百人一首ものがたり 57番
目次
めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に
雲がくれにし 夜半(よは)の月かな
百人一首ものがたり
- 百人一首ものがたり 100番 順徳院
- 百人一首ものがたり 10番 蝉丸
- 百人一首ものがたり 11番 参議篁
- 百人一首ものがたり 12番 僧正遍昭
- 百人一首ものがたり 13番 陽成院
- 百人一首ものがたり 14番 河原左大臣
- 百人一首ものがたり 15番 光孝天皇
- 百人一首ものがたり 16番 中納言行平
- 百人一首ものがたり 17番 在原業平朝臣
- 百人一首ものがたり 18番 藤原敏行朝臣
- 百人一首ものがたり 19番 伊勢
- 百人一首ものがたり 1番 天智天皇
- 百人一首ものがたり 20番 元吉親王
- 百人一首ものがたり 21番 素性法師
- 百人一首ものがたり 22番 文屋 康秀
- 百人一首ものがたり 23番 大江千里
- 百人一首ものがたり 24番 菅家
- 百人一首ものがたり 25番 三条右大臣
- 百人一首ものがたり 26番 貞信公
- 百人一首ものがたり 27番 中納言兼輔
- 百人一首ものがたり 28番 源宗于
- 百人一首ものがたり 29番 凡河内躬恒
- 百人一首ものがたり 30番 壬生忠岑
- 百人一首ものがたり 31番 坂上 是則
- 百人一首ものがたり 32番 春道列樹
- 百人一首ものがたり 33番 紀友則
- 百人一首ものがたり 34番 藤原興風
- 百人一首ものがたり 35番 紀貫之
- 百人一首ものがたり 36番 清原深養父
- 百人一首ものがたり 37番 文屋朝康
- 百人一首ものがたり 38番 右近
- 百人一首ものがたり 39番 参議等
- 百人一首ものがたり 40番 平兼盛
- 百人一首ものがたり 41番 壬生忠見
- 百人一首ものがたり 42番 清原元輔
- 百人一首ものがたり 43番 権中納言敦忠
- 百人一首ものがたり 44番 中納言朝忠
- 百人一首ものがたり 45番 謙徳公
- 百人一首ものがたり 46番 曽禰好忠
- 百人一首ものがたり 47番 恵慶法師
- 百人一首ものがたり 48番 源重之
- 百人一首ものがたり 49番 大中臣能宣朝臣
- 百人一首ものがたり 50番 藤原義孝
- 百人一首ものがたり 51番 藤原実方朝臣
- 百人一首ものがたり 52番 藤原道信朝臣
- 百人一首ものがたり 53番 右大将道綱母
- 百人一首ものがたり 54番 儀同三司母
- 百人一首ものがたり 55番 大納言(藤原)公任
- 百人一首ものがたり 56番 和泉式部
- 百人一首ものがたり 57番 紫式部
- 百人一首ものがたり 58番 大弐三位
- 百人一首ものがたり 59番 赤染衛門
- 百人一首ものがたり 60番 小式部内侍
- 百人一首ものがたり 61番 伊勢大輔
- 百人一首ものがたり 62番 清少納言
- 百人一首ものがたり 63番 左京大夫(藤原)道雅
- 百人一首ものがたり 64番 権中納言定頼
- 百人一首ものがたり 65番 相模
- 百人一首ものがたり 66番 大僧正行尊
- 百人一首ものがたり 67番 周防内侍
- 百人一首ものがたり 68番 三条院
- 百人一首ものがたり 69番 能因法師
- 百人一首ものがたり 70番 良暹法師
- 百人一首ものがたり 71番 大納言経信
- 百人一首ものがたり 72番 祐子内親王家紀伊
- 百人一首ものがたり 73番 権中納言匡房
- 百人一首ものがたり 74番 源俊頼朝臣
- 百人一首ものがたり 75番 藤原基俊
- 百人一首ものがたり 76番 法性寺入道前関白太政大臣
