百人一首ものがたり 55番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 55番目のものがたり「瀧の音」

滝の音は 絶えて久しく なりぬれど
名こそ流れて なほ聞こえけれ

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「心寂房殿は和漢朗詠集がお好きなようですが、どこが気に入っているのです」と定家が尋ねるので、
「もっとも心打たれますのは漢詩と和歌が調和して美しい調べを奏でているところでござります。
 〈春夜〉に見える白楽天の詩は、『背燭共憐深夜月 踏花同惜少年春(灯火を背に隠して闇をつくっては深夜の月を憐れみ、落花を踏んでは青春があまりにも早く過ぎてゆくのを惜しむ)』
 この漢詩に凡河内躬恒は、
 春の夜の闇はあやなし梅の花
色こそみえね香やは隠るる 
と応じています。また〈老人〉の章にも心打たれるものが多く見られます。『老眠早覚常残夜 病力先衰不待年』と白楽天が詠うと為頼は、 
いづこにか身をば寄せまし世の中に
老いを厭(いと)はぬ人しなければ
何とも見事な取り合わせとしか思えません」心寂房がこのように感嘆するので、
「心寂房殿がそれほどまでに和漢朗詠集に共感なされているとは存じませんでしたが、一つお訊きしたいことがござります。和漢朗詠集は藤原公任が撰集したものですが、撰集のきっかけとなったのは他でもない、娘の結婚の引き出物とするために膨大な数の漢詩の中から漢詩文五百八十八首、和歌を二百十六首選び、藤原行成に清書させて完成させました。心寂房殿が申される通り、漢詩と和歌の取り合わせの見事さには感服いたします。ですが、注意深く目を通しておりますと、めでたい結婚の祝いの詩歌には全く相応しくない詩歌が潜んでいるのに気づきます。
『再三汝を憐れむ事は他の事にあらず、天宝の遺民を見るに漸く希なり』これも白楽天の漢詩ですが、天宝の遺民とは玄宗皇帝の時代の末期に安禄山の反乱があり、首都洛陽が陥落し、皇帝以下大勢の臣民が蜀の国まで逃げました。その時恐らく何十万という人々が死んだものと思われます。こうした出来事は承久の乱の後の我々を詠っているようにも思われますが、果たして結婚式の引き出物には如何でしょうか」定家がこう言うと、心寂房は、
「白楽天は次のようにも詠っております。『人の禍福は愚かにしてはかりがたし。世上の風波は老いて禁ぜず(人の世の禍福は愚かな身には前もって予測することができない。それなのに、世の荒波は老いの身にも容赦なく降りかかる)』。大納言公任はこうした詩を通じて、人の世には喜怒哀楽栄枯盛衰がつきものであるという事を若い世代に伝えたいと思ったのではないでしょうか」
「なるほどそうした考え方も一理あります。しかしどうにも理解できない問題が残ります。それは中国人の漢詩句百九十五首うち、白楽天百三十五、これに続くのが元の十一、許渾十ですから白楽天が圧倒的に多い。これは当時の宮廷の人々が白楽天を最も愛しておましたから当然ですが、日本人の漢詩はと見ると、理解しがたいのです。和漢朗詠集に掲載されている漢詩のうち、日本人の漢詩句は三百五十四首に上りますが、最も多いのは菅原文時四十四、菅原道真三十八、続く大江朝綱と源順は共に三十・・・これは妙ではありませんか」
「・・・」
「菅原文時は道真公の孫ですから、二人を合わせると八十二首。全体の四割三分を占めている。永延元年(987)に勅祭が催され、一条天皇より「北野天満宮天神」の称が贈られて道真公は神となりましたが、生前、道真公は陰謀罪で都を追われ太宰府で憤死したお方です。そうした方の漢詩をこれほどまで多く選んでいるという事は、偶然とは思えません」
「・・・では、どのような・・・」
