百人一首ものがたり 48番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 48番目のものがたり「如泥人」

風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ
砕けてものを 思ふころかな

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「かねてより中納言様にお尋ねしたいと存じておりましたのは、

   陸奥(みちのく)の安達が原の黒塚に

鬼籠れりと聞くはまことか

 という拾遺集の和歌でござります。これは平兼盛が詠んだとして、詞書きに『陸奥国名取郡黒塚という所に、重之が妹あまたありとききて、いひつかはしける』と見えますが、これはどのような次第でござりましょうか」と心寂房が尋ねるので、

「どのような次第とはいかなる意味でしょうか」と聞き返すと、

「文字通りに和歌を解釈しますと、陸奥の安達ヶ原の黒塚という所に、源重之の妻たちが大勢居るとの評判を聞いて手紙に書いて和歌を添えたその和歌の大凡の意味いうのは、〈黒塚に鬼が籠もっているとの噂を聞きますが、実際に黒塚においでの重之殿であればその噂が嘘か真かお分かりでしょうから、是非、お知らせ下さい〉、とこのような事でござりましょうが、平兼盛ともあろうお方がなぜこのような和歌を作ったのか、それが何としても分かりかねるのでございます」というので、定家は、

「当時、都では安達ヶ原に鬼がいるという噂があり、実は重之殿とその妻たちではないのかと評判になっていたようです」

「なぜそのような噂が立ったのでしょうか」

「それはおそらくは怨みからであろうと思います」

「怨み?・・・と申しますと」

「源重之はご承知の通り常ならぬ和歌の才に恵まれた人物で三十六歌仙にも撰ばれているほどです。重之は村上天皇の天暦四年に皇太子憲平親王に百首和歌を献上しています。あの有名な、

   風をいたみ岩うつ波の己のみ

砕けてものを思ふころかな

 という和歌もこの時に詠まれたのです。しかもこの時に詠んだ百首が今の世まで続いている百首和歌の始まりですから、重之は兼盛と並ぶ歌人として名高かったのです。しかし重之は不運にも天徳内裏歌合には出場できませんでした。そして翌年には信濃の国の掾として派遣され、都に帰還するとすぐに播磨の国の介として遣わされ、それから三年後には相模の国に、七年後には相模国に、その二年後には肥後の国守として赴任させられたのです」

「・・・」

「肥後には国守としての派遣でしたが、役を終えて都に戻るとまた筑紫に派遣されましたので、人の世の無常を感じたのか、当太宰府の大弐であった藤原佐理を頼って身を寄せていたようです」

「三跡として高名な藤原佐理様が太宰府に居られたのですか」

「太宰府の大弐といえば帥に次ぐ次官ですから大層な地位ですが、この人は大鏡に『如泥人』と記されているほどですから、酔うとどうにもならないほど愚図で怠け者であったようです。しかし書に掛けては神様にも惚れるほどであったとの伝説があるのですから、まことに優れた書き手であったのでしょう」

「神様が惚れるほどとはいかなる事でしょうか」

「それにつきましてお話すると横道にそれますが、ついでですから簡略にお話しますと、佐理が大弐の役職を解任されて都に帰る途中、四国の伊予の国にさしかかると、荒波が立ってどうにも舟が進まない。これはどうしたわけなのかと訝っていると、大三島の神が夢枕に現れて言うには、

『荒波を立ててあなたの行く手を遮ったのは他でもない、国中の社には立派な扁額が掛かっているのに、私の社には優れた筆跡の扁額がない。そこで御身に書かせようとして留めたのである』とこう述べるので、

『そのようなご意向でしたらお受けいたします』と夢で約束して目覚めると海は和いで空は晴れ渡っているので、すぐさま舟を伊予に向けて進んで岸に着いたので、神社の神官を召し出して精進潔斎して扁額を書いて都に戻ると大評判となって、佐理殿こそは小野道風、藤原行成に勝る日本国第一の能書家であると評判になったのです」

「それはまた、大変な出来事でござります」

「帰京の際の佐理の船には源重之も同船していたと思われます」

「では、伊予国の三島社の扁額を書くところを重之殿もご覧になっていたのでしょうか」

「それはあり得る事ですし、佐理が都中の注目の人物となって、関白道隆の東三条の邸に招かれて揮毫した時の有様も見ていたでしょう。しかし重之は帰京間もなく陸奥の国へ趣くことになったのです。それは何とも不可解な任務で、国守ではなく、藤原実方に随行するという形での東下りだったのです」