- 百人一首ものがたり 77番 崇徳院
- 百人一首ものがたり 78番 源兼昌
- 百人一首ものがたり 79番 左京大夫顕輔
- 百人一首ものがたり 80番 待賢門院堀河
- 百人一首ものがたり 81番 後徳大寺左大臣(藤原実定)
- 百人一首ものがたり 82番 道因法師
- 百人一首ものがたり 83番 皇太后宮大夫(藤原)俊成
- 百人一首ものがたり 84番 藤原清輔朝臣
- 百人一首ものがたり 85番 俊恵法師
- 百人一首ものがたり 86番 西行法師
- 百人一首ものがたり 87番 寂蓮法師
- 百人一首ものがたり 88番 皇嘉門院別当
- 百人一首ものがたり 89番 式子内親王
- 百人一首ものがたり 90番 殷富門院大輔
- 百人一首ものがたり 91番 後京極摂政前太政大臣
- 百人一首ものがたり 92番 二条院讃岐
- 百人一首ものがたり 93番 鎌倉右大臣
- 百人一首ものがたり 94番 参議雅経
- 百人一首ものがたり 95番 前大僧正慈円
- 百人一首ものがたり 96番 入道前太政大臣
- 百人一首ものがたり 97番 権中納言定家
- 百人一首ものがたり 98番 従二位家隆
- 百人一首ものがたり 99番 後鳥羽院
- 百人一首ものがたり 2番 持統天皇
- 百人一首ものがたり 3番 柿本人麻呂
- 百人一首ものがたり 4番 山部赤人
- 百人一首ものがたり 5番 猿丸太夫
- 百人一首ものがたり 6番 大伴家持
- 百人一首ものがたり 7番 阿倍仲麻呂
- 百人一首ものがたり 8番 喜撰法師
- 百人一首ものがたり 9番 小野小町
小倉庵にて 権中納言藤原定家と主治医・心寂坊の対話
「紫式部というお方は難物です」と定家が珍しく弱音を吐くので「中納言様は源氏物語を幾度書写なされておりますのに、一体どのように難しいのでございますか」と心寂房が訊ねると、
「何も書いていないのです。紫式部が誰かと話しをする時には万事よくよく考えた上での発言なのですから、まして文字に残すとなれば、よほど注意しているので、後の世の者が読むとこれはいったい何を意味しているのだろうかと、判じ物に出会ったように困惑してしまうのです」
「しかし紫式部は源氏物語を書いた上に日記も残しておりますので、ずいぶんと明らかに分かるのでは・・・」
「日記ほどあてにならぬものはありません。私人ならいざしらず、宮廷の女房ともなれば書いて良い事とそうでないことを峻別していますから、見たり訊いたりしても九分通りは書かず、思ったこともまた滅多なことを申しません。その事を彼女は〈かういと埋もれ木を折り入れたる心ばせにて(私は埋もれ木をさらに深く土の中に折り入れるという心の持ち主なので)〉と述べております。またこう記しています。〈すこしよろしからむと思ふ人は、おぼろにて出でゐはべらず。心やすく、もの恥ぢせず、とあらむかからむの名をも惜しまぬ人、はたことなる心ばせのぶるもなくやは〉」
「・・・私には、何の事かよく分かりませぬが」
「それはつまり、少しでも自覚があり中宮の側に居る者として人並みであろうとしている女房は、よほどの事でなければたとえ朧にでも姿を現すというようなことはいたさぬものです。もっともそうではなく、心やすく振る舞い、恥も知らず、名を惜しまぬ者はべつでござりましょうが・・・と述べているのです」
「それでは、人は姿を現さず、何も口に出さぬが良いと、このように言っているのでしょうか」
「いかにもその通りです。だから判じ物のようだと申しているのです」
「しかし、紫式部の日記にはさまざまな心情が吐露されているのでは」
「日記がくせ者です。日記があるからこそ、世の人は容易に騙されてしまうのです」
「騙される?それはいかなる事でござりましょう」
