百人一首ものがたり 58番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 58番目のものがたり「そよ人」

有馬(ありま)山 猪名(ゐな)の笹原 風吹けば
いでそよ人を 忘れやはする

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「源氏物語の宇治十帖は大弐三位が書いたと申す者もございますし、大弐三位は狭衣物語の作者とも言われておりますが、本当でこざりましょうか」と心寂房が訊くので、

「宇治十帖は紫式部の心の内部を映し出す鏡のようなものですから、これを別人が書いたのではないかなどと考えるのは愚かなことです。他方、狭衣物語については大弐三位ではなく源頼国の娘の六条斎院宣旨こそ作者だとする説もあります。源頼国は頼光の息子で兄妹には歌人として高名な相模がおりますから、そうした家から王朝物語を書く女房が出たとしても不思議はありません」

「では狭衣物語は大弐三位の作ではないと・・・」

「いえ、大弐三位は紫式部の娘の賢子ですから母の作品には幼い頃から親しんでいたでしょうし賢子は母を心から尊敬しておりましたから物語を書く下地は十分に育っていたと思います。しかし狭衣物語を大弐の三位が書いたという事を証明する記録はありません」

「・・・それにしても三位という位は公卿でござりますから、女房がこれほどの高位を得たとは驚きますが」

「確かに女性としてはこれ以上ないほどの地位です。三位という地位を得た女房で『百人一首ものがたり』と深い関係があるのは藤原高藤の妻となった列子ですよ」

「宇多天皇の后、胤子様の母君ですね」

「いかにも。胤子の母、列子です。胤子は醍醐天皇の生母ですから列子は外祖母となり従三位に叙せられたのです。しかし紫式部の娘・賢子はそうしたことではなく、後冷泉天皇の乳母であったという功績を認められて三位となったのです。親王の乳母になってもこれほどの高い地位を得る者はごく希ですから、賢子という女性が優れていた事は申すまでもないことですが、そうなるまでには母である紫式部の影響が大きな働きをしていたのでしょう」

第58番目のものがたり 「そよ人」 )

 父宣孝は賢子が二つの時に亡くなり、母の紫式部は中宮彰子に仕えして里には滅多に顔を見せなかったので賢子は家司夫婦と共に母の里で暮らしていたが、賢子が八つになった年の正月に、沢山のおみやげを携えて里に戻って来たので賢子は驚いてしまった。母は立派な筆や料紙、硯、墨、貝合わせなどを賢子の前に並べて、

「これはみな彰子様からいただいた大切な品々です。今日からはあなたのものですから、大切になさい」と言い、傍らの乳母に「これからも留守がちになりますが先ほどお願いしたようによくよくこの子に教えて下さい」と頼んだのだった。

 賢子の乳母の夫は内大臣伊周様の家司だったが、内大臣が太宰府に流されて行き所を失ったので、越前守に任じられていた賢子の祖父為時が家司として雇い、妻は賢子の乳母となったので、賢子は生まれてからずっと乳母の胸の中で育った。乳母は漢詩も和歌も心得ていたので、紫式部は彼女を心から信頼していた。

 ひと月ばかりすると宮廷からお呼び出しがあった。紫式部は『源氏物語』の写本を乳母に託して「賢子にいろいろと教えてやってください」と言い置いて去ったので乳母はそれから毎日写本を文机に広げて教えたが、賢子は一度聞くとたちまち覚えてしまうので、乳母はただ驚くばかりだった。

 そんなある日写本をしながら賢子が、

「お母様は私の事をお忘れにならないでしょうか」と言うので乳母は「お忘れになるなどと言うことがありましょうか。なぜ賢子様はそのような事を心配なさるのですか」と訊くと、

「おかあさまがお書きになられた物語を読んでおりましたらこのような草深い田舎とはまるで違いますので、宮廷に住み慣れているお母様はお戻りになりたくないのだろうと思うのです」

「そのようなことはありません。紫式部様は賢子様を誰よりも慈しんでおられます。中宮さまからいただいた宝物もみな賢子に下さったのですから、宮中よりもこの里の方が大切なのです」

