百人一首ものがたり 5番 猿丸太夫

目次

奥山にもみぢ踏み分け鳴く鹿の

   声聞く時ぞ秋は悲しき

百人一首ものがたり

小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話

「あまり強い下剤というものも善し悪しですね」と定家が厠から青い顔で戻ってきたので、

「また下痢をなさいましたか」

「まことに・・・五臓だけでなく脳髄までもが流れ出てしまうような有様でした」

「それは申し訳ないことをいたしました。しかしながら・・・私が処方いたました薬はそれほど強いものではないはずでございますが・・・」

「確かに心寂坊殿の薬は強ようはござりませんでしたが・・・少しも効き目がなかったものですから・・・」

「では、他に、何かお飲みになられたのですか」

「・・・あまりに腹が張るので今朝ほど昔だれやらにいただいた大黄を探し出して飲んでみたのです」

「何と、大黄を」

「やはり、止めるべきでしたかな」

「大黄はいけません。単味で服用しますと時には毒となります。どうか、二度とお飲みになりませんように」心寂坊が気色張ってそう云うと、定家は素直に肯きながら腹をさすっていたが急に表情を変えて、

「私は百人一首の第五番目に猿丸太夫をと考えているのですが、心寂坊殿はどう思われますか」と訊く。心寂坊は首を傾げて

「正直、私は猿丸太夫なるお方をまるで知りません。古今集の〈奥山に〉の歌は覚えてはおりますが、どのようなお方であったのかなどにつきましては皆目・・・」

 心寂坊が不明を恥じる様子なので定家は微笑して、

「心寂坊殿ならずとも、猿丸太夫が何者かを存じている者はおりますまいが・・・が・・・仮に猿丸太夫でないとすると、第五番目の歌人にはどなたが良いと心寂坊殿はお考えですか」定家こう訊くので心寂坊は少し躊躇しながら、

「私の如きものは当たり前の歌人の名しか思い浮かびませんが・・・たとえば、そう、山上憶良などは良い歌人といえるのではないかと存じますが」

「なーるほど、憶良はたいした人物です。して次には」

「次には・・・高橋虫麻呂などは忘れてはならない歌人と思います。なにしろ東歌が我が国に残っているのは虫麻呂の功績が大であると評判でござりますから・・・また女流歌人となれば、大伴坂上郎女は筆頭に来るでしょうし、紀郎女なども忘れてはなりますまい」

 心寂坊がそんなことを述べていると、山鳥が羽音高く庭先から飛び立った。定家は山鳥の姿の消えた空に目をやりながら、

「〈春霞たてるやいつこみよしののよしのの山に雪はふりつつ〉、この歌は古今集の何番でしたか」と尋ねた。

「は・・・第一番が在原元方、第二番が紀貫之、その次が、春霞の、読み人知らずの歌であったと存じますが」

「いかにも左様です。続いて第四番が二条の妃のお歌。第五番は〈梅が枝にきゐる鶯春かけて啼けどもいまだ雪はふりつつ〉ですが、これはどなたの歌でしたでしょうか」

「確か・・これも読み人知らずではなかったかと」

「その通り。そして次に素性法師の〈春たては花とや見らむ白雪のかかれる枝にうくひすそなく〉が続くかと見ると、その次は、また『よみ人しらず』として〈心さしふかくそめてし折りけれはきえあへぬ雪の花と見ゆらむ〉が来ます。即ち古今集の冒頭十首の三首が読み人知らずなのです」

「・・・」

「また、古今集の恋の歌の第一は誰もがご承知の〈郭公なくや五月のあやめくさあやめもしらぬ恋もするかな〉の歌が選ばれていますが、この歌もまた、読み人知らず。こうしたことは他の歌集にも共通して見られます。たとえば後撰集の冒頭の第四首は詞書きに〈ある人のもとににひまゐりの女の侍りけるが、月日ひさしくへて、む月のついたちころにまへゆるされたりけるに、雨のふるを見て〉とあって〈白雲のうへしるけふそ春雨のふるにかひある身とはしりぬる〉これもまた読み人知らずです。つまり後撰集も冒頭十首のうち三首が読み人知らずです」

