百人一首ものがたり 47番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 47番目のものがたり「愛宮」

八重葎(やへむぐら) しげれる宿の さびしきに
人こそ見えね 秋は来にけり

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「中納言様、一つお尋ねしたい事は、源満仲の事でござります。清原元輔様のお話の時に、左大臣を失脚に追い込んだのは密告であったという事でございましたが、密告者であった源満仲が莫大な財を貯えるに至ったのはいかなるわけがあったのか、それが理解できないのでございます」と心寂房が言うと、

「それは重大な疑問ですが」と定家は身を乗り出して「国事の運営に密告を用いる事ほど国を危うくするものはありません。しかし安和の変の密告者である源満仲は卑しまれるどころかその功績によって正五位下に昇叙されたのです」

「密告者が殿上人になったのですか」

「実頼や兼家は源満仲に餌をやって手なずけておけばこの先都合がよいと考えたのでしょう。ところが満中は兼家の手に負える代物ではありませんでした。満中は陰謀の手先として働きながら、実は大きな獲物を狙っていたのです。獲物は藤原千晴でした。

千晴の父・藤原秀郷は藤原北家の血を引く武将で、天慶の大乱の際、将門を討ち滅ぼした功績によって従四位下に叙せられ武蔵・下野二ヶ国の国司と鎮守府将軍に任じられましたが、千晴は安和の変が起きた時期、源高明の随身として仕えていたのです。 

満中は検非違使の弟・満季に命じて千晴とその子久頼を捕らえさせ、まんまと武蔵国を手中にしました」

「国守になったのですか」

「いかにもその通りです。満仲は武蔵国を足がかりに勢力を拡大し、各地の受領・国主を歴任し、遂には鎮守府将軍の地位まで得たのです」

「・・・」

「他方捕らえられた千晴一族は陸奥の国に追いやられ辛酸を嘗める事になりましたが千晴の子孫は苦難を乗り越え、やがて清衡・基衡・秀衡が出るに及んで、陸奥国に北の都と謂われるほどの一大王国を造り上げました・・・しかしこの奥州三代の栄華も長くは続きませんでした。というのも義経を匿った罪で、満仲の末裔である頼朝によって、跡形もなく滅ぼされましたから」

「・・・」

「ところで秀郷には千晴の他に、千常という息子があり、千常の八代後に現れたのが、佐藤義清、即ち西行なのです」

「西行殿は秀郷の後裔でしたか」

「義清は六韜三略(りくとうさんりやく)の極意に通じ、弓術にかけては右に出る者がないほどでしたから、鳥羽上皇は義清を従五位下に叙し、左兵衛尉に任じたのです。保元の乱の張本人であった左大臣頼長も義清を称え、その日記《台記》に「重代の勇士」と記しています。ですから義清が北面の武士を辞した時、左大臣は『何故そなたのように優れた武士が僧侶などに』と驚きました。

 ご承知かと存じますが、西行は文治二年(1186)の夏、東大寺再建のため東北への勧進の旅に出ました。秀郷以来の縁戚に当たる藤原秀衡に砂金を寄付してもらうためでした。西行が鶴岡八幡宮にさしかかったのは八月の十五日、頼朝が参詣に来る日でした。随行していた梶原景時は鳥居の陰に西行がいるのを認めて頼朝に報告すると、『是非会って話がしたい』と言うので、梶原景時はすぐさま西行にその旨を伝え、館に案内しました。

巷に伝えられている話によればこの時頼朝が歌道や弓馬の事などあれこれと聞き質したのに対して西行は『何事も忘れ果てました』とろくに答えもしなかったとされていますが『吾妻鏡』には『秀郷朝臣以来九代嫡家相承兵法焼失。依為罪業因。其事曾以不残留心底。皆忘却了』と見えます。