「賢子はそうは思いません」

「まあ、なぜでございましょうか」

「母の物語には、光源氏は明石の君と結ばれましたのに、都から赦免の知らせが届くと喜んで戻ったと記されておりますから、やはり田舎は嫌いなのです」

これを聞くと乳母はびっくりして、

「そのように先までお読みになったのですか」

「はい。でも、そこまで読みましたら嫌になって、止めてしまいました」

「そうでしたか。でもせっかく『明石』までお読みになられたのでしたら是非その先までお読みにならなければいけませんよ」

「なぜですか」

「この物語にはお母様のお気持ちが宿っているからです」

「・・・」

「悲しみや苦しみは人間には付きものですが、仏によって必ず救われるとお書きになっておいでですよ」

「でも、源氏の君は明石を去ってしまうのですから捨てられる者の悲しみは尽きません」

「そのようにお考えになってはいけません。紫式部様も、源氏の君も、お優しいお心のお方なのですから、決して無情はいたしませんよ。高貴で地位が高くても無慈悲で薄情なお方もありますが、どこまでも情け深く優しいお方も、この世には必ずおいでになられます。私の主人は内大臣伊周様が流罪となった時、家司でございましたので、世の人々は側に寄るのも汚らわしいという様子でございましたが、賢子様のお爺さま・為時様は私たちを憐れんで、夫を家司と為し、お家を預からせて下さいました。妻の私は賢子さまの乳母とさせていただいたのですから、これほど有り難いことはございません」

 乳母はそう言いながら涙を流すので、

「・・・そのように泣いたら、賢子も泣いてしまいます」というと、乳母は涙を手の平でぬぐって、

「・・・私たちの事はともかく・・・物語の源氏の君のことでございますが・・・源氏の君はようやく都に戻れることになりましたが、そうなれば明石の君と別れなければなりません。でも源氏の君はお優しいしお人柄でしたから、見捨てる気持ちなど少しもなく、いつかは都に呼び寄せる気持ちでいらしたのです」

「ほんとうなのですか」

「はい・・・その証拠に、お母様の物語の『明石』には源氏の君と明石の君の和歌が、ほら、このように記されています。

 このたびは立ち分かるとも藻塩やく

けぶりは同じかたになびかむ

(今度は離ればなれになったとしても、藻塩やく煙が同じ方向になびくように、すぐにいっしょになれるでしょう)

