百人一首ものがたり 53番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 53番目のものがたり「すさめぬ草」

歎きつつ ひとり寝(ぬ)る夜の 明くる間は
いかに久しき ものとかは知る

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「これほど我の強い女はいかなる男でも手に余るのではないかと思いますが」と心寂坊が言うので、「いいや、彼女の不幸の原因は兼家の愛妾だったことに尽きます。兼家の欲望はひたすら権勢を拡大する事でした。女は道具に過ぎなかったのです」

「道綱母ほどの女も道具だったのですか」

「兼家には時姫という実に都合の良い妻がありました。身分は低かったのですが、道隆、道兼、道長を次々と生んだのですから妻としては申し分ない役目を果たしたと言えるでしょう。男子だけでなく娘にも恵まれました。これは実に強運でした。というのも、長女・超子は冷泉帝の女御となり、次女詮子は円融天皇の后となったのですから、時姫は兼家が揺るぎない地位と名誉を手にする手段を全て与えてやったのです。ですから兼家にとって時姫は実に大きな道具だったのです」

「では、兼家にとって右大将道綱母は何だったのでしょうか・・・」

「愛玩物と考えて良いでしょう。彼女は当時の三美人の一人でしたし歌にも文章にも秀出ていたので、こんな女を愛妾とすれば面白かろうと兼家は考えたと思われます・・・しかし彼女は兼家の愛人の一人に過ぎない立場に甘んずるような女性ではなかったので、彼女は道綱を連れて仁和寺の奥の山寺・鳴滝般若寺に籠もったのです。この時兼家は外聞をはばかって自ら出かけて連れ戻そうとしましたが彼女の激しい抵抗に会って失敗したので、あろうことか息子の道綱を呼んで、

『お前はふがいない奴だ、母を連れ戻すこともできないのか』と自分の罪を子どもにかぶせてひどく叱責したので、道綱は泣き出してしまったのです」

「道綱はその時いくつでしたか」

「十六でしたでしょう・・・もう子ども見とはいえない年頃なのに、怒られたから泣き出したなどとは情けない話で、傍目から見れば頼りない子であったろうとも思えますが、彼女はそんな息子が不憫で『夫はあなたを見捨てはすまいけれど、私が尼になってしまったら、あなたに辛く当たるだろうと思うとどうしてよいのかわからなくなります』と不安になる。するとそんな母を見て道綱はしゃくり上げ、声を上げて泣くのです」

「・・・道綱は母と共に寺に居たのですか」

「ええ・・しかし兼家が彼女を迎えに来たので、都が恋しくなり、父と共に帰ろうとしたのですが、『そなたは私が呼んだときにくれば良い』と追い返され、母のもとに残ることになりました」

「では母と子は山寺で暮らしていたのですか」

「山で暮らしていたのは確かですが、兼家は自分ために道綱に都と山寺を往復する役目を負わせたのです。兼家は山の様子を知りたかったのでしばしば手紙を寄越しました。手紙が届けば道綱の母は返事を書いて兼家に届けねばなりません。そこで返事の手紙を道綱に届けさせたのです。彼女が籠もったのは鳴滝般若寺ですから、険しい山の中です。そこから兼家の邸まで往復するのだけでも容易ではありませんが、道綱は思い詰めた母と、つれない父の間を、托された手紙を懐にして往復したのですからやるせない思いだった事でしょう。ある時などは道綱があんまり痩せ細ってしまったので、母はひどく心配になって「都に下りて、魚でも食べておいでなさい」と送り出したのですが、突然空がかき曇って風の音が激しくなり、稲妻が光り出したので、途中で雨に濡れはしないだろうかと必死で御仏に祈っていると、幸いに無事に戻って来たのでほっとしていると、道綱は、

「都に着きましたら母の山の方から神が鳴る音がゴロゴロと聞こえましたので、これはたいへんだと一心に走ってまいりました。でも、雨が降り出す前に父の邸にお寄りして、文を預かって参りました」と差し出す。急いで読んで見ると、

『先日、私は大勢の共人たちを急かして山道を上って迎えに行ったのに追い返えされたので、もう迎えには行きません。あなたは恐ろしいばかりに思い詰めている様子だから、すぐに会えるようになるとはとても思えないのですよ』

