百人一首ものがたり 042番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 42番目のものがたり「(はこ)の歌」

契りきな かたみに袖をしぼりつつ
末(すゑ)の松山 波越さじとは

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「先ほどから何をそのように感心しておいでなのです」と定家が問うので、「清原元輔というお方を羨んでおりました」

「それまたなにゆえでございますか」

「まず第一番は清少納言の父親であるという点でござります。私には子があませんが、清少納言ほどの才媛の父親となれましたら大変な誉れでありましょう。第二は、元輔が藤原公任の三十六歌仙に選ばれていること。第三は、村上天皇に命じられて『後撰集』の撰者となった事です。これほどの人生を送られた方はそう多くはおられますまい」心寂房がこう述べると定家は、

「人間、良い事にばかり巡り会うとは限らぬものです」

「それはいかなる事でございますか」

「村上天皇のご在位の二十三年間は『天暦の治』と呼ばれる理想の時でしたが、天皇が崩御されると様相は一変しました。小町は〈思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを〉と詠っておりますが、元輔は『天暦の治』が夢であったなら、いつまでも醒めたくないと思ったでしょう」

「それほどに時代は変わったのですか」

「元輔は永祚二年(990)八十二才で亡くなりましたが、後半生は生臭い陰謀渦巻く世の有様を目の当たりにしなければならなかたのですから、極楽から濁世に突き落とされたような気持ちになっていたに相違ないのです」

「しかし、時代はまだ源氏物語が記される以前ですから、それほど乱れていたとは想像できませぬが」

「では、心寂坊殿は『安和の変』はさしたる事件ではないと?」

「左大臣・源高明が太宰府に送られた事件ですか」

「いかにも左様です。あの事件は古代日本に二つ大きな変化をもたらしました。第一は、宇多・醍醐・村上という優れた天皇による親政の時代の終焉。第二は、武家の出現です。村上天皇が身罷られた後、藤原兼家は源満仲と手を組み、権力掌握に乗り出したのです。尤も、最初はごく密やかな影としてですが」

「・・・そのような事実は何からおわかりになるのでしょうか」

「右大将道綱母が書いた『蜻蛉日記』にはすげない夫に対する繰り言など縷々記されておりますが、よく読むと、夫・兼家の周りには大勢の侍がいた様子がそれとなく分かります。安和二年三月三日、道綱母が桃の節句のお供えをていると兼家がやってきて『ずいぶん人が少ないな』と言うので、侍女が気を利かせて、兼家の邸使いを出して、和歌を届けました」。

 桃の花すきものどもを西王が

そのわたりまで尋ねにぞやる

「難しい和歌で、とても侍女が詠んだようには思えませぬが」

「おそらくは侍女ではなく、道綱母自身が詠んだものでしょう。単純に解釈すれば『桃の祝いには、花びらを浸した酒を飲む風流人がふさわしいでしょうが、こちらにはおりませんので、不老長寿の西王母の園に尋ねて行かせましょう』」

「何の事やら少しも分かりません」

「この和歌には伏線があるのです。この時より十三年まえの天暦十年(956)、道綱母は桃の節句の用意万端を整えて兼家の訪れを待っていましたがとうとう来ませんでした。落胆していると翌朝やってきたので、彼女は、

 待つほどの昨日すぎにし花の枝は

今日折ることぞかひなかりける 

(昨日来るものとお待ちしていた桃の花を今日折るのは空しいことです)

 兼家はこれを見て、

 三千年(みちとせ)を見つべき君はとしごとに

すくにもあらぬ花と知らせむ

(西王母の桃が三千年に一回しかならない。私も毎年三月三日に訪れるわけにもゆかぬと知ってもらいたい)

 道綱母はこの時の和歌を踏まえて、『あなたは西王母の園にいるようですから、その園の方々を呼び寄せたらいかがですか』と詠ったのです」

「では、招待しようとしたのは仙人のような風流人ですか」

「いいえ」

「では誰を」

「西王母は一般には不老不死の女神とされていますが、本来は死神だったのです。この書物をご覧下さい。古代中国の神仙伝のひとつ()山海経(せんがいきよう)』です。第一巻は〈南山経〉。仙薬の事なども見えますが、続く『西山経』には次のように記されています。『さらに西へ三百五十里。玉山といい、西王母の住まいである。西王母は人面獣心、口には虎の牙が生え、髪をおどろに振り乱して、頭の頂に玉の簪を飾り、豹の尾を持って、天の(わざわい)と五残を司る』」