「心寂房殿、そのお顔はずいぶんと心外という面持ちのようですが、それならお尋ねしますが、紫式部の日記はいつからいつまでの事が書き記されているのでしょうか」
「それは、紫式部が後宮に上がっていた時期全般の出来事があれこれと記されているのではなかろうかと存じますが」
「そうお思いでしょうが、それが間違いのもとです。彼女の日記は寛弘五年七月十九日に始まり、寛弘七年一月で終わっています。たった一年半しか書いていないのです。もちろん、前後が散逸してしまったという推量もあり得ますが、私はそうは思いません。彼女は書くべき事はこの中に全て書き、書いてはいけない事は寸分も書かなかったのです」
「書いてはならぬ事とは、何でござりましょう」
「書いてはならぬことと紫式部が判断した出来事は数知れずあったことでしょうが、中でも決して口にしてはならず、書くことなどとても許されないと思われた事は、〈東三条院呪詛事件〉です」
「・・・そのような事件の話は聞いたこともござりませんが、それはいつの時代の出来事なのでしょうか」
「紫式部が中宮彰子に仕えていたまさにその時に起きた大事件です。これに匹敵するのは源高明が陰謀罪で左遷された『安和の変』でしょうか」
「それほどの事件が紫式部の頃に起きていたとは全く存じませんでした」
「心寂房殿がご存じないのですから、世の人は微塵も知らないのも道理です。しかしこれは知らぬではすまされぬ大きな出来事です。というのも、左大臣道長と中宮彰子そして生まれたばかりの敦成親王、この三人を呪い殺そうとしたとして、准大臣・伊周の叔母である高階光子とその一味が逮捕され、伊周は直ちに朝参を止められたのですからね」
「しかし、伊周は花山院暗殺未遂で太宰府へ送られたのでは」
「伊周と隆家兄弟は長徳二年(996年)に配流となりましたが、翌年には大赦によって伊周は廟堂に復帰して朝儀にも加わっていたのですよ」
「太宰府送りになった者が朝儀に加わるとは」
「異例なことですが、その理由の第一は伊周が太宰府に流されていた間に良からぬ事がしばしば起こりました。その第一は、一条天皇の生母である東三条院詮子が重病に陥ったことです。三条院は兼家の次女で道隆・道兼・道長の同母兄弟ですが、詮子は道長が幼い頃からとりわけ可愛がり、道隆と道兼が相次いで亡くなると道長を強く推して右大臣に据えたのです・・・伊周は父の道隆や叔父の道兼の贔屓もあって道長よりも遙かに出世が早く、二十一才にして八歳年上の叔父道長を飛び越えて内大臣に昇進していたのですが、詮子はこれを面白く思わず、道隆と道兼が亡くなると一条天皇に道長を右大臣にするように執拗に迫り、天皇の心が伊周に傾いているとあると知ると涙を流して『道長を』と説得したのです。詮子は天皇の生母ですから、母がそこまで主張するのを天皇は反対できず、終に道長は右大臣の地位を得ました。こうした次第ですから道長は伯母には恩義を感じ大切にしましたので、彼女は強い発言権を持ち朝廷の政事にもしばしば口を挟みましたので、事態を嘆いた実資は『小右記』に〈国母専朝〉と書き記したほどです」
「・・・」
「その三条院詮子が重体になったので宮中ではこれは祟りではないかと怯える者が多く、さすがの道長も困惑していた折も折、宮中を追われていた定子が一条天皇第一皇女脩子内親王を生みました。道長の娘彰子はまだ御子はありませんでしたから帝は歓喜して定子の再入内を願ったのです。しかしそうなると后の兄が流罪では困ります。道長は仕方なく伊周兄弟を許し、太政官符を以って召還することに決めたのです」
「なんと・・・しかし罪が晴れたからといって朝儀に復帰するのとは常にはあり得ない事と存じますが・・・」