 これを読んだ道綱母はいよいよ覚悟を決めて山ごもりしていたのですが、都からは親類の者や知人が訪ねてきて下山するように奨めるし、丹波国守をしていた父の倫寧までが任地から急いでやってきて、

「おまえだけなら好きにすればよい。しかし道綱がすっかり弱ってしまったのを見ては見過ごすわけには行かない。今日明日にも都に戻りなさい」と涙ながらに下山を勧める。心乱れていると、やにわに大勢が山に登ってきて、誰だろうと思う間もなく兼家が男共を指揮して彼女を否応なしに車に押し込めて連れ戻してしまった。こうして彼女の家出は終わりを告げたのですよ」

「では、兼家は彼女を棄てる気ではなったのですね」

「兼家は嫌な男ですが、道綱母の才能は傑出していましたから、そんな女を身近に置きたかったのでしょう。しかし一番の理由は、兼家ほどの大権力者の愛妾が、万が一山寺で病死したりしたらそれこそ世間の笑いものになりますから、兼家はなんとしても山から降ろさなければならないと考えたのでしょう」

「・・・」

「ある時はこんな事がありましたよ。康保三年の賀茂の祭の時でしたが、彼女が牛車に乗って見物に出ると、時姫の車が止まっている。そこであり合わせの橘の実に葵を載せて、

 あうひとか聞けどもよそにたちばなの(葵祭という今日の日は、人が逢う日と聞いておりますが、あなたさまは私には目もくれずそしらぬ顔で橘のように立っておられるのですね)と初句だけを書いて時姫に送ると、しばらく暇取ってから、

 きみがつらさを今日こそは見れ(あなたがどれほど薄情な人か、今日こそははっきりと見て取りましたよ)と返して来た。  邸に戻ると兼家が来たので、こんなことがありましたと言うと『アハハ、それは愉快だ。時姫は〈食いつぶしつべき心地こそすれ〉(あたなが送った橘の実を食いつぶしてやりたい心地がしますわ)とでも返して来ればもっと面白かったろうになあ』などと上機嫌だったのです。しかしそんな夫の言動が彼女には侮辱としか感じられなかったのでしょう。『蜻蛉日記』には女の恨みと哀しみが執拗に書きつづってあるので読むのも辛いほどです。しかしよくよく読むと、案外そうではないところもあるのに気づきます。下巻に、兼家の弟の遠度(とおのり)と彼女の微妙な関係を記した部分がありますが、ここには彼女の本性が顕れているような気がしましてね、彼女の身に成り代わって書き綴ってみたのです」

第53番目のものがたり )

「世間では弟の遠度(とおのり)がそなたの邸をしばしば訪ねるのをあれこれ噂しているが・・・」と夫が訊いても私は黙っていた。

 この人が私のところに通うようになってから二十年、息子道綱の誕生から十九年の歳月が過ぎた。その間女から女へと渡り歩き、それぞれに子をこしらえ、季節毎の大切な日々にも寄りつかずさんざんに私を苦しめた。その男が、もしや私の心が誰かに移ったのかと疑っている。いい気な話だわ・・・来る日も来る日も焦らし続け、絶望の淵に追いつめて、尼になろうと決心する瀬戸際までほっておいた男が何を思ってこんなことを言うのだろう・・・他の女に逢いに行くために大層な行列を作って門の前を素通りしたり、大饗の日、今宵こそはおいでになると中門を開け放ち、土下座してお迎えしているその時にも、挨拶もせずに通り過ぎるというひどい仕打ち・・・男好きがする近江という女にぞっこん惚れ込んだ時には、自分の車に女を乗せて、外にも聞こえよがしに大騒ぎして、私のみすぼらしい車をみつけると素知らぬふりして通り過ぎた。

 あれやこれやのことを思うにつけ、これもまた前世からの因縁なのだと思い諦め、今更どうなる事でもなしと思っていたのだけれど、こんな事になろうとは思いも寄らぬ事だった。私は、今までの私とは違う自分に気付いている。誰かに密かに想われているという淡い風のようなゆらめきが、私の心を波立たせている。