「実方とは、あの、藤原行成と喧嘩をして帝の逆鱗に触れ、陸奥へ流されたあのお方ですか」

「いかにも、その実方中将です」

「なぜ流罪同然に陸奥へ行く事になった実方殿に随行したのでしょうか」

「実方中将は貞信公忠平の曾孫に当たりますから、それ相当の随行員が必要とされたのでしょう」

「しかし、重之殿の父は清和天皇の曾孫ですし、重之の地位は従五位下相当ですから殿上人の身分なのに、肥後や筑紫を転々とした末に陸奥への随行とはあまりにも無情な仕打ちと見えますが」

「確かに、当時の都の人の目にも穏当ではない人事に見えたでしょから朝廷でもそれが取り沙汰され、やがては、『あれほど不当に扱われたのでは、早く連れ戻さないと怨念が籠もって鬼にでもなるのではないか』と噂され、例の黒塚の鬼の和歌になったのではないかと思われるのです」

「では、やはり、都人は怨念を恐れていたのでしょうか」

「道真公の例がありますから、怨霊に対する恐れは今よりも随分と深いものがありましたでしょう。なにより実方も怨霊になったと記されています」

「実方様が怨霊に」

「実方は陸奥に下って三年目に笠島道祖神前を通った時どうしたわけか馬が倒れてその下敷きになって死んだと伝えられ、その怨霊が賀茂川の橋の下に現れるとの噂が立って恐れられましたし、都へ戻りたいという思いがつのって死後に雀となって都に飛んで戻り、己を追放した者に復讐しようとして宮中の米を食い荒らしたとの伝説も生まれました。このような噂や怨念伝説は、都で不当な扱いをした者に生まれたのですから、重之に対する扱いについては当時から『このままでは良くないことが起きる』と噂が立っても当然というべき不当な扱いであったのでしょう」

 重之は、

  陸奥の安達の真弓ひくやとて

君にわが身を任せつるかな 

みちのくのあたちのまゆみひくやとて

きみにわかみをまかせつるかな

(陸奥の安達太良の真弓を弾くように、帝に私の身を任せてしまいましたので、どこへなりとも参りますが・・・)  と詠んではいますが、その心中はいかなるものであったでしょうか。

第48番目のものがたり 「如泥人」 )

 肥後の国をめぐり、筑紫国へ行くときは一月だった。峠の道には雪が積もり、随員たちが張り巡らした木の下で一夜を明かしたが、あまり寒いので、 

  旅人の侘びしきことは草枕

雪降る時の氷なりけり

 (旅人の侘びしいのは草枕ばかりではなくて、雪の山では氷を枕にしなければならないことだよ)

  夜が明けて山路を急いだが、誰も待つ人はいないのだと思うと涙が流れて、

  筑紫へと悔しく何に急ぎけむ

数ならぬ身の憂さや変われる

 (筑紫へ行くと言っても何のためなのかわからないのが悔しい。旅の道を急いでも心の憂さが変わることはないのだ)

 

 ようやく筑紫の大宰府にたどりついたので、大弐として赴任されている藤原佐里殿の御屋敷を訪ねると家司が、

「ご不快で伏せっておられるが、源重之殿ならば後日お会いしようと申されておられます。もしも文がございましたらお手渡しいたしましょう」というので、

   松ヶ枝に住みて年古る白鶴も

恋ひしきものは雲居なりけり

 (松枝に巣を作って長年住み着いている白鶴だとて大空の雲が恋しいように、あなたさまも宮中にお戻りになられたいのでしょうが、私も都が恋しくてなりません)

 このように詠んで文に書き付けて門の外に出ると、家司が追いかけて来て、

「大宰大弐佐理様はただ今ご不快が快癒されましたので、お目に掛かると申されております」と言う。重之は驚いたが、案内されて行くと、邸宅の奥の間に佐理は衣冠をぐちゃぐちゃに崩した格好で重之を待っていた。顔が少し赤い。酒を飲んでいたようである。重之は畏まって挨拶した。佐理は扇をパタパタと動かして、

「そなたの歌才については都にいる時から存じていたが、先ほどの和歌は大いに気に入ったので胸のわだかまりもすっかり癒えてしまった。不快で伏せていたというのは口実ではないぞ」というので重之は畏れ入って、

「私の和歌がそのようにお喜びいただきますとはまことに光栄でございますが、大宰大弐様のお心を煩わせていたものとは何でござりましょうか」と尋ねると、側に控えていた家司はハッとしたように顔色を変えたが、佐理はふふんと鼻先で笑って、