「・・・」

「新古今集も同様に、第七、第八、第九が読み人知らず、こうしたことは何を意味しているのでしょうか」

「・・・」

「云わずと知れた歌の心は誰にも宿るものであり、誰もが歌うものであり、歌集もまた、天皇から名も知れぬ者までの歌心の発意でなければなりません・・・・私が猿丸太夫を選びましたのも、一つにはそのような意味合いがこめられています。猿丸太夫なるお方が実際におられたのかどうか、それは定かではありません。紀貫之が古今集を編纂した当時からあいまいだったのですから、今となっては確かめようがありません。猿丸太夫集なる歌集もありますが、これも一人の歌詠みの手になるものであるとは思えない。しかしその歌のいくつかはどうやら猿丸太夫という人の歌であるらしい、そうした伝説として残っている。私にはそれが面白い。〈奥山に・・・〉の歌はあるいは猿丸太夫なる人の歌であったかも知れないが、そうでないかも知れない。その曖昧なところが何とも興味深いのです。大切なことはこのような歌のあり方が万葉集から古今、新古今まで流れているということです。名のある歌人の歌だけが名歌ではなく名のない者の歌もまた、忘れてはならない歌なのです。私はこうした伝統を伝えて行きたい。だから、猿丸太夫は、読み人知らずの代表のようなものでしょうね」

 心寂坊は深く感じ入って無言で深く肯いた。青い森の彼方で呼子鳥が鳴いている。心寂坊は定家が早くも机に向かって筆を動かしている姿を側で眺めながら、あれほどにひどい下痢をした後にどうしてこのように偉大な仕事に熱中できるのか、不思議でならなかった。

 定家は机に向かったままひと言も喋らず、ただひたすら書き続けている。青い額に脂汗が浮かび、不意に厠に立っては、またよろよろとした足取りで戻ってくるのだが、その顔は何かに取り憑かれているようで、言葉を掛けるのも恐ろしい。心寂坊は邪魔になるのを恐れて軒端から庭に出ると野道を少しばかり歩いた。

 暮れ方前に戻ってくると、定家が、

「出来ましたぞ」と嬉しそうにこちらを見ている。心寂坊はあわてて「ほんとうでござりまするか」

「はい、見せましょうぞ」  定家は縁先に這うように出ると、書き上げたばかりのものがたりを小声で読み始めた。

五番目のものがたり 「滝壺」

 男は床から起き上がると眠っている女を乱暴に揺すぶった。「こんな真夜中にどうなさったのです」女はそう言ったが目をつぶったままだ。男はまた烈しく揺すぶって、

「起きてくれ、私の顔を見てくれ」

「お顔がどうかなさいましたか」

「早く、見てくれ」男は震える手で紙燭を自分の顔に近づけた。「どうだ、何が見える」

「何がとは何の事でござります?」女はうっすらと目を開けておぼろげな紙燭の灯りの中の男を見た。

「私をよーく見るのだ」

「はいはい・・・よーくご拝顔いたしました」

「それで、何が見える」

「・・・あなた様のお顔・・・」

「そうか、それで・・・・その顔は私か、それとも・・見たこともないような顔ではないか」

「何を寝ぼけておいでなのですか、そのお顔がどうして見たこともない男の顔でありましょうか」

 女は寝返りしてまた目を閉じてしまった。男は急いで起き上がると紙燭を持って水甕に近づき、水鏡に己の顔を映そうとした。暗くて何も見えない。男はまた床に戻ると女の耳に口を寄せて、