 夫の兼家は気懸かりらしいが、深く干渉する気配は見せないのはあの男にも面子があるのだろう。そうではなく、兄である兼家の妻に実の弟が言い寄るような事はよもやあるまいと思っているからか、それとも他の女にうつつを抜かしているからか、理由は分からない。それに遠度様は『私の養女に近づくため』と夫に言っているので、止める事もできないのだろう。私の養女というのは他でもない、兼家が他の女に生ませた子を私が引き取って育てている娘の事だ。兼家が関係を結んだ女というのは、陽成天皇の孫に当たる兼忠様の御子なのだが、兼家は女に子を産ませながらその後はまったく通うこともしなくなり、女は見捨てられて都に留まる事も出来ず志賀の山に籠もったのだけれど、誰も助けてはくれないので寺に入るより他に道がなくなった。けれど、女には娘がいるのでそれも成らない。生きる事も出来ず死ぬ事も出来ずに困り果てて居るという噂が立って、これを聞いた人が私に知らせてきたので、あれこれと奔走して、女の兄という僧侶とも文を交わして、仲立ちの者を立てて養女にしたのだった。

 子を産ませたまま十四年も捨て置いたとは何とひどい人だとあきれるばかりだ。こんな男が権勢を振るっているのかと思うと空恐ろしい。しかし話はそれだけではない。夫は久しぶりに私の家に来て、見慣れぬ娘がいるものだから、『あれはどこの子だね。誰かの隠し子かね』などと聞く。何と答えて良いのか分からず、半ばあきれて黙っていると、夫は何か隠し立てしているのだと勘ぐって「白状しなさい、どこから連れてきた子なのです」と詰問するので「何を申されるのですか、この子はあなたが兼忠様の女にこしらえさせたご自分の娘ではありませんか」と言ってやった。

 夫はさすがにびっくりして「何てことだ。噂では落ちぶれて行方知れずになったとは聞いたが、こんなに大きくなるまで知らずにいたとは・・・」と絶句して、常になくしんみりしてぽろぽろと涙をこぼしたものだから、養女はその場に打ち伏して泣いてしまった。周りの女房達も昔語りを目の当たりにしているような気持ちになってもらい泣きしたのだった。

 養女は小柄ではあるけれど、とても上品な顔立ちで、髪の毛も美しく、眼差しも賢そうなので、「こんなにかわいらしい子はみたことがない。屋敷に連れて帰ろう」と上機嫌で言ってその晩はあれこれと物語して泊まった。ところが朝になると昨日の話は忘れたような顔をして、娘を私に預けたまま帰ってしまった。夫はこんな男だから、女心などまるで分からない人なのだ。

 夫の弟の遠度様というお方はまるで違う。右馬頭という役職についているが、息子の道綱が同じ役所なので何くれと心配りをして下さる。そればかりか、養女の話を聞くと『是非ご養女の方にお目に掛からせていただきたい』と文を書いて寄越した。見事な紅梅の枝に紅色の鳥の子紙を結びつけて、

 春雨にぬれたる花の枝よりも

人知れぬ身のそでぞわりなき

(春雨にぬれた紅梅の花の色よりも、想いが胸にあふれて人知れず流す私の血の涙の袖のほうが赤く染まっているのです)

 歌の後に「あが君、あが君、なほおはしませ」と謎のように記してあって、しかも「あが君」という文字を墨で消してある。これはどのような意味なのだろう。あが君とは誰を差しているのだろう。逢ってもいない養女とも思えない。とすると誰に宛てた手紙ということになるのか。あれこれと考えて思いに浸っていると、どこから聞きつけたものだろうか、夫の兼家が道綱に手紙を託して次のようなことを言って寄越した。

「養女がそなたの家にいるということは秘密にしてあるのだから遠度がしばしばそなたの家を訪ねたりすれば世間の者はそなたに懸想して通っていると邪推するであろう。くれぐれも用心せよ」

 今更何を、と、手紙を見ても私は知らぬ振りをしていた。無論遠度様はそのような兄の思惑は何もご存じない様子で、しばしば文を送ってきたが、ある日突然おいでになった。四月八日の昼頃であったけれど、侍女達が大騒ぎして、