「わしはの、太宰の大弐を罷免されそうなのじゃ」

「・・・罷免とは、それは如何なることでござりましょうか」

「喧嘩じゃよ。喧嘩をして、相手を殴り倒したのじゃ」

「それは、また・・・いったいどなたと喧嘩をなされたのですか」

「宇佐八幡の神人じゃ」

「宇佐八幡とは、豊前の国の宇佐神宮でござりますか」

「他にはあるまい」

「しかし・・・その、宇佐八幡の神人と喧嘩をされたとは、私には分かりかねますが」

「分かるも分からぬも、宇佐八幡の神人は自惚れておるのじゃ。昔はそれほどのものではなかったのだが、和気清麻呂が御神託を受けて道鏡を追い払ってからというもの、朝廷からは天皇が代替わりする度に和気氏の子孫が宇佐使(うさづかい)を務めるようになった。これがために宇佐八幡は日本国第一の神宮と自惚れて、神人は私が太宰府に赴任して後もなかなか挨拶にも来ぬ。それが数ヶ月ばかり前にようやく顔を見せたので、面罵したのじゃ」

「・・・」

「面罵と申しても、遅参を叱咤したのではないぞ。祭神につき、議論をしたのじゃ」

「祭神の御議論とは・・・」

「重之、そなたは宇佐八幡の祭神を知っておろう」

「はい」

「申してみよ」

「ご祭神の筆頭は應神天皇、次は比賣大神。そして神功皇后でござります」

「では、比賣大神とは誰のことじゃ」

「私の聞くところによりますれば、八百万の神々の妻あるいは娘とする説があるようでござりますが、宗像三神の事であるとする説が有力と存じます」

「いかにもその通りである。しかし奇妙とは思わぬか。応神天皇、神功皇后は実在の天皇であり、神となった帝である。ところが、比賣大神の正体は諸説あり、不明というのが真相じゃ。日本第一の神の祭神の正体が不明とは何の事か私には分からぬ」

「・・・」

「では、もしも比賣大神が宗像三神となればどういう事か。そもそも宗像三神とは誰の事か、そなたであれば存じておろう」

「それは、大陸に渡る航路をご加護する、多岐津姫命 市杵嶋姫命 多紀理姫命の三人の女神の事と存じます」

「いかにもその通りじゃ。もしそうなれば、ますます妙なことになるのではないか。というのも、この三人の女神を生んだのはいったい、誰であったかな」

「スサノオ命でござります」

「では、応神・神功皇后の祖先は誰であるか」

「申すまでもなく、神武天皇、更に遡れば、瓊瓊杵尊、更に遡れば、伊勢神宮の天照大神でござります」

「それ見よ。いかにも奇妙ではないか」

「・・・」

「三人の女神の父はスサノオ命。応神天皇・神功皇后の祖先は天照大神。ところが、三人の女神たちが生まれた時、スサノオ命と天照大神は争いの真っ最中であった。高天の原をスサノオ命が支配するべきか、天照大神が治めるべきか、姉弟で争っていた。その最中に三人の女神が生まれたのだがスサノオ命と天照大神、その結果、天照大神は敗北し、天の岩屋戸に籠もってしまい、我が国は真っ暗になった。そうであろう」

「いかにもお言葉の通りにござります」

「天照大神とスサノオ命は敵同士であった。ところがその子孫が一つの神社に祭神として祀られているとはどうした事じゃ」

「お説の通りと存じますが、スサノオ命は天照大神に降伏し、八岐大蛇を退治してその体内から取り出した天の叢雲剣を献上したのでは」

「それは後の話。宗像三神が生まれた時には、互いに喧嘩をしていたのであろう」

「それはそうでござります・・・」

「私は宇佐八幡の神人に、それを指摘したのじゃ。すると大いに憤慨した」

「・・・」

「そのような暴言を吐くとは許せぬと申した。それで私はこう言ったのじゃ。この太宰府には、筥崎八幡宮がある。この神社のご祭神は、神武天皇の母で海の神でもある玉依姫命(たまよりひめのみこと)。そして応神天皇と神功皇后である。これら御祭神はみな天照大神の子孫であり、我が国の天皇の祖先である。しかも、平安の世になって後、醍醐天皇は筥崎八幡宮を壮麗極まりなく改装され、自らお筆を執って、「敵国降伏」の額をお書きになり、御下賜なされた。そのような額をお書きになられたというのも、唐の国が延喜七年(907)に滅亡し、続いて新羅国も高麗に存立を脅かされていたので、戦いに敗れた新羅の者の中には海賊になる者が続出し、筑紫沖に海賊船がしばしば現れるようになり、またいつなんどき大陸の災厄が我が国に降りかかるか分からぬので、醍醐帝は日本国の平安を祈ってこの額をお書きになられたのである。それ故、筥崎八幡宮こそが我が国を護持する御社殿であり、宇佐八幡が日本国第一の神社と自惚れる謂われはないと、このように述べると、宇佐八幡の神人は憤激して立ち上がり、私に詰め寄ったので、無礼な奴と諫めたがますます顔を真っ赤にして叫ぶので、その顔を二つ三つ殴ったところ、乱闘となった」