「たしかに流罪になっていた者が数年を経ずして朝儀に加わるのは異常な事態ですがおそらくその理由は、偏に伊周の抜群の才能の故だったのでしょう」
「・・・」
「伊周という人物が世に知られているよりはるかに優れた人物だったらしく、大鏡は伊周が太宰府に流される折こんな事を書いています。
〈この殿も、御才日本にはあまらせたまへりしかば、かかることもおはしますにこそはべりしか〉
即ち、何もかも人並み外れていたので、日本には収まらなかった、というのです・・・また、伊周の不運を唐の白居易に比して、
〈白居易は世に知られた賢臣であったが、度々流罪の憂き目にあった。だからこうした罪に遭うのは自らの過失によるものばかりではない。容貌・学才・何事にも人の身に過ぎている人は唐にも日本にもあることなのです。昔には道真公がそうでありました〉
と書き記しているのです。伊周を白居易や道真公の例に比べるとは行き過ぎのようにも思えますが、伊周の詩文は『本朝麗藻』『本朝文粋』『和漢朗詠集』にも納められ、道長など足下にも及ばない優れたものであることは確かなのです。そうした事がもろもろとあって、伊周は朝廷に復帰を果たしました。すると運はさらに伊周に見方しました。中宮定子が長保元年(999年)に第一皇子敦康親王を生んだのです。兄の伊周は歓喜して躍り上がったと記されています。というのも道長の娘・彰子には子がなかったので、もしもそのままになれば定子が国母となることになり、伊周は外戚となるのですから、喜びは格別であったでしょう。公卿たちは皇子が誕生すると、昼は道長の前に出仕し、夜は密かに伊周のご機嫌をうかがうという有様でした」
「・・・」
「定子が皇子を生んだ後も彰子には幾年経っても懐妊の兆しもなかったので、道長は危機感を抱いて、定子の生んだ皇子の一の宮を彰子の子とすることにしました。皇子を横取りしたのです。それだけではありません。道長は定子の二人の内親王も引き取って育てることにしたのです。こうした事は道長のあまりにも強引で悪辣なやり方に思え、朝廷でも眉をひそめる者も数多くいたのです。ところが、道長のこの手法が功を奏しました。定子は第二皇女を出産しましたが、後産が降りず、亡くなったのです」
「何と・・・」
「大雪の降る朝でした。伊周は妹・定子の遺骸を抱きしめ、裸足で雪の中を歩いて、慟哭しました・・・そして伊周にとって恐れていた事が起きたのです」
「・・・」
「彰子が敦成親王(後の後一条天皇)を産んだのです。この時の中宮の邸の大騒ぎの様子は紫式部日記に詳述してあります。そしてそれから半年ほどした寛弘六年二月二十日、呪詛事件が起きました。伊周の叔母の高階光子と定子の乳母子源方理一味は捕らえられ獄に繋がれました。道長は伊周の叔父の明順を呼びつけて「こんな不届きな心を持っていたとは、何たることだ。そなたたちは天罰を被るであろう」と恐ろしい声で叱責しました。明順は衝撃のあまり数日後に頓死し、内大臣伊周は失意の余り病の床に伏し、翌年正月に死んだのです」
「・・・」
「心寂房殿。この一連の出来事は大事件であるとはお思いになりませんか。時の権力者道長と中宮彰子、生まれたばかりの皇子を呪い殺そうとする事件が発生した。しかもその陰謀を企てた一味は内大臣の一族だったというのですからね。心寂坊殿はどのように思われますか」
「確かに朝廷を震撼させた大事件であると思います。薬子の乱、あるいは、安和の変に匹敵すると中納言様が申されるのも道理と思います」
「薬子の乱や安和の変に関しては多くの記録が残されておりますから、史家だけでなく、一般の者もいきさつをよく知っています。ところがどうした事か、〈東三条院呪詛事件〉については記録がありません。紫式部は事件について一言も書いておりません。彼女は事件の前年の七月に日記を書き始め、伊周が死んだその月に筆を置いているのですから、紫式部は一部始終を後世に書き残すことができたでしょう。それなのに何も書いていないのです。しかしこの事件は特別なものであったらしく、実資の『小右記』にも記載がないのです」