   明石の君の返歌は、

 かきつめてあまのたく藻の思ひにも

今はかひなき恨みだにせじ 

(かき集めて海女が焼く藻塩火のように物思いが尽きませんが、今となってはかいない事ですもの、お恨みさえもいたしません)」

「・・・やはり別れてしまうのですね」

「一度は別れなければなりませんでしたが、源氏の君は少しも明石の君をお忘れにならず、やがて御殿に引き取るのです」

「早くそのところを読んで聞かせてください」

「私が読まずとも、賢子さまならご自分でお読みになれます」

「でも、賢子は読むのがまだ遅いので、待ちきれません」

「そのように急いては良くありません。物語には順序がございますから、あわてて読むと肝心の点がおろそかになってしまいます」

「では、『明石』の次はどのようなお話ですか」

「『澪標』の帖ですよ」

「それは?」

「源氏の君は都に戻って内大臣となられましたが、明石では女の子が生まれました」

「まあ・・・女の子・・・」

「それは美しい御子でしたので明石の入道がさっそく源氏の君にお知らせいたしますと、乳母を明石に遣わされたのです」

「引き取ったのではないのですか」

「引き取ろういう気持ちはございますが、お側には紫の上が居られますし、その他難しい事もございますので、すぐというわけにはまいりませんよ」

「それなら、明石の君はいつになったら源氏の君とお逢いできるのですか」

「それまでにはまだまだ・・・賢子様、ごらん下さい。これほどに沢山ございます」

 乳母が次々に広げるのを見ると、「澪標」の次は「蓬生」、それから「関屋」「松風」「薄雲」「朝顔」とあって、

「明石の君が源氏の君の六条院に迎えられるのは、この次の『少女』の帖でございますよ」

「そんなに先なのですか」

「お母様はさまざまな物語をお作りになって、賢子様を楽しませようとなさっておいでなのです」

「お母様は、これほどたくさんのものがたりをお書きになられたのですね」

賢子は冊子を手にとってつくづくとながめた。

 賢子が乳母と平穏な日々をすごしていた年の九月、紫式部が急に里帰りした。これほど早く母に会えるとは思ってもいなかったので、

「お母様、どうかなさったのですか」と尋ねると、

「客星が現れたので恐ろしい事が起こるのではないかと宮中が騒がしくなりましたので、しばらく戻ることにしたのです」

 賢子が生まれる前年にも客星が現れ、忌まわしいことがいくつも起こったのだった。三筆の一人、藤原佐里が突然亡くなり、中宮定子の父・高階成忠様も他界された。それから遠い陸奥国では流罪同様に都を離れていた中納言実方様が憐れな最後を遂げたとの噂が伝わった。

その翌年にも客星が出て疫病が流行り、中宮定子、東三条院詮子が亡くなられた。それだけではない。賢子の父宣孝までもが病の床につくと間もなく命を落としてしまったのだ。こうした不幸な出来事が相次いだので、賢子は幼い時からもしや不吉な星が出ているのではないかと夜空の星を見るたびに恐れた。

けれども客星はその後十数年の間現れなかったので忘れかけていたのだけれど、この秋になって不意に出現したので賢子は胸がさわいで夜もよく眠れなかった。賢子ばかりではない。世間の人々の恐れ方も尋常ではなかった。寺々は日夜加持祈祷を絶え間なく執り行い、宮中でもさまざまな祈祷を行って客星が消えるのをひたすら祈った。そうした中、紫式部は宮廷を離れて里帰りしたのだが、若い女房がお供でついてきたので、紫式部は近隣の若い女性たちに琴を教えて時を過ごしたりすることもあった。賢子は星空の下で琴を弾く母の姿が不思議に見えてならなかった。

「お母様は恐ろしくはないのですか」と賢子はある日母に尋ねた。

「賢子はなぜそのような事を訊くのですか?」

「琴の音がとても楽しげに聞こえますので、客星を恐れているようには思えません」

「あなたはほんとうに賢い子なのですね。それではわけを教えましょう。私が宮中を離れたのは客星が現れたからではありませんよ。客星など少しも怖いものではないのです」

「でも、お父様はあの星のせいで亡くなられたのでしょう」

「お父様が亡くなられたのは客星が現れた年でした。でもお父様の命を奪おうとして現れたのではありませんよ。星はどのような星でも美しいものです」

「・・・」

「日月は仏の慈悲と同じに、人の世に平等に注いでいるでしょう。星とて同じですよ。客星は、この人を殺そう、この人を生かそうと考えて現れたのではなく、誰にも同じ光を注いでいるのです。客星が現れ疫病が流行ると大勢の人が亡くなるのは悲しいことですが、その悲しみは誰にも平等に訪れるのです。疫病の苦しみや恐ろしさは公卿にも貧民にも平等です。死も同じように訪れます。客星が現れて人が死ぬとしたらそれは運命ですから避けようがありません。どれほど高い身分に生まれても、神仏のご加護を受けようとしてもどうしようもないのです」

「・・・」

「人が恐れなくてはならないのは、客星や天地の異変ではなく、もっと別にあるのですよ・・・これをごらんなさい」

  紫式部は半紙に和歌を書いた。

  暮れぬ間の身をば思はで人の世の

哀れを知るぞかつは哀しき

「これはどなたの和歌ですか」

「私です。人にはあなたのように美しく若い時がありますが、やがてはこの母がそうであるように夕暮れを迎えます。願おうと願うまいとその時は来るのですから、人はこの世にあるわずかな時を、お互いにいたわり合いながら過ごすべきなのですが、哀しいことに、人の世は誰にも思うようには行かないものなのです」