「乱闘とは」

「神人などと申しても虎の威を借りた人間に過ぎぬから大いに殴りつけた。すると逃げ帰って後、宇佐八幡は至急に朝廷に訴え出た。朝廷からは事の子細を知らせよと文が来たのでその通りに書いたが、人の噂では、私は間もなく罷免されるそうだ」

「・・・」

「罷免するなら喜んでそうすればよい。こんな田舎に一日も居られるものか。そなたも歌人であれば、都に戻りたいであろう。私が罷免されて戻る時には共に連れ帰ってやろう。筑紫の国守など、左大臣の道隆に頼めばすぐに解いて蔵人の役職などにつけてくれよう」というので、重之が感涙の涙を浮かべると、

「では、そなたが都に帰りたいという気持ちを和歌に詠んでみよ」というので、

   都へと壱岐の松原いきかえり

君が千歳にあはむとぞ思ふ

 (壱岐島を見ると、生きて都に帰りついて、千歳の君の治める世に会いたいと願っております)

 こう詠うと、佐理は大いに喜んで、夜を徹して宴を催してくれたのだった。

 

 それから数ヶ月の後、藤原佐里は太宰府大弐を解任されたので、重之は佐理の船団に加わって都に戻れることになった。重之は思わず涙して、

  なにことのけさはうれしきわれなれや

なみたはわかぬものにそありける

  正面に淡路島を見、右手に鳴門海峡を望むところに来ると、佐理が「世に名高い鳴門を和歌に詠まぬのはいかがか」というので、

  天の原なみのなるとを漕ぐ船の

都こひしきものをこそおもへ

 翌日、明石の浦の沖にさしかかると「柿本人麻呂は明石の浦を詠ったが、そなたはどうじゃ」と言うので、

  ほのぼのと明石の浦を漕ぎ来れば

昨日こひしき波ぞたちける

  こうして佐理とすっかりうち解けて都に戻ったので、重之は早速にも宮中から声が掛かるかと思っていると、果たして呼び出しがあったが、宮中の蔵人の役を仰せつかるどころか陸奥の国へ行けという命令だった。実方中将が陸奥の国に流されることになり、随員として付き従うようにとの事である。いったいこれは如何なるわけかと佐理に訊く暇もなく、実方中将は追い立てられた鳥のように都を立ったので、重之は妻や子ともども泣く泣く旅立ったのだった。

 常陸の国境を過ぎ、山また山を越え、ようやく安積山(あさかやま)にたどりついた時は秋もよほど深まっていた。実方は帝から『歌枕を訪ねて参れ』と命じられていたので、万葉集に収められている和歌、

 安積山 影さへ見ゆる山ノ井の

 浅き心を我が思はなくに 

という場所を訪ねようということになった。けれど、重之がその話を妻にすると、妻は、

「安積山の山ノ井の伝説は、糠治朗と春姫が身投げした不吉な活けです。どうぞ行かないで下さい」といった。ところが実方は、

「訪ねぬというわけには参りません。古今集の序には『歌を習おうとする者は、難波津の歌と共に安積山の歌を習わねばならない、これらの歌枕は歌の父と母である』と記されているのですから、ここまで来て訪ねなかったら何のために来たのか分かりません」というので、妻子を残して安積山を訪ねたのだった。

 ところが日暮れ時に戻ってみると、幼い我が子が死んでいたのだった。重之はなぜ突然これほどの不運に見舞われたのか訳がわからず、泣きながら詠った和歌は、

 

 言の葉にいひおくこともなかりけり

忍ぶ草にはねをのみぞ泣く

(悲しみを言葉に表すことなとりできようか。子がいなくなった宿の忍ぶ草を見る度に耐えられず泣いてばかりいることだ)

 

 さもこそは人に劣れる我ならめ

おのが子にさへおくれぬるかな

(なんということだ、自分の子にさえ死に後れてしまうとは)

 水の面に浮きたる泡を吹く風の

ともに我が身も消えや死なまし

(水面に水泡が浮いて、風に吹かれて消えてゆく、その道連れに、我が身も消えてしまいたい) 

 重之は墓の周りに生い茂る草の原に風が吹く有様を見て、遠い昔、この世のことなど何一つ知らぬままに詠った和歌を思いだした。

風をいたみ岩うつ波の己のみ

砕けてものを思ふころかな あれは私の運命を予期して詠んだのだ。重之は果てしない陸奥の国の空の果てを眺めていつまでも立ちつくしていた。