「道真公は藤原氏とは無縁の生まれですから、権力の主流にはほど遠い血筋ですが、たぐいまれな才能に恵まれ、右大臣にまで成られた。しかしそれが仇となって藤原時平に憎まれ、追放されて死んだのです・・・大納言公任はもしかしたら、自らを道真公に重ねていたのではないか・・・才能に於いて、精神に於いて、文章に於いて、和歌に於いて、漢詩に於いて、音楽に於いて、全ての学問芸術の分野に於いて、公任は道長に優っていました。しかし道長が関白太政大臣となって国政の全権を牛耳っただけでなく、一条天皇には長女の彰子を入内させて中宮と為し、次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮と為し、彰子の生んだ後一条天皇即位の後は三女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」を実現して天下を驚かせました。これに対して公任の父は関白太政大臣藤原頼忠、祖父は関白太政大臣藤原実頼、母は醍醐天皇の孫という血筋に生まれながら、道長に押さえられて大納言の地位に留まった。あらゆる点に於いて自らの方が道長に優ると承知していながらしかも道長の下に甘んじなければならなかった公任の心を推し量る事はなかなか難しい事です。しかし、万が一権力への意志の欠片でもあると道長に勘ぐられれば、道真公に象徴されるように、宮廷に生きる場を失う事を公任は重々承知していたと思われます。そこで彼は常に仮面をかぶる事に決めたのです」
「・・大納言公任が仮面をかぶっていたと、中納言様は申されるのですか」
「私はそう思います。そのように考えなければ、大納言公任の行動を理解することができません。心寂房殿は『三船の才』の折りの出来事をご存じでしょう」
「・・・はい。道長が大堰川に遊んだ折、遊楽のために三種の舟を用意させました。漢詩の舟、管絃の舟、和歌の舟。道長はそれぞれの舟にその道の名人を乗せたのですが、公任はいずれの道にも秀でていたので迷いに迷った末、道長に急かされて和歌の舟を選びました。そして公任は、
小倉山嵐の風の寒ければ
もみぢの錦きぬ人ぞなき
と詠んで絶賛を博し、道長に誉められた折、『和歌ではあれぐらいのものでしたが、漢詩の舟を選んでおけば、もっとすばらしい詩を詠んでいたでしょうから、私の名声は更に上がっておりましたでしょう』と豪語したと聞き及んでおりますが」心寂房が答えると定家は、
「その時道長は公任の振る舞いをどのように見たとお思いですか」
「・・・その才能の豊かさに目を見張ったのでは・・・」
「さて、それはどうでしょうか・・・権力者というものは人をそのように見るものではありません。私は後鳥羽上皇に長く仕えましたからよく分かるのですが、権力者は何よりも先に、その者が自分に隷従するものであるか、反抗するものであるか、それを見定めようとするのです。反抗する者であれば、如何に才能があるものでも、取り除かねばなりません。公任は才能もあれば血筋も良い。こうした人物は権力者には危険な存在です。公任はそれを良く承知していました。ですから彼は仮面をかぶり、道化た真似をして見せたのです」
「・・・道化めいた仕草・・・」
「大きな仕事は国家の力を借りなければ成せない事が沢山あります。勅撰集が良い例でしょう。西行一人がいくら逆立ちしても、作れるのは私家集ぐらいのものです。私が長く宮中に留まっていたのは一つにはそれを知っていたからです。そして公任もその事を悉知しておりました。彼は権力者におもねると見せて、実は自らの目的を達するためにひたすら隠忍していたのです」
「・・・」
「和漢朗詠集には次のような暗示的な詩が見えます。
  楚三閭醒終何益。周伯夷飢未必賢
(楚の屈原は、人々がみな酔っている中にあって自分一人が醒めていると自負していたが、それが何になろう。周の伯夷叔斉は武王が武力で天下統一を成し遂げたのに反対して首陽山で餓死したけれど、それが賢人と言えるだろうか)
・・・公任は屈原や伯夷叔斉を愚か者と見ていました。世を批判し、権力から遠く僻地に逃れて、餓死するほどつまらぬ人生はありません。公任はそれを重々承知していましたので、世の風波を柳に風と受け流し、その陰で驚くべき努力の日々を送っていたのです。まず彼は歌学の書物として『新撰髄脳』『和歌九品』『歌論議』などを作りました。自らの歌集には『公任集』を編み、『拾遺抄』『金玉集』『深窓秘抄』『前十五番歌合』『三十六人撰』などを撰集し、さらに有職故実の著書として『北山抄』なども書き記しています・・・大納言公任は、世の人々が考えているよりも遙かに偉大な怪物であったと申せましょう」