「・・・」

「賢子は母に何か尋ねたいのでしょう。何でもお聞きなさい」

「・・・賢子は、お母様は何もかも思うようにできるお方なのだと思っておりました」

「まあ、なぜそのように思うのですか」

「乳母もいろいろとお話して下さいますし、この度お連れになられた女房の方も、中宮彰子様はお母様を大層大切になされて、源氏物語を自ら写本なされておられるので、宮中で読まぬお方は一人も居られないと聞いております。それほど優れたお母様は、何事でも思うようになっておいでなのだと考えておりました」

 これを聞くと紫式部はふと微笑して、

「そのような事を考えていたのですか・・・では母から賢子に訊ねることにしましょうね。あなたはこの母が、女として満足できる人生を送ってきたとお思いですか・・・あなたの母は、あなたの父の宣孝様と、小町の歌のような恋をしたとお思いですか」

「・・・私は・・・お父様と仲睦まじかったとは聞いております」

「そう・・・賢子のお父様はお優しいお方でした。でも宣孝様は私だけを愛してくださったのではありません。あなたはまだ十才ですけれど、大切な事ですからお話しておきますが、宣孝様には正式の妻が母の他に三人ありました。私と年齢が近かったのは三条中納言藤原朝成(あさひら)様の娘ですが、朝成様は三条右大臣定方様のご子息ですから賢子も知っていますね」

「はい。三条右大臣のお父様は鷹狩りに行って雨に降られ、そこで美しい娘に恋をしたと聞いております」

「そう・・・宣孝様の三番目の妻は、その定方様の孫に当たります。また、朝成様の兄の朝忠様は天徳歌合に出詠したほどの歌人でした。私が宣孝様とお逢いするようになった時には既にそうした優れたお血筋の方々がおいでになりましたし、私と深い仲になって後もその方々の処にしばしば通っておられたのです」

「・・・」

「宣孝様のお心は少しずつ私に寄るようになってあなたを授かりましたが、それもほんの数年の喜びで、突然亡くなられました・・・あなたはまだ恋をしたことがないのですから、このようなお話を聞いて当惑するかも知れませんが、やがては否応なしに知らねばならないのですから、お話したのですよ」

 紫式部は里にいる間、賢子に毎日さまざまな話を聞かせてくれたので、母が宮廷からお呼び出しを受けて里を去っても以前ほど寂しいとは思わなかった。

 賢子が母の後を継いで上東門院に出仕するようになったのは十八才の時だった。紫式部の娘というので多くの殿上人が近づこうとしたが、中でも大納言公任の子定頼は熱心に言い寄った。定頼には妻があったが、教養豊かで優しかったので、賢子はこのお方こそ、と思い定めて心を許したのだった。ところが賢子の思いに反して定頼は源頼光の娘相模と深い仲になり、訪れも途絶えがちになったので賢子は耐え難く思って和歌を書き送った。

 いく声か君は聞きつるほととぎすいも寝ぬわれば数も知られず

(あなたはほととぎすの声をお聞きになりましたか。私はあなたの事を思って少しも眠れませんでしたので、幾度その声を聞いたか数え切れないほどでしたのに)

 定頼から返ってきた和歌は、

二夜三夜またせまたせてほととぎすほのかにのみぞ我が宿になく

 (私は二晩も三晩も待っておりましたがその果てに、ほんのちょっとばかり、私の家で鳴きましたよ)

 

  それから定頼は少しの間通ってきたが、すぐにまた途絶えたので、

 つらからん方こそあらめ君ならで誰にか見せん白菊の花

(私がこれほど思っているのであなた様は辛いとお思いでしょうが、あなた以外に誰にお見せしましょうか、この白菊の花を)

 書き送ったけれど何の返しも無いまま長い冬が過ぎて春になった頃、定頼から梅の花つけて文が届いた。

 見ぬ人によそへて見つる梅の花

ちりなん後のなぐさめぞなき

(逢おうとしてもあえない人によそえて見た梅の花は、散ってしまった後はなんの心の慰めにもなりません)

  返し、

 春ごとに心をしむる花の枝に

たがなおざりの袖かふれつる

(春がくると私の心は梅の枝に占められてしまいますが、いいかげんな気持ちで袖を触れて散らしたのはどなたでしょうか)

