百人一首ものがたり 46番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 46番目のものがたり「」

由良の門(と)を 渡る舟人(ふなびと) かぢをたえ
ゆくへも知らぬ 恋(こひ)の道かな

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

 定家は文机を縁に近づけて書き物をしていたが、人の気配を感じて目を上げると粗衣を纏った僧侶が立っていた。右耳がそげ落ちて、風に墨染めの衣が揺れている。

「これは明恵上人様」定家が縁先から庭に下りて挨拶を交わした。「六波羅探題からの帰り道なのです」

「六波羅探題へおいでとは、また特別なご用でしたか?」

 明惠上人と六波羅探題とは特別な関係にあった。それというのは承久の乱の後、敗れた後鳥羽上皇側の武将や殿上人たちは散り散りバラバラになって各地へ逃亡したが、明恵上人の高山寺にも大勢が逃げ込んだ。鎌倉方は直ちに追っ手を差し向け、武将等ばかりか山の者全てを捕縛して六波羅探題へ引っ立てた。この時取り調べに当たっていたのが北条泰時だった。泰時は乱が勃発すると東海道大将軍として鎌倉の大軍を率いて進軍して上皇方の軍勢を撃破し、六波羅にとどまって戦乱の処理に奔走していたのである。泰時は捕らえられてきた者の中に右耳を切り落とした僧侶の姿を認めると高台から降りて自ら縄目を解き、

「ご無礼、お許し下さい」と平伏して、弟子になりたいと申し出た。泰時はそれ以後、明惠上人の弟子となったが、元文元年(1224年)父義時が脚気衝心により急死したので鎌倉に戻って執権となった。しかし義時の死はあまりにも急であったので毒殺説も流れた。後に、定家は明月記に、承久の変の首謀者の一人で、乱の後十津川に潜んでいた尊長が絡め取られて拷問に掛けられた時、苦しさの余り『ただ、早く頭を切れ。然らずんば、義時の妻(伊賀の局)が夫・義時を殺した薬を喰わせて殺せ』と叫んで『衆中すこぶるこの詞に驚く』と書き記した。(安貞元年四月十一日の日記)

 

 定家は上人を座敷に招き入れた。床の間には掛け軸に和歌が見える。

  月やあらぬ春や昔の春ならぬ

我が身ひとつはもとの身にして

  上人はつくづくと見て、

「業平殿がこの和歌を詠まれてからどれほどになりましょうか」

「想像もできぬほど遠い昔になってしまいました」

「それほどの歳月をひとまたぎにしてしまうのですから、和歌というものは月よりも長い足をしているようでござります」

「然り」

「本日参りましたのは、お願いがござります」

「願いとは」

「これをご覧下さい」

 上人が取り出した書面を開くと、和歌があった。

 世の中に麻はあとなくなりにけり

心のままのよもぎのみして

(麻は本来まっすぐなものなのに、今の世は救いようもなく乱れているので、麻までもが真っ直ぐでなくなってしまった・・・善人であるはずの人間もまた、末世の時代のせいで、野放図のヨモギのようになってしまったとは・・・」

 定家は読みながら『荀子』を思いだした。勧学篇に『蓬生麻中、不扶而自直』という一文がある。「本来は勝手に伸びる蓬のような植物でも、麻の中に交われば、まっすぐに育つものである」というのが漢詩の意味だが、この歌は荀子を本歌取りして詠いながら、その麻すらも曲がってしまう世の中になったと嘆いている。・・・いったいこのような和歌を詠むのは誰であろう・・と定家が訝しんでいると、

「もう一首ございます」

 思ふには深き山ぢもなきものを

心の外(ほか)になにたづぬらん

 (深い山に入って修行をしたいという思いがないわけではないが、仏道には山も俗世の区別もない。どこにいようと心を訪ねてゆけばよいのだ)

「これはもしや・・」

「お察しの通り、北条泰時殿でござります」

「この和歌からしますと、随分と悩んでおいでのようですが」

「確かに悩みが深いお方でござります。北条家は代々に亘って多くの罪を犯しましたので泰時殿は罪をあがないたいと努力しておいでのようですが、胸中の苦しみがどうしても和歌に出てしまうようでございます」

「なるほど。して、上人様の願いとは」

「定家殿は右大臣実朝殿の歌の師でござりましたので、泰時殿は『私の歌も定家殿に見ていただくわけにはゆかないでしょうか』と頼んで参られたのです」

「左様でございましたか・・・承知いたしました。鎌倉に参るわけには行きませんが、歌をお送りいただければ拝見させていただきます」

 これを聞いて上人は安堵した様子で、白湯を一口飲むと山に戻って行った。

 翌日、心寂房が小倉庵を訪ねてきた。定家が昨日の出来事を話して聞かせると、

「泰時という方は父の義時などとは違ってずいぶんと評判の良い人物のようですが、中納言様の和歌の弟子になりたいと自分では言えないので、明惠上人に頼むとは、執権に似合わず純朴な方のようでございます」と言いながら、文机の草稿を見て、