「記載がないとは、どういう事でしょうか」
「『小右記』の目録には寛弘六年の二月五日の項目に〈圓能法師呪詛左府事、〉とあります。圓能は高階光子が左府・道長を呪い殺すために以来した僧侶です。ですから実資は明らかにこの件を書かねばならないと考えたと思われます。ところがどうしたわけか、その後の記載が欠如しているのです。『小右記』の記録は寛弘五年十二月の記事から、二年間空白になり、寛弘八年正月から再び始まっている。その部分だけが抜き取られているのです」
「誰かが盗み取ったのですか」
「真実は分かりません。しかし「〈東三条院呪詛事件〉について書くことはまかりならぬ、という命令が発動され、そのため、実資ほどの実力者でも書くことが許されなかった。あるいは、書いたものを奪われるという事態が生じたと考えられます」
「・・・道長が命じたのでしょうか」
「無論です。そうでなくて、誰がそのような無体なことをできましょうか。しかしもしも道長の命令が完璧に執行されていたら、〈東三条院呪詛事件〉の存在そのものも後世には知られず、その名さえも不明になるという事態が生じたでしょう。ところがそうはならなかった。なぜだとお思いですか」
「・・・どなたかが密かに書き残したと・・・それ以外には考えられませんが」
「まさしくそれです。右大臣実資は、自分が書くことは困難かも知れないが、誰か別の者に記録させることは可能ではないかと考え、明法博士惟宗允亮を密かに呼んで、朝廷の政務運営の全てを書き残すように依頼し、允亮はこれに応えて全百三十巻もの膨大な記録を残しました。この記録があるからこそ私たちも事件の詳細を知る事ができるのです」
「・・・しかし、紫式部が、道長を恐れて書かなかったとは思いたくありませんが」
「紫式部は日記に次のように記しています〈夢にても散りはべらばいといみじからむ・・・(この書いたものが夢にも世間に広まってしまったりしたら大変なことになりましょう。この頃は反古などもみな破り捨てて焼いてしまいました)〉」
「焼いた・・・」
「紫式部は用心に用心を重ねていたのです。というのも、道長はすべての人間を常時監視していましたが、特に物書きをする人物には細心の注意を払っていたのです。なぜなら、彼らの書いたものは後世に残り、時を超えて影響を及ぼすことを知っていたからです。ですから、道長は紫式部の才能を認めながら、不都合な事を書きはしないかと警戒し、厳しく監視していたのです」
「まさか、そのような」
「いいえ、事実です。寛弘六年十一月十日に次のような記載が見られます・・・その時中宮彰子が物語の冊子を作っているのを見て道長は彰子に筆や硯、薄紙を与えました。彰子は自分がこれを使うよりも紫式部が使ったほうが良いと考え、紫式部に贈与しました。すると道長はもったいないことをするものだ、と思う一方、「そうだ、そうしよう」と考えついて、紫式部にさまざまな文具を取りそろえて与えました。御堂関白から頂戴物をしたのですから、式部はそれらを自分の局に大切に並べ、保管したのです。すると、その後何が起きたかと言えば、紫式部が局を離れた隙に家捜しが行われたのです」
「いったい誰がそんなことを」
「道長ですよ。紫式部は次のように日記に記しています。
〈局に物語りの本どもとりやりて隠しおきたるを・・・実家から持ってきた物語の書物を自分の部屋に隠しておいたのですが、私が中宮彰子様のお前に出仕している間に、それを見計らって殿がこっそりとおいでになり、あれこれと漁って、道長様の次女である妍子様に与えておしまいになられた。そのため清書したものなどはみな手元とからなくなってしまい、私が書いたものが他人の手に渡って見られたので、妙な評判をとるのではないかと気懸かりでなりません〉」