「起きてくれ、起きてくれ!」と叫んだ。女はその声に異様な気配を感じたのか、身を起こして男を見つめた。

「いったい、どうなされたのです」

「よく見るのだ。そしてはっきりと云ってくれ」

「何を申したら良いのです」

「お前の目に何が映るか、それを正直に言って欲しいのだ」

 男がこう云うと、女は訝しげに男を見て、

「どうなさったのです。何か夢を見たのでございますか」

「夢・・・夢であったのか?」

「そんなに妙な顔をなさって、まるでお猿さんのようでございますよ」

「猿・・」男は絶望したように大声を上げて髪の毛をかきむしった。「やはり、猿になってしまったのか」

 女は呆れて「何を申されるのです。どうなさったのです」

「私はほんとうに猿になってしまった」

「まあ、可笑しいこと、あなたは猿などではありません」

「俺は猿だ。お前はたった今、そう申したではないか」

「おかしなお方。私は〈お猿さんのよう〉と申したのです。猿、とは申しておりません」

 これを聞いて男は女の顔をのぞき込んで、

「では、確かに、私は猿ではないのだな」

「ええ、あなた様は私の大切なお方」女はそう言って男の胸に髪を埋めた。男は女の肌の暖かさを感じてようやく正気を取り戻すと、

「恐ろしい目にあった。あれが夢であったとは」とため息をついてこんな話をした。

「歌を詠んでいたのだ。いくつもいくつも詠んだ。そして考えた。これほどに楽々と歌が詠めるのだから、私は名のある歌人の仲間に数えられてしかるべきだ。都には名高い歌詠みが大勢居るが、名歌といえるのは数えるほどしかない。もしも私の歌が紀貫之など高名な歌人の耳に入れば朝廷からお声が掛かり、歌詠みとして認められるに違いない、そう思って更に歌を読み続けた。が・・・はっと気がつくと誰かが笑っている。見ると、紀貫之だ。貫之は笑いながら哀れげにこっち見ている。私の歌を聞いて驚く気配を見せるどころか、あざ笑って通り過ぎて行くのだ。私は腹が立って後を追いかけた。しかしいくら走っても追いつかず、やがて見えなくなった。

 気がつくと、高い崖の上に居た。千尋の谷から吹き上げてくる風が手足を氷のように包む。いつの間にこんなところに来てしまったのか・・・立ちすくんでいると、谷の底からなにやら良い香りが漂ってきた。私はその香に包まれると不思議な気持ちがして、枯れ枝を頼りに崖を降りていった。美しい香袋が木に掛かっていた。これは、と不思議に思って懐に入れ、更に下りてゆくと、滝壺に男が倒れている。立派な狩衣をつけ、弓を小脇に抱えたまま、滝に打たれて気を失っている。恐る恐る近寄ると、男は半分水に浸かった身体を僅かに動かして目を薄く開けた。見たこともない美しい男だった。

「大丈夫ですか」声を掛けると男は私をじろっと睨んだ。

「大丈夫とは何のことだ」男の声に、枯葉がはらはらと水の上に散った。

「あなた様が倒れているので、よもや死んだのかと」

「死んだ?・・どうやら死ねなかったらしい」男の目は深い怒りと悲しみに満ちていた。

「私は、命よりも大切な宝を失ってしまった。大臣の家から奪って背に負い、逃げて来たというのに、いつの間に鬼に盗まれてしまった。ああ、何ということだ」

「大臣の家から、姫を・・そして鬼に?」

「そうとも、鬼に取られてしまった・・」

「では・・では、あなた様は・・・まさか関白基経様の妹、高子様を盗んで逃げた・・・在原業平様・・・」

「なぜそれを知っている」

「・・・それは・・昔・・・話に聞きましたので・・・」

「そうか、昔話になってしまったか・・・だがお前はなにゆえそのように恐ろしい鬼でも見るような目で私を見る」

「・・・お噂の業平様と、あまりにも違うお姿を・・」

「違うだと、お前が想像した業平・・・そんな者はどこにもいない。命を掛けて盗み取った恋人を奪われて、全てを失い滝壺に身を投げて死のうとした男が、昔の業平であるものか・・・そもそもお前はなぜこんなこところにやってきたのだ。お前は鬼か、それとも、基経の手先か」

「いいえ、私は・・・ただの歌詠みでございます」

「歌詠みだと、いいかげなんことを申すな、このような山奥に、歌詠みなどいるものか」

「いいえ、確かに、歌詠みでございます」

「では、詠んで見よ、いますぐに聞かせて見ろ」

「はい、しかし、このように寒い所では詠むことはできません。私の庵でお聞かせいたしましょう」私がそう云うと業平様はいきなり私を滝壺の中に引き入れた。

「何をなさる!」

「お前が私の気持ちを分かるようにしてやるのだ。歌を詠むだと?何のために歌を詠む、言え、言って見ろ」業平様は私の頭を水の中に押し込みながら何度も叫んだ。私はもがきながら「名声です・・・それから、恋です」

「恋だと?」

「はい、恋です。あなた様のような恋です。死ぬような恋です。私は幾度も恋をしました。沢山の歌を詠みました。でも、あなた様のような恋をしたことがない。そのような恋に出会いたいといつも願っているのです」