第55番目のものがたり 「瀧の音」 )

 夏の夕暮れ、書き物をしていると、「小野宮右大臣からの文が届きました」と家人が持って来たので見ると文とは言えないほど分厚い冊子のようなものである。何事かと公任は包みを見つめたまま、しばらく考え込んでいた。

 実資と公任とは関白太政大臣藤原実頼を祖父に持つ従兄弟同士だったが、実資は十歳年上である上に、公任が道長の意に諾諾と従っているのを大いに嘆き批判していたので二人の交流は絶えて久しかった。そもそも二人が対立するきっかけとなったのは道長の娘・彰子が入内した時である。これは長保元年(999年)の事だったが、この時公任は彰子の入内に際して道長から相談を受けていた。

『彰子の調度品の中に特別の品を入れたいのだが、なにが良いであろうか』道長がこう訊くので公任は

『それなら名案がございます。まず金銀の地に四季の風情を描いた料紙を四尺の屏風に仕立て、宮中の公卿、殿上人たちから和歌を募ります。その中から格別なものを私が撰び、これを藤原行成に書かせれば、古今希に見る祝いの品となりましょう』

 道長は公任の案に感嘆し、早速宮中に触れを出して歌を募ると公卿たちは先を争ってこれに応じ、花山法皇までも御製を贈ったのだった。道長は大いに満足して公任の名案に今更ながら感心しきりだった。

 ところが唯一人和歌を寄せない人物があった。小野宮中納言実資である。道長は訝み、内心面白くなかったので催促すると、実資は「大臣の命を受けて法王公卿がこぞって屏風に歌をつくるなぞ、天地開闢以来前例なし」と述べて最後まで応じようとしなかった。しかもこのような企画が公任によって為されたと知ると、『愚かな事を』と痛罵したので、二人はますます口もきかぬ仲になったのである。そんなある日二人が激しく対立する事件が起きた。寛仁三年(1019)の刀伊の入寇(といのにゅうこう)である。大宰権帥藤原隆家は敵を撃退しその経緯を朝廷に報告すると共に、戦いに加わった部下への恩賞を懇請した。これを受けて朝廷は諸国申請雑事定に関する会議が開いた、大納言公任と中納言藤原行成は恩賞に強く反対した。というのも隆家は伊周と共に花山院を襲撃した兄弟であり、しかも道長の政敵と見なされていたから、恩賞を与える事は道長の意に反すると考えたのである。

大納言公任は次のように主張した。

「隆家は朝廷からの追討の勅符を待たずに戦闘を開始いたしました。故にこれは私闘であり、朝廷とは関わりないものであります。故に恩賞を与えるには及ばないと存じます」

行成は公任の意見に賛同し、公卿たちも公任に理ありと納得した。しかし実資はただ一人、異を唱えた。

「いったい、敵が上陸しているというのに、勅符が届かないからといって戦わなかったらどうなるのか。今回の外敵の襲来は小規模にあらず。島人が一千人余りも連れ去られ、数百人が殺害され、壱岐守藤原理忠は戦いの最中に戦死している。もしもこれを太宰府が手を拱いて傍観していたなら、九州は敵の前に陥落していたであろう。大納言公任等の議論は机上の空論であって、現実を見たものではない。万が一大納言の意見が朝議に於いて可とされるようなことがあれば、この国を守る者は一人もいなくなるであろう」

「・・・」

「また大納言は、隆家が勅府を待たずに戦闘したことを非難しているが、それこそ大納言が歴史を知らぬことを証明している。勅府を待たずに戦ってしかも恩賞を与えられた前例は既に存在する」

「・・・」

「寛平六年(894)に新羅の海賊が対馬に襲来した折、島司文室善友は勅府を持たずに応戦した。文室善友は速やかに外敵を打ち破り、朝廷は篤く恩賞で報いた。今回の出来事は文室善友にも優るとも劣らぬ働きである。故に朝廷はちゅうちょ無く隆家賞すべきである。さもなくば今後進んで事に当たる勇者は我が国から消滅するであろう」

 実資がこう述べたので公任は反論して、

「しかしこのような前例が出来れば、戦いの決断は朝廷にあらず、現場の者に決定権が移ることになりましょう。さすれば恩賞目当ての勝手な戦いがいつでも起きかねず、このような事態は国を傾けるものとなりかねません」