「・・・」
「信じられないかも知れませんが、道長は紫式部の局に入り込んで何もかも奪い取り、反故などまで目を通し、めぼしいものは持ち去って次女にやってしまったのです」
「・・・」
「しかし紫式部は用心深い女性ですから、こうした事が起こるであろう事をあらかじめ予測していました。だからこそ彼女は見たままには書かず、書いても良い事のみを書き、差し障りがあるものはどれほどの重大事でも書かなかったのです」
「・・・しかし、見て見ぬふりをして大事を何も書かなかったとあっては、無害なものばかりが書き記されたということになりましょう。そのような物は何の価値もないのでは」
「それがそうではありません」
「・・・」
「書ける事は見聞きしたことの一部だとしても、その一部には大変な価値があるのです。紫式部の文章を読んでいますと、陰と陽とが複雑に交錯してこれが一人の人間が書いたものなのかと不思議になるほどです。源氏物語の前半と、後半の宇治十帖がその良い例ですが、日記にもそれが良く現れています。中宮彰子が皇子を産んだ時の記述はほのぼのとして道長が皇子を抱き上げた時に御小水を掛けられると〈ああ、この若宮の御尿に濡れるのはうれしいことだなあ〉などと喜ぶ様を描いているかと思えば、次の日には〈めでたいことやおもしろいことを見聞きするにつれ、ただもう早く出家してしまいたいという気持ちばかりが強くなって、物憂く、思うにまかせず、嘆かわしいことのみがまさってくるので、苦しくてならない〉と書き綴っている。この心の乱れは、彼女が夢に見ている理想の世と現世とのあまりの隔たりの大きさに絶望している事の現れなのですが、当時は阿弥陀如来信仰が広く行き渡っておりましたから、現世を厭い、早く出家したいと書いたからといって、世を批判した事にはなりませんし、道長も怪しむはずはありません。それを紫式部は逆手にとって、彼女は見聞きしている有様を暗示的に書き記したのです」
「・・・」
「紫式部が清少納言や和泉式部を批判している事は良く知られていますが、紫式部の目から見ると、彼女たちはいかにも浅はかで、危うげに見えたのでしょう。心寂房殿は紫式部集をご覧になった事がございますか」
「いいえ、お恥ずかし事ですが」
「ここに紫式部集からいくつか書き出しておきましたので、ご覧下さい。
ことわりや君が心の闇なれば
鬼の影とは著るく見ゆらむ
帰りては思い知りぬや岩角に
浮きて寄りける岸のあだ波
身の憂さは心の内に慕ひきて
今九重に思ひ乱るる
憂きことを思ひ乱れて青柳の
糸ひさしくもなりにけるかな
わりなしや人こそ人といはざらめ
自ら身をや思ひ棄つべき」
「これほどに辛い和歌を詠んでいたとは」
「私が最も驚かされましたのは、次の歌です。
東雲のそら霧わたりいつしかと
秋の景色に世はなりにけり
この歌を見たとき、私はまるで自分の歌が本歌取りされたような妙な気持ちになりました。その私の歌というのは、
見渡せば花も紅葉もなかりけり
浦のとまやの秋の夕暮
