はもうこらえきれないという風に笑い出した。大輔は『この女房たちは先のお二人の事をさらけ出してしまうのだろうか』とドキドキしたが、さすがにそのようには言わずに、

「頼実さまはもっともらしい口実をこしらえた事ですね。でもよくよく考えてみれば大輔様は大中臣能宣の孫、伊勢の神祇官のお家柄ですもの。そのお口から出るお言葉は神様のお言葉と同じとも言えますわ。まことにさきほどの和歌は神様がお授けくださったのに相違有りませんわね」などと皮肉めいて言うので、大輔は、何もかも筒抜けなのだと思い知らされて哀しくなってしまった。すると頼実はその気配を察して、耳に口を近づけて、

「そのように思い詰めては毒ですよ。さきほどの話は冗談です。誰があなたの和歌を横取りするものですか。あなたがどれほど優れた才能を持っているか、自信を取り戻していただきたくて、あのようにふざけた真似をしたのです。さあ、明日は晴れ舞台ですから、少し眠りましょう」と言いながら頼実が抱きしめたので、大輔は温かい胸の中で目を閉じたのだった。

 ふと気がつくと、誰もいない。頼実さまもどこかに行ってしまった。どうしたのだろうと起き上がって外に出てみると、にぎやかな声が聞こえてくる。歌っているようでもあり、陀羅尼を唱えているようにも聞こえる。伸び上がってその方を見ると、沢山の人々が、花車を押してこちらに近づいてくる。彼らは花車を押しながら衣を翻して、口々に歌っている。

 まてといふに散らでし止まるものならば

何を桜に思いまさまし

 左手の人々がこう詠うと、右手の人々が応えて歌う。

 残りなく散るぞめでたき桜花

ありて世の中はての憂ければ

 歌声が途切れる間もなく、また左手が、

  この里に旅寝しぬべしさくら花

ちりのまがひに家路わすれて

   今度は右手が、

 うつせみの世にも似たるか花ざくら

咲くと見しまにかつ散りにけり

 車が揺れるたびに、花びらが雪のようにはらはらと散る。春風が花びらを巻きあげて霞のようにあたりを淡く覆う。呆然としている間に、目の前を山のような桜の枝を盛り上げた花車が通り過ぎる。

 春の色の至りいたらぬ里はあらじ

咲けるさかざる花の見ゆらむ

 大輔は自分でもそれと気付かぬうちに花車に近づいて、みんなに混じって車を押そうとして、ふと隣を見ると、それは、人ではなかった。

「共に押しましょうぞ」と梵天が言った。

「押しましょうぞ」と帝釈天が頷いた。

「花の車を押しましょうぞ」十大弟子たちが晴れやかに叫んだ。

 四天王が車の四方を取り巻き、阿修羅を先頭に、二十八部衆が「エンヤ、エンヤ」と声を揃えて花車を押して行く。桜の花を載せた車は都大路を朱雀門に向かってゆるゆると進んで行くのだった。

 夜は白々と明けていた。人々の騒ぐ声がする。夢から覚めた伊勢大輔は「もしや、あれは正夢では」とそう思って、蔀戸から外を見ると、紫宸殿の正面に、目の覚めるような花車が見えた。錦の御所車に載せられて、枝振りも見事な桜の花が、朝の光の中で目覚めた天女のように、ぼうと浮かんで、春風にちらほらと花びらをまき散らしている。陶然として廊下に出ると、いつの間に来たのか、道長が回廊の大輔を認めて上機嫌な様子で、

「これほどの桜をよこすとは、興福寺の僧侶たちも、少しは考えていると見える。伊勢大輔、どうじゃ、この花に負けぬ歌を添えてくれぬか」言ったので大輔は和歌を奉った。

 いにしえの奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬるかな