百人一首ものがたり 54番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 54番目のものがたり「鶴」

忘れじの 行く末(ゆくすゑ)までは 難(かた)ければ
今日(けふ)を限りの 命ともがな

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「室町殿の歌会に誘われて久しぶりに六条の邸にまいりましたが、あまりの荒れように早々に立ち返りました。ただ一つだけ良いことがあったといえば、これなのです」と定家が包みをほどくと分厚い草子が何巻も現れた。

「これはどなたかの歌集でござりまするか」

「建礼門院右京太夫の歌集です」

「建礼門院・・・生きながら六道の苦しみを味わったという・・」

「左様、建礼門院は安徳天皇と共に壇ノ浦で海に飛び込んで死んだかと思われましたが幸か不幸か救われて大原に隠棲なされました。右京太夫は建礼門院が高倉天皇の中宮であられた時にお仕えしていたのです」

「では、共に壇ノ浦で・・・」

「いいえ、右京太夫は平重盛の子の資盛と恋仲になりましたが平家一門ではなかったので平家が都落ちした時、都に残されたのです。しかし資盛との文のやりとりは平家滅亡まで続いて、沢山の歌を詠みました。私はその間の事情を少なからず知っているのです。というのは右京太夫は父俊成の養女となった時期もありましたから」

「俊成様のご養女とは・・・」

「私がまだ十才の頃、父が美しい乙女を邸に連れてきて『この娘は今日から私の養女となるのだからよくご挨拶しなさい』と申されました。これが最初の出会いでしたが、あまりの美しさに私は口を利く事もできなかったほどです」

「・・・」

「まさしく、美女とはあのようなお方を申すのでしょう。しかし父が彼女を養女にしたのは美しさの故ではありません。その歌の才に惚れて自分の手で育てたかったのです。父は彼女ばかりでなく、才能のある者を幾人も養子養女にしました。寂連もその一人ですし、俊成卿女は父の娘ではなく、私の姉・八条院の娘なのです。父は歌の才のある者を愛して、その才能をどこまでも伸ばしたいという強い欲望がありましたので、右京太夫も養女となったのです。ところが彼女のあまりの美貌が平資盛の目にとまり、父から引き離されました。つまり平資盛の愛妾となったのですが、それが彼女の不幸の始まりでした」

 定家は草子を取り上げて頁をめくり、歌を小声で詠んだ。

ありし世にあらず鳴子の音聞けば過ぎにしことぞいとどかなしき

「これほどの歌集を、どうなさるおつもりですか」

「良い歌は新勅撰和歌集に選ぼうと思います」

「では百人一首にもお選びになるおつもりなのでしょうか」

「それはまだ何とも・・・しかしそれよりこれをご覧下さい」

「儀同三司の母・・・このお方はどのような・・・」

「右京太夫よりも辛い運命を担わされた女性です。名は高階貴子、宇合に殺された長屋王の末裔とされています。彼女は円融天皇の高内侍として宮廷に仕え、兼家の長男の関白道隆の妻となり、息子伊周は内大臣、定子は一条天皇の中宮となりました。世の女の頂点に立ったと申せましょう。ところが夫道隆が亡くなると全権力は夫の弟・道長の手に移り、息子の伊周は花山院暗殺未遂の罪で配流となったのです」

「花山院を・・・内大臣が殺そうとしたのですか」

「伊周はその頃、鷹司の三番目の女に密かに通っていたのですが、鷹司の四番目の娘も評判の美人でした。その四番目の娘に花山院が懸想して通っていたのです」

「花山院は出家したのでは」 「出家したといっても兼家に欺されて頭を剃ったのですし、院は二十七歳の男ざかりですからね、女の許に通ったからといって咎めることはできません・・・しかし、伊周は花山院が自分の女に手を出したと勘違いして、弟と謀って弓矢で殺そうとした・・・事の真相は分かりませんし、疑わしい点もないとは言えないのですが、少なくとも記録にはそのように記されています。幸い矢は袖を射貫いただけでしたが、伊周と弟は捕らえられ、配流の身となりました。これがきっかけで中宮定子は宮中を追われ、邸は焼き討ちされて、一族は全てを失ったのです・・・こうした運命を担わされた女性の苦しみを推し量る事はとてもできません・・・しかし、辛い話を辛いとばかり綴ったのでは救いようがありませんから、私はあれこれと長い間思い悩みました・・・」そう言って定家は草稿の最初の頁を開いた。

第54番目のものがたり 「鶴」 )

 夕暮れ時、人気のない屋敷の奧の蔀戸がわずかに開いている。部屋の床に、鏡が落ちている。部屋の隅に、女が身を縮めて伏せっている。長い髪が蜘蛛の巣のように錦の衣を覆っている。

 突然、築地の向こうから犬が激しく吠えた。女はぎくりと顔を上げ、薄暗くなった部屋の中をおびえた眼差しで見回した。身体が小刻みに震えている。夕日が、蔀戸の隙間から一筋差し込んだ。部屋の中が赤く染まった。女は床に落ちている鏡に近寄ると首を伸ばしてのぞきこんだ。

 青くむくんだ顔。頬には幾筋もの乾いた涙の跡が見え、色あせた唇の周りには泣き疲れた後の皺が顎の方に長く尾を引いて、髪の毛は半白になって乱れている・・・女は鏡を掴むと乱暴に投げ捨てた。鏡は大きな音を立てて床に転がった。

『私は鏡の中の女ではない・・・あのように醜い女ではない・・・私は円融の帝に仕えた高内侍・・・男たちは皆あこがれの眼差しで私を見つめた・・・帝さえ私の耳に〈そなたを見ていると、僧正遍昭が歌った乙女の姿を見るようだ〉と囁かれ、幾度もお戯れになられた・・・やがて道隆様が私を追い回し、幾度も言い寄られて、とうとう妻になった。夫は三十八歳の若さで摂政・関白になり、娘の定子は帝の中宮に、長男伊周は大納言、次男隆家は中納言に出世した。私は満開の花に埋まって息もつけないほど幸福だった・・・それが、一夜にして全てが覆った・・・なぜ?何故なの・・・

 女はぼんやりとあたりを見渡した。何も見えない・・・目の中には闇だけがはりついている・・・どこからか歌が聞こえる。

  夜のつる都のうちにこめられて

   子を恋ひつつも泣きあかすかな

(詞花和歌集340)

(捕らえられた鶴は夜になると籠の中で子を思って啼くと聞いたけれど、私は都に閉じこめられて、子を思いながら泣き明かしていることですよ)

 男の声だ・・・いいえ、少年だわ、どうして見知らぬ少年が悲しい私の歌を歌っているのだろう・・・ここはどこかしら・・・

 あたりをうかがっていると何かが動く気配がして突然、

「こっちだよ」と男の子の声がした。

「誰なの」

「いいからこっちへ来て・・・頭をぶつけないようにするんだ・・・首を下げてね、そうして、ここから両手をついて這うんだ。はぐれちゃ駄目だよ」

 言われるままに這って行くと、

「さあ、着いた」と男の子の嬉しそうな声が響いた。

「ここはどこなのですか」

「誰も知らない所だ。知っているのは、僕と君だけさ」

「なぜ私をこんなところへ連れて来たのです?」

「それはね・・・僕は聞いたよ・・・君はあまりきれいな子だから、帝の妃になるんだって」

「私が、妃に?」

「父はそう言ってる」

「あなたの父は誰?」

「藤原兼家さ」

「兼家様が、妃になると言ったの?」

「そう・・でも君は帝の妃にはならないよ」

「どうして?」

「どうしても・・・僕は道隆だ。君はかぐや姫みたいにきれいだね」

「私、かぐや姫はいや」

「なぜ?」

「だって、誰とも結婚できないのよ」

「そうか。だったら、僕が結婚してやるよ」

「あなたが?」

「そうだよ」

「帝の代わりに?」

「そうさ・・・可笑しいか?そんなに笑って。僕はね、関白太政大臣・藤原兼家の長男道隆だよ・・・それに僕は宝物を持っている。宝を見たら、僕と結婚したくなるよ」

「どんな宝なの?」

「見たい?」

「見たいわ」

「秘密だよ。誰にも言っちゃ駄目だよ」

「言わないわ。約束する」

「じゃあ僕と結婚するんだね」

「見てから決めるのよ」

「じゃあ見せてやる」

 男の子は紙燭を灯した。大きな松の洞が見える。男の子は洞に手を突っ込んで中を探って美しい箱を取りだした。

「この箱は何?」

「玉手箱さ」

「浦島太郎の?」

「そうだよ・・・僕は盗んできたんだ。浦島太郎が耄碌してぼんやりしている隙を見てね」

「じゃあ泥棒ね」

「ぼんやりしている方が悪いのさ」

 男の子は箱の蓋に手を掛けた。

「だめよ、開けたらおじいさんになるのよ」

「大丈夫。だって煙はもう出ちゃったもの」

 男の子はませた口ぶりでそう言うと蓋を開けた。とたんに白いものが光ってこぼれた。

「アアッびっくりした・・・あら!きれいなハマグリ・・・乙姫様が集めたのかしら」

「きっとそうだよ。中を開けてごらん」

「開けてもいいの?」

「いいよ。僕の貝だもの」

 男の子がそそのかすのでそっと貝を二つに分けると、まばゆいばかりの絵が描いてあった。ひとつの貝には金の雲の中に御簾が垂れ、十二単をまとった髪の長い女性が、松の枝の垂れる軒先で琴を弾いている。もう片方の貝には萩の野に桔梗が咲き乱れ、狩衣を着た男が女を垣間見ている。

「なんて美しいのでしょう」

「この女の人、君みたいだね」

「じゃあ男の方は誰だと思うの?」

「それは決まってるよ」

「誰なの?」

「僕だよ・・・君は僕の宝を見た。だから僕の妻になるんだ・・・それに今度は君の宝を見せる番だよ」

「・・・そうね、でも、一つだけでは信用できないわ」

「信用できない?」

「あなたの心が本当かどうか」

「・・・そうか、じゃあ、もう一つ貝を見せたら信用する?」

「ええ・・・きっと信用するわ」

「じゃあ見せてやるよ」

 男の子は箱の中からもう一つ貝を取り出した。

「さあ、開けて見てごらん」

「・・・今度は何が描いてあるのかしら」

「きっと在原業平と小野小町だよ」

「そうよね・・・」

 女の子は貝を開いた・・・美しい絵・・・

「すごいわ」

「きれいだろう」

「うん」

「じゃあ僕と結婚するね」

「ええ」

「ほんとだね」

「ほんとよ」

「他の誰も好きにならないって、約束するかい」

「約束してもいいわ・・・」

「もし約束を破ったら、もうここへは連れて来ないよ」

「ええ、いいわ・・・約束、きっと守る。でもその前にもう一つだけ見たいの。別の貝に描いてある絵を」

「もう見たじゃないか」

「でも、どんな絵なのかなって思うと、我慢ができないの」

「どれだって同じだよ」

「おなじじゃないわ・・」

「そうか・・・じゃあもうひとつだけだよ」

 男の子は箱の中から貝を取り出して開いた・・・真っ白い貝。何も描いてない。

「絵が無いわ」

「変だな・・・どうしたんだろう」

 男の子は急いでもう一つ貝を開いて見た。

 何もない・・・。

「変だぞ‼」男の子は次々と貝を開いた。何もない・・・何も描いていない・・・

「どうしたの?」

「分からない、わからないよ」

 男の子は次々と貝を開いたけれど、どの貝にも絵はなかった。

「なにもない・・・なくなった・・・」

 男の子は真っ青な顔をして、悲鳴のような声を上げた。

「僕の貝が消えてしまった・・・誰かが盗ったんだ・・誰かが僕の宝を盗んだ」

「・・・」

「ああ、なにもない、僕にはなにもなくなった‼」

 男の子が耳の中で泣きわめいている。

 女はぎくりと目を開いた。男の子の泣き声が松風のように響いている。女はよろよろと立ち上がり、縁先に出た。月は雲に隠れて真っ暗だ。異様な胸騒ぎを感じて縁を降り、闇の中を必死の思いで二三歩歩いた。誰かが影のように立っていた。女はぎょっと息をのんだ。

「お母様」

「誰・・・誰なの?」

「私です・・・伊周です、」

「伊周・・・ほんとうに、伊周なのですか」

「はい」

 伊周は走り寄って母を抱きしめると号泣した。

「あなたは・・・配流されたのではないのですか・・・どうしてここにいるのです」

「逃げて来たのです」

「逃げた・・・まさか、そんな」

「私は花山院を殺そうとした罪で太宰府に流される途中、明石に留め置かれました。でもお母様がどうしておられるだろうと気になって、抜け出して来たのです」

 伊周は押し殺した声でうめいた。「私が花山院を殺そうとしたなどと言うのはでたらめです。誰かに謀られたのです。私が気づいた時、花山院は既に何者かに矢を射られた後でした。呆然としていると、闇の中からいきなり検非違使が現れて私を捕らえたのです」

「でも、あなたは配流の罪で流されたのですよ。逃げたりしたらどのような罪が与えられるか分かっているのですか」

「・・・お母様・・・私は罪人ではありません。誰かが私を陥れたのです」

伊周は闇にうずくまった。これを見て母は伊周を抱きしめて囁いた。

「伊周、聞きなさい、母の声を聞きなさい。私をしっかりと見なさい、見るのです!」

「はい。母上」

「伊周。あなたは朝廷に裁かれて配流となったのです。もしその罰を受けずに逃げたりすれば、どのような重罪に問われるか分かりません・・・無論、あなたが罪を犯していないと私は信じています。そしてほんとうに罪を犯していないのなら、罪はきっと晴れます。安和の変で一度は太宰府に配流になった源高明様も疑いが晴れて都に戻ったではありませんか。ですから私の命に替えて、あなたが都に戻れるように帝にも、道長様にもお願い申しあげます。ですから、それまでは我慢してください。どうか、短慮を起こさないでください。あなたは私を思って会いにきて下さった。何とうれしいことでしょうか。・・・でも、あなたが流刑地を逃げたと知れたらどうなるかと思うと生きた心地もいたしません。すぐに明石へ戻りなさい、いますぐに」

「しかし母上」

「迷っている暇はありません。早く、お戻りなさい、早く」

 女は伊周を細い手で押し遣った。とその時、闇の中から不意に太い腕が伸びて、伊周の腕をしっかりと掴んだ。

「伊周殿、ここに参られると存じ、お待ちして居りました」

 闇の中から検非違使の役人が現れた。下人たちが伊周を縛り上げた。母は検非違使にすがりついて、

「どうか、お見逃し下さい。この母に免じてどうぞ、お助け下さい。私を道長様に・・・」  検非違使の役人は母を押し退け、伊周を連れ去った。雲間の月を浴びて、彼女はよろめきながら後を追い、ばったりと倒れて号泣した。虫が鳴いている。床下でも、庭の草の中でも、美しく澄み通った声で、にぎやかに、いつまでも・・・。