 こうした間にも定頼が相模や他の女と忍び逢っているという噂を耳にするので、もう思うまい、と己に言い聞かせるのだけれど、辛さに堪えられず病がちになって伏せっていると、客星が現れた時に母のお供で里についてきた女房が訪ねて来て、

「これは紫式部様がお預かりした文でございます」と差し出したので、開けて見ると、母の手で、

「上東門院彰子様があなたの心痛をご心配なさって私に文を下さいましたので老いた私も捨てては置けないと思って、お届けするのです。いつぞやお話しましたように、あなたが思い悩んでいる苦しみは誰も避けられない定めなのですから諦めるより仕方がないのですが、今のあなたには難しい事なのでしょう。けれどもしもあなたがその苦しみを断ち切りたいと本心からお思いなのでしたら、次の和歌をごらんなさい。これはあなたの慕っている定頼がある女房と交わした和歌なのです。その女房というのは、誰とは申せませんが、女院の御所に仕えるひとりで、とても美しく、我慢強く、才能も豊かな女性で、定頼とは誰よりも深い仲になりましたが、定頼は多くの女房と浮き名を流しておりましたので、次第に耐え難くなって、密かに涙に暮れておりましたが、だからといって誰に相談することもできず、苦しくなるばかりなので、せめてその思いを和歌に詠んで気を紛らわせようとしていましたところ、定頼からこんな文が届きました。

 添え書きに・・・折悪しく、出歩くこともままならずに、例の所に行って気を紛らわしているのだがね・・・、

 恋ひわびてあい見し床に立ち寄れば

枕に塵ぞ待ちいたりける

(心にもない人の処に行ってもつまらないばかりなので、あなたが恋しくてたまらなくなって、君の床に立ち寄ったところ、君はどこの誰のところに行ってしまったのだろうか、二人の事を何もかも聞いていた枕には塵ばかりが積もっていたことだよ) 

 女房はこれを見て、

しきたへの枕はさもやなかるらん

待ちゐし塵はかずつもりにき

(あなた様は他の枕もありましょうから、お言葉のような事はないでしょうが、お待ちしていた私の枕には塵が積もってしまった事ですよ)

 

 この女房はあなたが宮仕えする以前から定頼と深い仲でしたし、今もそうなのです。むろんこうした事は宮中では日常茶飯事ですからめくじらを立てるほうが愚かとも申せますが、気になるのはここに、『あやにくこのごろはありきもせでつれづれなるままに例の所にいきつつなぐさむる』と見える事です。『例の所』とは誰の所なのでしょうか。

 あなたが定頼に引かれる気持ちは分かりますが、あのような男は決して女を幸せにしてくれません。

 あなたは『花散る里』の麗景殿女御を光源氏が訪れて和歌を贈答する場面があるのを覚えておいでですか。光源氏が、

 橘の香をなつかしみほととぎす

花散る里をたづねてぞとふ

(橘の香りは昔の人を思い出させると言われておりますが、ほととぎすも昔を偲んで花散る里に訪ねてまいりました)と詠むと、

 ひと目なく荒れたる宿はたちばなの

花こそ軒のつまとなりけれ

(訪ねてくる人もなく荒れ果ててしまったこの宿に、橘の花が軒端に咲いて、あなたをお誘いするものとなりましたよ)

 このお二人は常の男女のようにお会いしたのではありませんが、もしこの世の男が光源氏のやさしさを少しでも分かち持っていたなら、哀しい定めに耐えている女の気持も救われるでしょう。でも、そうでないとしたら、耐えている意味はありません。

 あたはまだ若いのですから、良いお方と巡り会うご縁もありましょう。どうか、母の気持ちがあなたに伝わりますように、ひたすら神仏に祈っております。      かしこ  」

 賢子が文を受け取ってから一年後、紫式部はこの世を去った。後年賢子は東宮権大進高階成章と結婚し、優れた歌人として名声を馳せた。中でも有馬山の和歌には宮中の者はみな心打たれて、『そよ人とは、誰のことを思って詠んだのだろうか』と評判になったが、賢子は微笑して答えなかった。

  有馬山ゐなの笹原風ふけば いでそよ人を忘れやはする