 これを聞くと実資は、

「戦いが真に国を守るための戦いであるのか、それとも野望に基づくものであるのか、報告と現地での調査を付き合わせればたちまち明らかになろう。大納言の言はどこまでも国家を害する空論である」と撥ね付けたので、陣座の者は一言もなかった。

道長はこの前年の寛仁二年(1018年)に太政大臣を辞任、既に出家の身となっていたが、陣座の様子を聞き、実資の意見に同意したので、隆家とその一党は大いに面目を施した。

 こうした経緯もあって公任と実資はますます対立する関係にあったので、公任は実資からの分厚い文を何事かと訝ったのである。

 紙燭を灯してややしばらくして、公任が開いてみると、そこには意外なことが記されていた。

「私は長年貴殿に対して疑念を抱いていた。いったい何を考えているのか分からぬというのが正直な印象でござった。疑念の最たるものが、例の歌であった。

 長保元年の秋に道長は嵯峨の大覚寺を訪れた。その際公任殿も紅葉見物をした。例の歌はその時に詠まれた。

 滝の音はたえて久しくなりぬれど

名こそ流れてなほ聞こえけれ 

私は信じられなかった。これが当代きっての歌詠みと名高い藤原公任の歌なのか・・・その場にいた公卿たちも『この歌には色もなければ香りもない、これでは折角のご遊覧の興を削いでしまったのではないか』と囁いたと漏れ聞いた。 

しかし私は心の底では自らの判断にも疑問を抱いていた。貴殿が歌ったからには、何か深い意味があるのではないか・・・私の何か思いの及ばぬものがそこにあるのではないか・・・。

 そうしたある日、私は不可解な歌を見た。それは、中宮彰子に仕える女房赤染衛門が嵯峨大覚寺を詣でて詠った歌だった。

   あせにけるいまだにかかる滝つせの

早くぞ人は見るべかりける

 これはどうしたことだ。大納言公任の歌を見れば、滝は枯れている。ところがこの歌はいまだ流れているという。訝しく思って人をやって確かめさせると、確かにまだ流れているという。

 そんなことがあろうか、私はたまらず、自身で確かめようと訪ねてみた。牛車を降りて松林の中を歩いて行った。

そこに見えたのは確かに滝あった。松の林の中を見え隠れに流れてきた清流が、細い滝を作って池に落ち込んでいる。これはどうしたことだ。今でさえ流れているのだから、二十年前、道長と共にここを訪ねた公任はこの滝が流れる様を見たであろう。それなのにあの歌は・・・屋敷に戻ると早速歌を書いてみた。

 滝の音はたえて久しくなりぬれど

 私はここまで書いて自分の浅はかさを思い知らされた。貴殿は、滝の音は聞こえなくなったと詠ってはいるが、滝が枯れたとは言っていない。この歌を聞いて流れが止まったと考えていたのは誤解だったのだ。ではこの歌は何を意味しているのか。

 私はあれこれと考えた。そして謎は解けぬまま幾日も過ぎた。その夜も寝付けぬままに時を過ごしたのだが、いつのまに眠ったのであろう、気がつくと蔀戸の隙間から弱々しい朝の光がぼんやりと忍び込んでいた。その淡い光を床の上に見たとき、私の頭の中をひとつの考えが頭を過ぎった。

「この歌は、滝を詠んだのではない。美しい瀑布を詠むのなら、それにふさわしい場所はどこにもあろう。ところが公任はみすぼらしい大覚寺の滝を詠った。ということは、この哀れな滝の姿を借りて何かを言おうとしているに違いない・・・滝は何かを指し示すための隠喩である。月や花、雪、ホトトギスなどがその時々に何かを指し示すものとして詠われるように、この滝はもっと深遠な、神秘的な存在を表現するために必要な、その存在にふさわしい景色に違いないのだ。とすれば、それはなにか・・

私は長い間瞑想した。そして一つの結論にたどりついた。

天皇家・・・

 貴殿の滝の歌は、他のどこで詠まれても意味がない。嵯峨天皇の別邸であった大覚寺こそがふさわしかったのだ。

 果てしない昔にその尊い流れは始まった。イザナキ・イザナミから命の水は流れ出し、アマテラス、スサノオに受け継がれ、やがて悠然たる大河の趣をたたえて山野を睥睨し、音高くどこまでも流れ続けた。流れは早瀬になり、滝になり、急流となってあたりの景色を震わせ、ごうごうとどこまでも流れ続けた。

 神武、応神、仁徳、雄略の御代の流れは神秘的大瀑布に似ていた。やがてそれはさまざまな流れを吸収し、聖徳太子に至っておおらかな神秘をたたえた流れとなり、天智、天武の急流は互いにぶつかり合い波しぶきを立てて流れたが、急に視界は広がり、美しい空の下を持統の流れは雄大に広がり、文武、元明、元正、聖武天皇を経て、ますます豊かな音を立てて流れ落ちた。桓武、平城、嵯峨天皇の御代に至っても、その音はすばらしい音色を放っていた。ところが、不意に、流れに異変が生じた。大河の堤防が破れ、瀑布の崖は大岩でふさがれて、あれほど豊に見えた流れは途絶して、今やわびしい一筋の水だけが岩の間を音もなく滑り落ちるばかりになった。もうそれは滝と呼ぶには値せぬほどの姿だった。かつての勢いは微塵も見えず、その音は耳を傾けてもほとんど聞こえない。

 いったいこれはどうしたことか。そのような哀れな景色にしたものは、いったい何なのか・・・

 貴殿もこの私も藤原の一族ではあるが、皇孫ともいかにも深い縁を持っている。貴殿の母は醍醐天皇の皇子、代明親王の娘厳子女王。貴殿は清涼殿で元服式を上げ、円融天皇が自ら加冠なされた。しかも、妹遵子はその円融天皇の皇后となり、もうひとりの妹は後に花山天皇の女御となった。それ故、当時、貴殿の将来は洋々たるものがあると噂され、やがては関白太政大臣となって、延喜・天徳の時代を再びよみがえらせるのではないかと密かに期待する者も多かった・・・ところが貴殿の妹遵子には子ができず、政敵である道長の妹詮子には親王が生まれて、貴殿は運に見放された。

賢明な貴殿は源高明殿の轍を踏まぬよう周到に自らの行動を戒めた。あたかも道長に阿諛するかのように振る舞い、いっこうに昇叙せぬ身を嘆くこともなかった。

 そんなある日貴殿は、道長と共に嵯峨天皇の別邸大覚寺の滝を見た。そして全てを見、感じたのであろう。

天皇家の昔と、眼前の姿、そして道長と己たちのありようの全てを。こうして謎の歌は生まれたのだ」

 私、小野宮右大臣は、道長の前に立ちふさがることのできる唯一の男と自認してきたが、貴殿の深謀遠慮に比較すれば児戯にも等しい。貴殿は何とも恐ろしいほどのしたたか者。そなたは、今の世に生きる全ての人間を向こうに回して勝負を掛けている。歌の読み手の心を試しておる。相手が力不足であるなら、何十年でも、謎の中を彷徨わせて、その頼りない歩きぶりを皮肉に眺めておるのであろう。しかも貴殿のふてぶてしさは、もしもこの歌が並の者の歌であったら何の話題にもならず、忘れ去られたであろうが、藤原公任が詠んだからにはつまらぬ歌として捨て去ることはできぬであろう、と、そうした事まで悉知していた。何とも心憎い仕業ではある。しかしこれこそが名歌の名に価するのであろう。というのも、貴殿の思惑通り、この歌は謎を秘め、見るものをいつまでも苦しめる。何かしら不思議な響きが人を誘うのだが、さてそれは何かと問うと、さっぱり答えが見つからぬとじれったさを誘うのだ。

 私は、自分ではその謎を解き明かしたつもりだが、さて真実の答えは別にあるのか、それは知らぬ。しかしこの歌の真意を説き明かす者は必ず出るであろう。十年後か、百年後、五百年後か。いつの時になるか分からぬが、この歌が生き続けることだけは疑う余地はあるまい」  読み終えると公任は紙燭の明かりをそっと吹き消した。闇の中で実資の大きな眼が光っている。公任はその眼差しを感じながら「さすがに実資殿」と呟いたのだった。