「五残とは何でござりますか」

「五つの刑罰です。一は(ぼく)(いれずみ)、二は()(はなきり)、(さん)()(あしきり)、(よん)(きゆう)(性器(せいき)摘出(てきしゅつ))、()太辟(たいへき)(死刑)」

「では、西王母は災いの神なのですか」

「いかにも左様です。西王母が恐ろしい神であったことは、『海内北経』や『大荒西経』にも記されています。西王母は部下の猛禽に命じて人を捕まえさせ、喰らうのです。ですから古代の人々は西王母を死神として恐怖しました。しかし時代が下ると、西王母を崇めれば死を免れると信じられるようになり、やがて不老不死の女神となったのです」

「・・・」

「ですからさきほどの『西王母の園』を本来の意味に置き換えますと、『西王母の部下がいる所』となりましょう」

「西王母の部下とは、いかなる者でしょうか」

「侍の集団です」

「随身たちのことですか」      

「随身は貴族の護衛として近衛府から使わされる舎人ですが、兼家が招いたのは侍の統領と部下でしょう」

「・・・」

「兼家の目的は権力を手にすることでした。彼は自らの目的を達するために、侍を私兵としておりました。道綱母はそれを知っていましたから、皮肉って、西王母の手下のような侍の統領とその部下を招いてはいかがですか、と言ったのです。彼らは大勢で押しかけてきて、呑んだり騒いだりして過ごしました」

「その侍の統領とは誰の事でしょうか」

「言わずと知れた源満中です」

「源氏の祖の・・・」

「いかにも満中の父経基は清和天皇の孫にあたり、源の姓を賜って源氏の祖となりました。その子、源満中は摂津国に拠点を置いて武者の集団を支配し、将門の乱には討伐軍に加わって将門の子孫を根絶やしにしました。満中の子の頼光は御堂関白道長の懐刀でしたし、源三位頼政はその子孫、八幡太郎義家は頼光の弟の頼信の孫ですから頼朝は満中の末裔です」

「兼家の私兵とは、源氏の武者だったのですか」

「いかにも左様です。桃の節句にふさわしいのは詩歌管絃に秀でた上達部や舞姫であって、武者ではなかったはずです。ところが兼家は殿上人など一人も呼ばず、武人たちに散々に飲ませ、日を改めて、この者達を二手に分け、弓の練習をさせたのです」

「・・・お話をお伺いしていると、なるほどと頭では分かりますが、やはり、あまりに唐突で、桃の節句に関連したお話とは納得できかねますが」

「いいや、大いに関連があります。左大臣源高明が反乱罪で捕縛され太宰府に流されたのは桃の節句と同じ月の、二十五日なのです。これについて道綱母は先の記事に続いて、『この日記は我が身のことだけを書く物であるけれど、悲しくて、書かずにはおれない気持ちです』と記しています。『天の下ゆすりて、西の宮へ、人走りまどふ』ともありますから都人たちも動顛して大騒ぎになったのでしょう。しかし、彼女は事件背後の真相については詳しくは知らなかったようです」

「真相と申しますと?」

「事件の首謀者が他ならぬ彼女の夫・兼家という事実です。源高明は村上天皇の弟でしたが学者としても第一級の知識人であり人望のある大人物でした。しかも源高明の娘は村上天皇の第二皇子、為平親王の妃でしたから源高明こそ次の世を担う人物であると目されておりました。しかし実頼や兼家にとって高明は手強い政敵でしかありません。そこで源満中に命じて〈源高明が陰謀を図っている〉と密告させたのです」

「そのような無道がまかり通るとは・・・」

「彼らが左大臣を失脚させることに成功した理由は藤原家全体が結束して陰謀に荷担した事です。企てに最も積極的だったのは兼家とその兄・大納言伊尹(これただ)でしたし、関白太政大臣藤原実頼や右大臣藤原師尹(もろただ)も承知でした。その上武力まで養っていたのですから、源高明は逃れようがなかったのです」

「・・空恐ろしい話でござりまするな」

第42番目のものがたり )

 肥後の国に旅立つ準備に追われていたある日、家人が「鎮守府将軍源満仲さまより書状がまいりました」という。何事かと思って見ると、およそ次のようなことが記されていた。

「肥後守にご就任なされたというなによりの話を承りましたが、ご任地は都からはるか遠く、旅の苦労も多いかと存じます。幸い私は肥後の地の様子も存じておりますので、お話し申し上げたい事もあり、またかねてよりあなた様と一夜、物語して、歌などもお聴かせいただきたいと思っておりました。是非ともこの老人のお願いをお聞き届けいただきたいものと願っております」