 二人の出会いは実り無きものに終わりましたが頼朝は別れに際し銀造りの猫を贈りました。ところが西行は門外で遊ぶ子供にその猫を与えてしまいました」

「・・・」

「西行で思い出しましたが、安和の変の時、歌人であった僧侶が事件に関わって居りました。恵慶法師という人物です。和歌そのものは西行に遠く及びませんが胆力という点からすると決して劣る者ではありません。源高明が太宰府に流され、西宮の邸は廃墟となりましたが、恵慶法師は事件直後、この邸で源高明を偲ぶ歌会を催しているのです」

「謀叛罪で捕らえられたお方を偲ぶ歌会とは、大した勇気のある僧侶でござりますが、どのようなを詠んだのでしょうか」

「これをご覧下さい」

『    題 ぬしなき宿を

 いにしへを思ひやりてぞ恋ひわたる

荒れたる宿の苔の石橋(いははし)(新古1685)

(いまはもうない昔を恋しく思いながら、主を失った家の苔の生えた石橋を渡ることだ)

 源高明が陰謀罪で逮捕されたのは安和二年(969)三月二五日。左大臣の邸が全焼したのはそれから五日後の四月一日ですから、歌合をしたとすればその五日間を措いてはあり得ません。『ぬしなき宿』の歌はその時に詠まれたものと思われます」

「左大臣の邸は焼けたのですか」

「何者かによって火を付けられたのです」

「・・・」

「次の和歌は事件と関わりがあると思われる恵慶法師の歌です。

  百千鳥こゑの限りは啼きふりぬ

まだ訪れぬものは君のみ

 これを見て、何か思い当たりませんか」

「・・・難しいご質問でござりますが、一向に」

「では、これをご覧下さい。『あはれ今は、かくいふ甲斐もなけれども、思ひしことは、春の末、花なむ散ると騒ぎしを、あはれあはれと聞きしまに、西のみやまの鶯は、限りの声をふりたてて、君が昔の』

「確か、蜻蛉日記の一節では」

「いかにも左様です。源高明が謀反の罪で配流された時、兼家の妻が源高明の北の方に出した手紙の文面です。高明の妻・愛姫は兼家の妹ですから、兼家の妻とは義理の姉妹という関係になりますが、ごらんなさい、ここに『西のみやまの鶯は、限りの声をふりたてて、君が昔のあたご山』とみえますが、鶯は『百千鳥』とも呼ばれていますので先の部分を百千鳥としてみますと、次のようになります。

  百千鳥限りの声をふりたてて、君が昔の・・・

 これに対して恵慶法師は、

  百千鳥こゑの限りは啼きふりぬ

まだ訪れぬものは君のみ」

「・・・似ておりまする・・・しかし何故に」

「兼家の妻は『深山の鶯が声を限りに鳴き声を上げて飛んで行くように、西宮の左大臣様は何があだとなったのでしょうか、愛宕山をさしてに身をお隠しになられたと聞いております』と記しているのですから、『あなたの夫は己の罪故に身を隠したのですね』と言っているようにも受け取れます」

「兼家の妻はなぜそのように不躾な文を届けたのですか」

「日記には慰めるためと記されていますが、受け取った妻からすれば夫が罪人扱いされているのですから『それ見たことか』とあざ笑っているとも思えましょう。兼家の妻は恨まれるの見越していたものか、偽名で届けているのです」

「偽名」

「そうなのです。『蜻蛉日記』にも偽名を使ったとはっきり記されています。しかし愛姫と兼家の妻は義理の姉妹なのですから隠しても筆跡を見ればそれと知れましょう。愛姫の憤懣と嘆きはひとかたならぬものがありましたので恵慶法師は愛姫の気持ちを推し量り、彼女に成り代わって『百千鳥』の和歌を詠んだものと思われます」

「しかしなぜ恵慶法師はそこまでしたのでしょうか」

「愛姫は兄の兼家に裏切られた上、源高明との絶縁を迫られていましたし、身内の者は罪人との関わりを恐れて近寄る者もありませんでしたから絶望の淵に立たされていたのです。恵慶法師は見るに見かねて何とかお慰めしたいと思ったのでしょう」

第47番目のものがたり 「愛宮」)