「右馬頭様がおいでになられました」と告げるので、

「前触れもなくお出でになった方にお目に掛かることはできません。留守だと伝えてください」と言って御簾の内から密かにのぞいてみると、絵から抜け出てきたような貴公子が垣根の前に佇んでいる。袿が美しく日の光に輝いて目を奪うばかりだ。背の高いお姿に品の良い直衣をまとい、黄金の太刀を腰にさげ、風が少し吹くので冠から垂れている纓が吹き上げられてる。侍女達は「まるで夢のようにきれいなお方・・・」と大騒ぎだ。その時風が吹いて御簾を吹き上げたので、思いも寄らずに家の中を見られて、また大騒ぎになった。

 遠度様はそれから毎日のようにやってきた。どうしても養女にひと目お会いさせて欲しいという。私は仕方なく縁側にお通して御簾越しにお話してみると、遠慮がちな中に一途な色が見えて、すっかり心引かれてしまった。ある時は雨の降る宵においでになったが、蛙がやかましく鳴いている。

「こんなところは気味が悪くて落ち着きませんわね」と言うと、遠度様は私が気味悪がっているのは蛙ではなくて、男がこんな夜更けに上がり込んでいるからではないかと察して「いえ、もうすぐおいとまいたしますから」と申される。私はその優しい心遣いに打たれて、兼家とは何十年も過ごしてきたけれど、このように胸がざわめく夜は一度もなかったと、つくづくと心動かされる。

 遠度様は毎日のようにおいでになっては「せめて一度なりともおご養女様に目通りさせてはいただけないでしょうか」と言う。もちろん逢わせもよいけれど、もしあの可愛らしい娘の姿を垣間見てしまったら、年老いた私などには目もくれなくなるだろうと思うと堪えられなくなって、

「そのうちに必ず」と約束すると、

「もう我慢ができません」と震える手で御簾を握りしめるので、びっくりして、

「どうか気を鎮めて下さい。夜も更けましたのでそのようなお気持ちになってしまわれたのですね」と宥めると、御簾から手を放して、

「ああ、これほどつれなくされようとは・・・でも、私を近づかせて下さってほんとうに嬉しく思っています」などととりとめもないことをいう。こんな殿方の姿は夫からでは到底想像もできない。なんて可愛らしいのだろうと、胸が熱くなる。でもそんな気持ちを打ち明ける事もできないでいると遠度様はすっかりしょげて帰ってしまった。私は追いかけるようにして文を送り届けた。

 ほととぎすまたとふべくも語らはで

帰る山路のこぐらかりけむ

(ほととぎすがいついつまた来て鳴くと約束をしないで飛び去るように、親しく語り合うこともなくお帰りになりまってしまいましたので、帰りの山道はさぞ暗くて頼りなったのでしょうね)

  遠度様からの文は、

 とふ声はいつとなけれど杜鵑

明けて悔しきものをこそ思へ

(今度はいつと約束して下さる前に杜鵑が飛び去るように一夜明けてしまいましたので、何とも悔しい思いをしております)

 翌朝息子の道綱が役所に出ようとしていると遠度様がやってきて、門に立ったまま「墨と硯を」と頼んで、手紙を書いて、「お母様にお渡し下さい」と道綱に託した。

 見ると震える手で「苦しくてたまりません。今は高い峰にでも登る決心でございます」とある。そこで「まあどうしてそのようにおっしゃるのでしょう。私は峰のことは存じませんが、谷のご案内ならいたしようと申し上げた事がございます。お忘れなのでしょうか」と書いてお渡しすると遠度様は急に上機嫌になって、道綱におどろくほど立派な馬を下された。