 都で源満仲の名を聞いて恐れぬ者は誰一人ない。莫大な財と兵力とを蓄え、二人の息子・頼光・頼信の部下には鬼退治で名をはせた渡辺綱をはじめ坂田金時、平貞道、平季武などの侍共が居並び、一朝事あるときには千余の兵を一時に動かせるという。そのような武人の頭領がこの私に何の用があるのか。元輔はあれこれと考えていたが、もしやと思いついたのは二十年前の『安和の変』だった。

 失脚する前、左大臣は和歌を愛し歌人たちを庇護して数多くの歌会を催した。元輔も平兼盛や源順、藤原実方たちと共に幾度も歌会に呼ばれ、夜を徹して歌を競い、屏風絵に次々と歌を書き付けて楽しんだ。また元輔は万葉集の仮名詠みを第一人者だったので、左大臣は元輔にあれこれと質問して時を忘れるほどだった。

 当時、皇位に就いていたのは兼家の妹安子が生んだ冷泉の帝だったが、帝は精神に不安があり、早晩皇位を降りられるであろうとの噂がしきりだったので、元輔は、もしも冷泉帝が退位して源高明が皇位就くようなことになれば、醍醐天皇の御代にも優る時代が到来するのではないかと密かに夢見ていた。ところが藤原一族は源高明の存在を大いに恐れた。高明が権力を握れば藤原家は全てを失いかねない。摂政太政大臣・藤原実頼は何としても左大臣源高明を失脚させなければならないと考え、源満中に次のように命じた。

「左大臣源高明の屋敷を四六時中見張るようにせよ。また、高明の女婿・為平親王も厳しく監視せよ。親王と左大臣の間を往還するものがある時にはただちに捕らえ、拷問に掛け、彼等の陰謀を白状させよ」

 満仲は直ちに武蔵野守藤原善時と謀り、部下を配し、安和二年三月十五日、中務少輔橘繁延並びに左兵衛大尉源連の二人を捕らえた。時を移さず、実頼の甥で右大臣の師尹は検非違使に命じて内裏の出入りを禁じ、満中が捕らえた二人を拷問した。橘繁延らは、〈左大臣・源高明は冷泉帝を廃位に追い込み、為平親王を皇位に就けようとの謀反を企てており、相模の守藤原千晴も荷担しております〉と白状した。

 源高明は即座に捕縛され、僧形の侘びしい姿で太宰府へと流された。壮麗を誇った屋敷は満仲の配下の者の放火によって焼かれた。事件から二年後、高明は赦されて葛野に隠棲し、天元三年(980)十二月亡くなった。

 

 清原元輔は事件から二十年た今も、その時の事をはっきりと記憶していた。事件の三日前、元輔は左大臣の招きを受け、邸を訪れていた。左大臣はある高貴な方を密かに想っておられたが、急にその方から文が届かなくなったので元輔を呼んで和歌を詠もうと考えたのである。

 その晩、左大臣が詠んだ和歌は、

 空にもや人は知るらん夜と共に

天つ雲ゐをながめ暮らせば

(あの方は私の想いを分かってくださるだろうか、私が夜の空を眺め暮らしていたならば)

 しかしこの和歌を届けるすべもないので、元輔は女に代わって返歌を詠んだ。

 大井川いぜきの水のわくらばに

今日は頼めし暮れにやはあらぬ

(大井川の関に水があふれて沸くように私はあなたさまを思っておりますが、今日はあなたさまの気持ちがたまたま私の方に向いて逢おうと約束して下さった。ですから逢えると楽しみにしていた夕べでしたのに、あなたはおいで下さらなかったのですね)

 左大臣は大いに喜んで「これほどに優れた歌を詠めるのでしたら、私はあの方に宛てて文を書きますから、元輔殿は和歌を詠んでいただけませんか」と頼むので「畏れ多くてとてもそのような大役はお引き受けできません」と再三ご辞退したのだが、どうしても、とおっしゃる。そこで紙に一首書き付けて、封書に包んで筺に入れ「恥ずかしながら左大臣に代わってお作りいたしましたが、どうか後々にごらんあそばされますように」とお渡ししたのだった。左大臣が捕縛されたのはそれからわずか数日後だった。

 源満仲は高明の屋敷を見張らせていたのだから、満仲がその気になりさえすれば元輔を謀反人の一味として捕らえることも出来た。しかし何の咎めもなかった。ところが九州へ旅立つ直前になって会いたいといってきた。

 元輔はためらったが、『私はもう八十に一つ足りないだけの老人になり、しかもこの年で肥後の国に旅立たなければならなくなってしまった。高明様が流された太宰府の近くに赴任することになったのもご縁であろう。それなら左大臣を陥れた源満中という男がどのような輩なのかをこの目で見定めて、閻魔大王への土産とするのも悪くないかも知れぬ』とそう思い、招きに応じることにした。