「これは、曾丹とありますが」

「心寂房殿は、曾禰好忠という歌人をご存じですか」

「いいえ」

「とても愉快な人物です。明惠上人は大層和歌を詠まれますので曾丹をどうお思いか、あれこれとお聞きしたかったのですが、北条泰時の話の後に曾丹を持ち出すのはいかがかと思いまして、お話しませんでした」

 これを聞いて心寂房は、「お恥ずかしいことでございますが、私はほとんど存じません。そもそも曾丹というお方はいつの時代の方でしょうか」と訊くので、

「円融天皇の頃に活躍した歌人です。祖先は神ニギハヤヒノミトコと称しておりますが実は父祖も明らかでなく、下級役人として生涯を過ごしました。当時は剽軽な変わり者として半ば馬鹿にされておりましたが、実は大変な歌人ですよ」  定家はそう言って草紙を広げた。

第46番目のものがたり 「ゆらのと」)

 事件の翌日、好忠は雪の舞う風の中、女を訪ねた。女は桐の火桶に真っ赤に炭を熾して待っていた。

「このような雪降りの中をおいでになられて、さぞ良いお歌が積もっているのでしょうね」と女は好忠の手を握りしめた。曾丹は嬉しくなって、

「それはもう、雪山のように高く積もっています」そう答えて、

 深くしもたのまざるらむ君ゆへに

雪ふみわけて夜な夜なぞゆく

(美しいあなたの許には貴人も通っているのですから、しがない丹後の国の役人に過ぎぬ私を深く頼りにはしていらっしゃらないのでしょうが、私はあなた様のことばかり思って、いてもたってもいられぬ気持ちなので、深く積もった雪を踏み分けて、夜な夜なあなたのもとに通っているのです)

  これを聞くと女は好忠の手を握り返して

 忘れては夢かとぞ思う思ひきや

雪ふみわけて君が来むとは 

(今こうしてあなたさまのお姿を拝見しておりますと、夢を見ているようです。このような雪の夜までもおいで下さるのですもの)

 これを聞くと好忠は火桶を飛び越えて、女を抱きしめた。実は好忠は雪の中を歩きながらしきりに業平様を思っていたのだが、女は好忠の心を何もかも承知して、業平様の歌を本歌取りして応えたのだ。その業平の歌というのは、

 忘れては夢かとぞ思ふおもひきや

雪ふみわけて君を見むとは

(昔内裏で拝見したあなたさまのお姿を思い出しながら今のあなたさまのお姿を拝しておりますと、信じられぬ思いです。深い雪が降り積もったこのような山奥で、何もかも失って失意に沈むあなたさまにお逢いしようとは、想像だにしませんでした) 

「あなたはなんというお人だろうか」と好忠は囁いた。「あの事件によって、私は都の人々の笑いものになり、馬鹿にされている。あなたはそれを知りながら、以前と少しも変わらず、私を愛して下さる・・・惟喬親王が藤原良房にその地位を追われて雪深い山里に逼塞された時、宮廷の方々はみな良房を畏れ、親王を見舞いに訪れる者は誰一人いなかった。しかし業平様だけは権力者の目を少しも恐れず、足繁く親王の許に通われ、共に歌をお詠いになり、琴を弾いて親王をお慰めになった。ちょうどそのように、あなたはこの世でただひとり、私を慰めようとしているのですね」

 好忠が涙を流してそう言うと、女は好忠の頬を白い指でそっとつついて、

「あなた様は、ほんとに面白いお馬鹿さんですこと」と微笑んだ。

 事件というのは円融天皇がご退位なさって太上天皇になられたのをお祝いして、子の日の野遊びの歌合を催すことになり、紫野の船岡に行幸なさった永観三年二月十三日に起きたのだった。この日都の人々は紫野にお成りになる太上天皇の行列をひと目見ようと、冬の寒空にもかかわらず二条大路から大宮大路にかけて物見車が隙間無くぎっとりと立ち並んで身動きもままならぬ有様だった。

 お供の殿上人、上達部の行列は目を奪うばかりに美しく、これに続く女人たちを乗せた車はさまざまな御簾や絹の吹き流しで飾り立てているので、それらの牛車の中には天女が隠れているのではないか思われるほどだった。