これは私が二十五才の文治元年、二見浦百首を詠んだ時の一首です。二十才の時に東大寺・興福寺が平重衡に焼かれ、二十五才の時に壇ノ浦で平家一門は滅亡ました・・・どこを見渡しても、花も紅葉のひとかけらも見えず、秋の海に空しく波が打ち寄せるばかりでした。全てが失われた後に生まれた不運を私はどれほど嘆き悲しんだでしょう。ところが、花の真っ盛りに生まれ、その栄花の世を堪能していたと見えた紫式部が、私とそっくりの歌を二百年前に詠んでいたのです。彼女は王朝の栄華の中にあって、人の世の虚しさを何もかも見てしまったのです・・・しかしそれでも、彼女には書かねばならぬものがありました。それが源氏物語です。この物語を書き上げるためには、どうあっても宮廷に生きなければなりません。ですから彼女はいかなることがあろうと、描き上げるまで宮中に身を置こうと決心して、そのために幾重にも用心していたのです。そして彼女はそれをやり遂げました・・・そのようなわけですから、紫式部について書き記すなどということは烏滸がましい事ですが、しかし何も書かぬということは出来ませんので、少しばかり書いてみたのですよ」
第57番目のものがたり 「中宮彰子」
道長「紫式部はまだ戻らないのかね」
中宮彰子「はい」
「中宮付きの女房がこれほど長く里帰りするとは許せぬことではないか」
「・・・」
「なぜ戻らぬ」
「存じませぬ」
「使いを出して戻らせたら良いではないか」
「戻るつもりなら、使いを出さずとも戻りましょう」
「しかし何が気に入らぬというのだ。紫式部は?これほど破格の扱いをしているというに、何が不足なのだ」
「存じませぬ」
「そのような返事は聞こえぬぞ・・・わしは、あの者のわがままを助長させているのはそなたであると思うぞ・・・中宮はあの者を重んじすぎる。そもそも中宮付きの女房があれこれと書いた物を中宮自らが写本をしたり、冊子をこしらえたりするなど聞いた事もない。なぜあの者をそれほど重宝する?」
「申しあげるまでもないと存じます」
「いいや、口で説明してもらわねば分からぬ」
「そこまでお父様がおっしゃるなら、申しあげます。紫式部ほどの女は後にも先にも出ぬ人と心得ているからでござります」
「・・・何だと?あの者はたかが地方国守の娘ぞ。それを後にも先にも出ぬとはどういうわけだ」
「・・・」
「それから例の件は尋ねて見たのか」
「何の事でござりましょう」
「何故あの物語を源氏物語などという題を付けたのかだ。ある者は、『今は源氏の世でもないのに、なぜ源氏物語なのか』と申しておる。また『光源氏は、太宰府に送られた源高明ではないか』などという者もある。また『源氏のもとをたどれば帝の血筋なのだから、帝の血筋ばかりが優れているように記されるのはいかがか』と申す者もある。そうしたさまざまな疑問がある故に、中宮の口からはっきりと紫式部に聞き糾すべきなのだ。なぜあのような題をつけたのか、厳しく問うべきだ」
「では近々聞いてみようと思いますが、それならそれで、私からお父様にお訊ねしておかねばなりません。お父様はどうすべきだとお思いなのですか」
「どうとは申さぬが、別の題名にしても良かろう」
「では何と・・・藤原物語とでもなさりますか」
「それでは悪いのか」
「・・・私はお父様が何をお考えになっても何も申しあげるつもりはござりませぬ。けれど、勅撰集でさえ一度撰者に任せたなら、全ては撰者の裁量にゆだねます。紀貫之の官位は従五位上に過ぎませんでしたが、帝は何もかも貫之に任せ一言も口を挟まなかったと聞き及んでおります。まして源氏物語は勅撰でもなく、藤原家が依頼して書かせたものでもありません。それをここに来て藤原の都合であれこれと命じたりすれば、世の人は何と申すでしょうか。そしてもしそのようなことになったら、光源氏は何と名を変えたらよいのでしょうか。ご名案がございましたら、この彰子にお教え下さりませ」
中宮彰子がこう言うと、道長は口をへの字に結んで御簾の奥を睨んでいたが、
「それにしても、誰も彼もが源氏源氏と言うのはけしからん限りだ。この後は写本を禁じなければならぬ」と言い置いて荒々しく出て行った。中宮彰子は足音が消えるとそっと涙を拭って、紫式部が書き置いた謎のような歌を口ずさんだ。
めぐりあひてみしやそれとも分ぬまに 雲隠れにし夜半の月哉