 息も絶え絶えにそう云うと、業平様は私を水から引き上げて可笑しそうに笑った。

「何がそのように可笑しいのでござりまするか」

「お前のような者が恋だの歌だのとたわごとを申すからだ」

「いえ、私は日々歌を詠み、恋にあこがれておりまする」

 私がそう云うと業平様はまた一段と可笑しそうに笑った。

「小さな土地を持ち、小さな家屋敷にしがみつき、似合いの女を侍らせてその思いを言葉にしたものを歌と称するのであれば、そんなものは猿でもできるわ」

「何と、猿とは、あまりにひどいお言葉でござります」

「何がひどい、お前の歌は、どこの誰かの猿まねに過ぎぬ。左様、人麿が歌の神様なら、お前は猿の神様、猿丸太夫ぐらいにはなれるであろう」

「何と、猿丸太夫とは、なに故にそのように愚弄なさる」

「お前は、恋を知らぬのに恋をしていると思いこみ、歌を知らぬのに歌を詠んでいると思いこんでいる。そのように愚かな猿まねしか出来ぬから猿丸でよかろうということだ」

「あなた様が・・・そのようにむごい方とは」

「何とでも云うがいい。だがな、恋というものは手軽なものではない。命が懸かっている。何もかも捨てて、命さえも捨てて、恋いこがれた魂がこの肉体から抜け出るほどに思い詰めて、その思いが積もり積もって初めて恋となり、歌となるのだ。それを、お前は何だ。山裾に庵を結んで女を侍らせ、おかしな言葉を並べて歌などと称して得意になっている。それが歌か。馬鹿馬鹿しい。お前の歌を聞いて喜ぶのは、何も分からぬ猿の仲間ぐらいのものであろう」

「・・・」

「私が彼女を想った時、私の周りからあらゆるものが消え失せた。何もかも見えなくなった。牛車が大路を行く音も、山や川、月の影さえも消え失せた。ただ、私にあったのは彼女に寄せる思いだけだった・・・「水も喉を通らず、眠ることも出来ず、ただその人だけを思っていた。あの方の吐息だけが聞こえる。我知らず耳を傾けると、魂の戦きが、いつの間に言葉になる、詠おうとしないのに、ひとりでに歌が生まれる・・・歌とはそのようなものなのだ。私はそのような恋をし、歌を歌い、その果てにあの人と逃げ、あの人を奪われた。もはや全てを失った。この世にいることは無意味だ・・・猿、猿丸太夫、お前は立ち会い人ぞ・・・これが私の姿の見納めだ」

 業平様はそう叫ぶと、狩衣を鳥の羽のように広げ、ふんわりと滝壺に落ちていった。私は驚いて滝壺に身をかがめた。と、滝壺の水鏡に見えたのは、猿の顔だった。

 紙燭の灯りに歪む男の顔を女はまじまじと見つめた。

「業平様はあなた様を、猿丸太夫と呼んだのですか」

「そうだ、私をそのように愚弄されたのだ」

「まあ・・・でも・・確かに猿に似ている」

「そのようなことを申すな」

「いいえ、あなた様はお猿さま」

「つまらぬ冗談は止せ」

「はいはい、猿丸太夫様、承知いたしました」

 女がそう云って慰めたので、男はうとうとと眠った。そして目を醒ますと、女は居なかった。やがて戻ってくるだろうと思っていたが、幾日過ぎても戻らない。男は水も喉を通らなくなり、苦しみながら歌った。

  息長鳥(しながとり)猪名(いな)山ゆすり行く水の

名のみ流れて恋ひわたるかな

 男は野山を越えて探したが女はどこにもいなかった。

「やはり、私は猿だ。猿丸太夫だ。そんな私が厭になって、あの人は出ていってしまったのだ」

 見渡す限り秋の野が風に吹かれて寂しく揺れ居ている。猿丸太夫は空に向かって吼えるように、歌を詠んだ。

 宇陀野のの秋萩しのぎ鳴く鹿の

妻恋ふらくは我に劣るらじ   

 夏が過ぎ、冬になって、春になり、年月が過ぎていった。秋風が木の葉を吹き掠って行く。誰もいない。猿丸太夫は胸を掻きむしられる寂しさを覚えて歩き続けた。気が付くと夢に見た崖の上に立って居た。はるか下に滝壺が見える。山々は深い紅葉に包まれて静まりかえっている。鹿が鳴く声が聞こえる。男は知らぬ間に歌った。

 奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は哀しき