 歌合の催される船岡には寝殿造りの見事な庭そのままに、遣り水を引き、奇岩や奇木を立て、丘の下には白砂をひろびろと敷いてはるかな大海に見立て、背面には松が亭亭と立ってその前に錦の幔幕を張り、幕の中には帝の着座なされる唐錦の幕屋をしつらえて高欄を立て、御簾を掛けて、お側近くには直衣に衣冠束帯姿の藤原兼家、雅信の左右の大臣が居並び、大納言為光ほか公卿・殿上人の座が続き、庭をはさんで反対側の幔幕の前には歌詠みの座が設けられていた。

 この日歌詠みとして召されたのは、大中臣能宣、平兼盛、清原元輔、源滋之、紀時文の五人である。方人たちはそれぞれに着飾って、工夫を凝らした州浜を目映いばかりに飾り立てて運び入れ、舞姫たちが笙篳篥の音に合わせて華やかに舞い踊ると、どこからともなく歓声があがり松の梢までめくのだった。

 やがて威儀を正した講師が立ち上がり、歌合を詠み上げる頃合いとなった。その時だった。何者とも知れぬ者が歌人の席の幔幕を引き上げて入ってきた。丁子染の着古した狩衣に柿渋で染めたような袴を着けている。彼は五人の歌人の末座に入り込むと悠然と着座し、筆と墨を膝の前に置き、巻紙を幣束のように突き立てて、『さあどのようなお題でも詠んでみせますよ』とばかりにすました顔であたりを見回した。侵入してきた男の隣の席にいた紀時文は仰天した。

「何と・・・そなたは・・・誰かと思えば、丹後掾(たんごのじょう)曾禰好忠殿ではありませんか・・・いったい誰に召されてここにお出でになったのです」

「誰と申して、さるお方に召されて参りました」

「それは異な事でございます。歌人はここにいる五人と決められているはず。曾禰殿の名は聞いておりませぬぞ」

「いかにも左様。あなたはどうしここにお座りになっているのですか」

他の歌人達も怪訝な顔をして好忠をみつめた。しかし当の好忠はそしらぬふりをして見事な松を眺めている。歌人たちは、

「曾禰殿がこれほどに自信ありげに座っているのは、公卿のどなたかが召し出したのではないか」とささやきあった。周りの者たちもざわめき始めた。遠くからこの様子を見た右近中将藤原道隆が判官代を呼びつけて、

「あの奇妙な烏帽子の者は曾丹ではないか、あのような者を誰が召し出したのか、確かめよ」と命じた。判官代はあわてふためいて公卿たちの前にはいつくばって、

『どなたさまが曾禰好忠殿をお呼びになられたのでござりましょうか』と確かめて回った。誰一人として好忠を召し出したというものはいない。判官代は歌人の席に走って来ると、好忠の後ろに回って、

「そなたを召したお方はどなたも居られぬ。召しも無きに、何故にここに参って居るのか」と詰問した。好忠は平然として、

「この歌合は太上天皇のお祝いの席でありまする故『世に名高い歌詠みこそ参るべし』と聞き及んでおりましたので、私こそ最も優れた歌詠みと心得、参上いたしました。ここに居並ぶ方々と私と、どちらが優れた歌詠みであるか、競ってみれば明らかでござります」と涼しい顔をして答えた。これを聞いて判官代はいよいよあきれ果てて、

「此奴は召しもないのに押し入って参ったのだ。さあ、早々に立ち去れ」と厳しく叫んだ。しかし好忠は、

「何故に立ち去るわけがあろうか。優れた歌詠みこそがここに在るべきであるに、追い出されてなるものか」と遣り返した。

 この有様を遠目に眺めていた法建院の大臣藤原兼家と閑院の大将藤原朝光は歌合が妨害されていることに腹を立て、

「早くそやつの襟首をつかんでつまみだせ」と命じたので、大勢の若い殿上人が曾丹の襟首をつかむと引き倒して、幕の外に引きづり出して、大勢で笑いながら好忠の身体となく手足となく踏みつぶした。好忠はさんざんに踏まれたが、隙を見て逃げ出して、小高い丘に上ると追いすがる者共に向かって、

「天下の歌の名人がこのような目に遭わされるのは歌を知るものがいないからだ。他の歌人を見よ。人形のように衣冠をつけ、歌を考えると称して掻栗をぼりぼり食って、ろくな歌も詠まぬ。このような有様ではこの国の和歌の道は滅びるであろう。それを見かねて私は参上したのだ。太上天皇はきっと私の歌をお慶びになったであろうに、こうして追いとばすとは、なんたる愚かものであろうか。野遊びの日であるというのに、本物の歌遊びというものが誰一人分からぬと見える。何という情けない世の中であろうか」と叫んだので、これをお聞きになった円融の帝は「面白い者である」とおっしゃられたが、大勢の殿上人たちは「曾丹という奴は身の程もわきまえず、後の世まで笑い者になるであろうよ」と嘲笑したのだった。