 恵慶は河原院の庵に梅の花が散る様を眺めて歌を書き付けた。

 悲しさは響きの灘に満ちにけり

都の人も聞き墜つるまで

 あれほどすばらしいお方が、陰謀などというありもしない罪を着せられて遠い九州の響きの灘にまで流されるとは。往年、高明様と愛宮様の睦まじいお姿を拝見して、歌詠ったことを思い出す。

  妹背山ふもとに住まぬ身なりせは

疎くぞ見まし峰の霞を

(妹背山の名の通りお二人は仲睦まじくお過ごしですので、私はお近くに住むのをはばかって遠い峰の霞に隠れて拝見しておりますが、そのような私を、どうか疎くお思いにならないで下さい)

 高明様は醍醐天皇の皇子、愛宮様の父は右大臣藤原師輔様、母・雅子内親王は醍醐天皇の娘、そのようなお二人をお近くで眺めるとその雅な振る舞いと高貴なお心にひたすら驚くばかり、この世の人とも思えぬほどだった。それがまるで天人が羽をもがれて真っ逆さまに墜ちるように何もかも失ってしまわれるとは。

 恵慶法師が物思いに浸ってぼんやりしていると誰かが走ってくる足音がした。見ると安法法師である。安法法師は嵯峨天皇の皇子・左大臣源融の曾孫で、広大な河原院を受け継いだのだが、資力もないので荒れ果てたままになっている。恵慶法師はその一角に仮住まいをさせてもらっている。

「右京の四条あたりが大火事です」

「四条・・・左大臣の西宮がある所ではありませんか」

 通りに出ると群衆が騒ぎながら火炎の方角に走って行く。『あれは確かに西宮左大臣の御屋敷だぞ』と口々に叫んでいる。

 恵慶と安法は人々に押されて走った。近づくと火勢は恐ろしいばかりで、炎が天を焦がしている。

「北の方はいかがしただろうか」

「すでに避難なされたでしょう」

「それならば良いが」

 二人が燃えさかる火を見ながら案じていると検非違使の侍が通りかかったので、

「もしや左大臣の北の方の行方をご存じでしょうか」と訊ねた。すると侍は二人を睨み付けて、

「北の方だと?お前らは何者だ」

「比叡山の僧侶にござります」

「叡山の僧が何のようだ」

「私たちは左大臣に知遇を得、歌合にもお呼ばれいたしました」

「貴様らが罪人と関わりがあると聞いては捨てては置けぬ」

 役人が二人を引き立てようとしていると、鎧を着けた侍が近づいて来た。源満仲の弟で検非違使を率いている満季だった。

満季は恵慶を見て、

「お前たちは先頃この邸跡で歌合をしていたな」

「はい」

「罪人と関わりがあると分かれば陰謀罪に問わねばならぬが、それでも良いのか」

「私どもは左大臣の歌合にしばしばお呼ばれして末席を汚しておりましたが、左大臣は太宰府に流され、驚く間もなくこの大火。北の方が心配でならず、駆けつけたのでございます」