 こうしてさまざまに語り合い、歌を交換している一時期、私がどのように幸福だったか、書き記すこともできない。私は男に優しくされたことは生まれてこの方一度もないし、真心をこめて言い寄られたこともない。もちろん遠度様は世間体もあるし、息子の道綱の事も考えなければならないから、養女に言い寄っているという形はとっているけれど、真実はこの私に懸想していることは疑う余地もないことだ・・・初々しい心のお方に想われるということがこれほど嬉しいものなのかと、この年になってあらためて驚いている。これまでの私は夫を恨み女を嫉妬して、じくじくした嫌な女だった。でも遠度様とお話するようになって、あたりの景色も空の色も違って見える。もちろん私は遠度様とどうなるという気持ちは今もない。夫の弟であるし、息子の上司でもある。また形だけにしろ、養女に言い寄っている男なのだから、そのような方と恋仲になったら、世間からどう言われるか、考えるだに恐ろしい。でも、あの方が訪ねて来てくださるという楽しみがなくなったらどうして時を過ごしたらよいのだろうか。夫は「遠度と養女との婚儀は八月にしたらどうか」などと本気で言っている。もしそうなったら、もう何の夢もなくなってしまうのではないか・・・そう思うと、今からどうしてよいのかわからない。

 そんなある日、道綱が遠度様から二枚の女絵をいただいた。その一枚は、釣殿の高欄に女が寄りかかって中島の松を見つめている景色だ。そこで私はその絵の女を自分に見立てて歌を詠んだのだった。

 いかにせむ池の水なみ騒ぎては

心のうちのまつにかからむ

(あなたが他の女に心を移したら、末の松山を越えて波が押し寄せて来るだろう、そんな事になったらどうしたらよいのでしょうか)

 もう一枚の物思いに耽っている男を遠度様に見立てて、

 細蟹(ささがに)のいづこともなく吹く風は

かくてあまたになりぞすらしも

(蜘蛛の糸が風に漂うように、あなた様はあちらこちらに恋文を書いて女心を乱しているのではないでしょうか)

 こんな日々を送っていると、私たちの事を警戒して、夫は文を寄越し付けた。

「婚儀の時期は決めてあるのに、養女にかこつけて弟はそちらに毎日のように出入りして、そなたも華やかにもてなしているというではないか。世間の噂を考えろ」

 そこで私は夫に歌を書き送った。

 今更にいかなる駒かなつくべき

すさめぬ草と野枯れにし身を

(女盛りを過ぎた私などに今さら誰が言い寄ったりするでしょうか。馬が食べたくても野の枯れ草のように魅力を失った女の私ですもの)

 こうしていつの間に七月も半ばを過ぎた七月二十日ごろ、侍女たちが、「

右馬頭様がどこぞの奥方を盗み出して隠れてしまいになられました」と騒いでいる。・・・動転して胸が潰れそうになっていると、「噂は確かです」と侍女が取り乱して叫ぶ。崖から突き落とされたような心地がして倒れてしまった。

 何もかもが嘘・・・あの方も夫と同じ・・・そう思うと涙も涸れて、ただ愚かな自分が憐れだった。

 呆然と日々を過ごし、我に返った時には十年も年をとってしまったような気がした。そんなある日夫の兄・兼道様の文が届いた。冒頭に「あなた様が、いかなる駒か、と詠んだあのことはどうなりましたか、」とあって、

 霜枯れの草のゆかりぞ憐れなる

駒がへりてもなつけてしがな

(あなたはご自分の身を枯れ草のようになってしまったと嘆かれたようですが、私も霜枯れの草のような身、あなたさまが気の毒でなりません。私が若返ってあたなの草に馴染みたいものです)

 あの歌を・・・夫は兼道様にお見せしたのだ・・・何て恥知らずだろう、そう思ったけれど、悔しいとも思わない。ただ空しくて、何もかもが終わってしまったと思うばかりだ。

 昔の日記を見ると遠い昔の歌がある。

 嘆きつつ独り寝る夜の明くる間は

いかに久しきものとかは知る

 この時私は二十歳。初めて夫の浮気を知って泣き伏す日々を送っていた。でも、今は何も考えられない。夫に対する恨みも、右馬頭様との出会いも、なにもかも空しくなってしまった。 全てが私の周りから通り過ぎて行く。夜更けに、追儺(ついな)舎人(とねり)が戸を叩いて回っている。悪鬼を追い払っている。でも私の心は空っぽで、鬼すらもいなくなってしまった。