 翌日、円融の帝宛として、内裏に歌が届いた。差出人は曾丹とある。その歌は、

 与謝の海うちとの浜のうらさびて

世をうきわたる天の橋立

(丹後の国の与謝の海には砂嘴が長く伸びているので、内の海と外の海は互いに隔てられ、行き来できません。その故に二つの海は哀れにも寂れています。私とても同じこと。丹後掾に過ぎない私は外海として殿上人の内海から隔てられ、内裏にいくら思いを寄せても、その思いは外海の波のように内へは届かないのです。けれども大昔には天と地をつなごうとして、イザナキ・イザナミの神々が世を浮き渡る橋を架けようとして天橋立を天と海の間に立ててこの世に降りてこられました。神々は天と地ほどに隔たったものをおつなぎになられたのです。天地がひとつになってはじめてこの世に喜びがうまれるというのに、どうして、今の世のものが内と外を隔てて、通うことをできなくしてしまうのでしょうか。)

 この歌を見て殿上人たちは「曾丹という奴はどこまで面の皮が厚いのだ・・・このように怨みがましい歌を帝に送り届けるとは、まったくあきれはてた奴だ」と怒ったり大笑いしたりした。しかし円融帝は「いよいよ面白い」と楽しんでおられたのだった。好忠が女を訪ねたのは、こんな事件があった翌日のことだった。

「都ではわしの噂でもちきりであるという。あなたもそれを聞いているでしょうが、これから私はどうしたら良いと思われますか」と好忠は女の手を握りしめて尋ねた。女は白い指を好忠の唇に立てに凹むほど強く押しつけて、

「こうなさりませ」

「・・・しゃべるなと・・・何もせずに?」

「はい。あなたさまは、何をせずとも、天下一の歌詠みです。そのことは他の誰よりも私が存じております。都の方々は兼盛様や能宣様が最も優れた歌詠みと評判しておりますが、私はあなたに勝る歌詠みはただの一人もおいでにならないと信じているのです。そしてあなたさまもそれをご承知ですから自信たっぷりです。でも都の人たちはそのようには言ってくれないものですから、あなたさまは我慢ができなくなって、ご自分で名乗りを上げておしまいになられる。私はそのようなあなた様が大好きです。ほんとうにかわゆくて、なんて初なお方だろうとうれしくなるのです。でも、他の方はそうは思いますまい。口を開けば開くほどあなたさまを馬鹿にして、ますますのけ者にするでしょう。ですから、どうぞ、このお口をこうなさりませ」女はそういいながら、好忠の口を指でつまんだ。

「しかし私は」好忠はつままれたまま言い返そうとしたが女は、

「誰が分からなくてもかまわないのです。私がよくよくわかっていますもの。あなた様のような歌は、誰にも詠めませぬ」

「ほんとうにそう思いますか」

「どうして嘘など申しましょう。私はあなた様の歌を百も二百も覚えておりますので、他の方の歌はつまらなくて、みな忘れてしまいました。貫之様の歌でさえ一つも思い出せないのです」

「ああ、なんとうれしいことを・・・身分も財産もない私を、それほどに思って下さるとは」

「いまさら何をおっしゃるのでしょう。私はあなたさまの何もかもが好きなのです。唇をとがらせた、そのお顔も好きなのです」

「そうか・・・これで私ははっきりと分かりました。もう誰のためにも歌は詠みません。どのような歌会にも出でることはしません。これからはただそなたの為だけに歌を作ろう」こう言って好忠は女の両手を強く握りしめた。女はうれしそうに身をもたせかけて、小声で好忠の歌を詠った。 

 妹と我ねやの風戸にひるねして

日高き夏のかげを過ぐさむ

(あの美しい夏の暑い日、あなたと私は涼しい風の吹き過ぎる戸のあたりに抱き合ったまま昼寝していましたね。私たちはすっかり満足して、くたびれて、ぐっすり寝込んでしまいましたので、日は高く空を渡り夏の日の影がふたりの夢の枕をすっぽりと包んでしまっても、少しも気づきませんでした。ああ私はそのように、いつもいつも二人きりで、あのようにのんびりしたのどかな時を過ごしたいと願っているのです)

 これを聞いて好忠は胸を打たれて、互いの額がつくほどに近づけて、

「たった今の今、私は歌を詠みました」

「まあ、どのような歌でしょうか」

「あなた様と私と、ただ二人きりでどこまでも行く夢の歌です。小さな笹舟のような小舟に乗って、波に揺られて、どこへとも知らず、漂ってゆくのです」

 曾丹は女の耳に囁いて、歌ったのだった。

 由良の戸をわたる舟人梶を絶え 行くへもしらぬ恋の道かな