「なるほど」満季はじろじろと二人の法師を見詰めていたが、

「お前共はあの河原院に住んでいるのだな」

「はい」

「ではお前が左大臣源融の曾孫の安法法師か」

「はい」

「そこで毎日何をしておる」

「二人で和歌を詠んで過ごしております」

「幽霊屋敷で和歌を詠む?」満季はそう言ってなおも二人に何か言いたげであったが火勢がいよいよ強くなったので、

「北の方なら既に一条の桃園の邸に移した」と言い捨てると、配下を率いてその場を去った。

 恵慶と安法法師は桃園の邸に急いだ。案内を請うと、家司が、

「北の方様は床に伏せておりますのでどなた様にもお会いになりませぬ」と言うので、

  都鳥きみに遅れし春よりも

声なき弱る我と知らずや

  (左大臣さまについてゆく事も出来ず、遅い春の訪れで私は声もでぬほどに弱り果ててしまいました)と詠んで、

「どうかこれをお渡し下さい」と手渡すと、家司は文を持って奥へ入ったが、再び姿を見せて、

「明日、お目に掛かるそうでございます」と言うので、恵慶と安法はひとまず河原院へ戻ったのだった。

 翌日二人がお訪ねすると、愛姫は御簾の下から文を差し出して、

「どうぞごらん下さい」

 紙屋紙に包み、両端をひねって閉じ、神事に用いるような白木の削り木に付けた文である。

「どなたからのお文でございますか」

「使いの者は多武の峰からと申しておりました」

「多武峰とは、愛宮様のお兄上・高光様が出家して入っておられるお寺でしょうか」

「はい。私も兄からの文と思って見たのですが、そうではありません。兄の名を騙った偽名の文なのです」

「偽名とは、では、この文の差出人は」

「私の兄、兼家の北の方、道綱の母からです」

「・・・」

「義理の姉ですから間違いありません。多武峰の兄の高光からの文と思えば読むであろうと考えて偽名で届けたのです」

「義理の姉が偽名を使うとは」

「あの方は兄の兼家から冷たくされているので同情もしていたのですが、このようなものを届けてくるとは・・・」

 愛宮はそう言いながら涙を流すので、急いで目を通してみると、

『あはれいまは かくいふかいひも なけれども おもひし・・・・』長文の文の後に歌が添えてある。

 やど見れば蓬の門もさしながら

あるべきものと思ひけむぞや

(あなたの御屋敷を訪ねて見れば、蓬が生い茂って門は閉ざされて人の気配もありません。これほど荒れ果ててしまうとは、誰がこの有様を思ったことでしょうか)

 更に読むと『ゆきかへる かりの別れらあらばこそ 君が夜床も あらざらめ 塵のみ置くは むなしくて 枕の行くへも 知らじかし』

(仮の別れだったらあなた様の臥所が荒れ果てるといことはありますまいが、太宰府への流刑という思い罪では長い別れとなりましょうから、床にはむなしく塵が積もるばかりでしょう)

『何とも無情な文だ。兼家の妻は才女として都にその名を知られているほどの女だが、何故これほど情け容赦もない文を偽名で届けたのだろう。愛宮様の出自に比べ、兼家の妻は中級貴族に過ぎぬ。そうした常日頃のねたみ心がこのような意地の悪い文を書かせたのだろうか』

 恵慶があれこれと思っていると愛宮は涙ながらに「この文には『あはれあはれと聞きし間に』と、あわれという言葉が繰り返されております。これは私の大切なお方が死んでしまったと言うも同然ではござりませぬか」と泣くので、

「左大臣は無実なのですから、やがては事実が明らかにされ、お戻りになられましょう」と慰めると、

「私が記憶しております文で、あはれあはれと、二度あはれを重ねてあるものは、ひとつしかござりません。聖徳太子が片岡に倒れている人をご覧になられ、しなてるや片岡山に飯にうゑてふせるたひ人あはれおやなしとお詠いになられましたが、そこには、 飯に飢えてこやせる旅人あはれあはれといふ歌なり と記されております。ですからこの『あはれあはれ』という言葉は、死んだ人に対して使う言葉なのです。兼家の妻は学問好きの人ですから、そうした故事を踏まえて『あなたの夫である源高明は死んだのですよ、あきらめなさい』と言っているのだろうと思います」と言ってむせぶように泣くので、恵慶は慰めようもなく涙を流すばかりだった。

 源高明が流罪になった翌年の天禄元年、摂政関白太政大臣・藤原実頼が頓死した。事件に関わった者たちは『高明の祟りか』と驚き、道真公の怨霊の二の舞になるやも知れぬと懼れて、翌年、源高明の罪を解き、都に戻ることを許した。高明は愛宮を伴って葛野に隠棲したが愛宮は間もなくこの世を去った。訃報が恵慶法師に伝えられたのはそれから間もなくのことである。恵慶はひとり河原院の庭に立って、詠った。

 八重むぐらしげれる宿のさびしきに 人こそ見えね秋は来にけり