 夕刻、差し向けられた牛車に乗って門を潜ると頑丈な中門があった。内塀が高々と回っている。門の中には大勢の郎党がいるらしく、あちこちで声高に話している。遠くから馬のいななきが盛んに響く。衣冠をつけた者は一人も見えず、皆みな身軽な野歩きのような姿をしている。

 奥へ案内されてゆくと、天井の高い広間に十人あまりの着飾った女たちが見え、真ん中に源満仲が座っていた。床の上には数え切れないほどの高槻に山海の珍味を盛り上げ、丸盤には酒が用意され、唐の菓子類や見たこともない水菓子が山盛りになっている。蒸しアワビや干し鳥などの香りが部屋中に漂っている。満仲は額の深い皺をゆるめて白い口ひげをねじりながら、元輔を微笑して迎えた。

「このようなむさ苦しい屋敷に、よくおいでになられました。梨壺の五人の一人と世に名高い歌人に、この世でひと目お会いしたいと願っていたのです」

 嗄れた声だ。女たちは元輔の四方に集まり、瓦けを手渡すと酒を並々と注いだ。十六夜の月の光が屋根に降り注いでいる。

「その酒は肥後から取り寄せたものです」

「肥後」

「肥後は遠い国ですが、酒ばかりは都の酒よりうまい。私もできればお供して月を見ながら元輔殿の和歌をお聞かせいただきたいと願っておりましたが、この頃は足がめっきり衰えましたので、それも叶いませぬ。そこでこうして、せめて都で肥後の酒を共に飲みたいと思ったのです」

 これを聞いて元輔は、

「それなら一首詠みましょうかな」と言って、

 いかばかり思ふらむとかおもふらん

老いて別るる遠き別れを

(私がどれほどわびしく思っているか、あなたにはおわかりにはなりますまい。齢七十九の身で肥後の国に行かねばならぬ。二度と都の月を見ることはあるまい。何もかもこれでお別れだ、都の人々とも、懐かしい昔の思い出とも、この世とも)

 源満仲は和歌を返した。

 君はよし行末遠しとまる身の

待つほどいかがあらんとすらむ

(あなたはこれから新しい国に行くのだから羨ましい。この私は都にとどまって、これからどうなるのだろうか)〈拾遺集秀歌選〉

 満仲は居住まいを正して、

「清原元輔殿、何故に今宵あなた様をお招き申し上げたのか、今こそ白状いたしましょう。すでにご承知の通り私は左大臣源高明様を陥れた張本人です。これがどのような罪に値するのか、み仏に聞くより他にありません。しかしあなた様をお招きしたのは、私の後悔を聞いていただくためではありません。教えていただきたいことがあるのです」

 満仲がこう述べると女が、手箱を運んできた。開けると封書が入っていた。

「見覚えがありましょう。これはあの日、元輔殿が源高明様に代わって、女に当てて詠んだ歌の封書です」

 満仲は封書を開いてみせた。中には何もなかった。

「私がこれを手に入れた時には、この通り何もありませんでした。左大臣が既に女に渡したものか、それとも、私が手に入れる前に処分してしまったものか、知るよしもありません。しかし私は事件のあと、手箱を見る度に、あるいはこの歌はやはり女の手に落ちたのではないか、あるいは、元輔殿に戻されたかも知れぬとも考え、またある時には邸に火を掛けた時に炎と共に灰燼に帰したのかとも思ったりもしました。しかし本当のことは何もわからぬままだったのです。そして時が過ぎ、この封書の中に記されていた歌をご存じのあなた様は肥後においでになられてしまう。この機会をのぞいては最早知るよしもなくなると思い、何としても教えていただきたいとの一念ばかりで、お招きしたのです」

 満仲は額越しに元輔を見た。元輔はその面差しを冷ややかに見つめていたが、やがて、

「高明様が陰謀を企むようなお方ではなかったということを証明するためにも、お教えいたしましょう」と言って詠った歌は、

 契りきなかたみに袖をしぼりつつ

末の松山浪こさじとは

「源高明様はただひたすらそのお方を慕っておられました。そしてあの晩、この私に、左大臣の成り代わり、そのお方に差し上げる和歌を詠ってもらいたいと頼まれたのです。私は高明様のお心に打たれました。位人臣を極め、学問諸芸万端に通じたお方が、まるで少年のような初な気持ちで恋しておられる・・・あのように美しい心をお持ちのお方を、私たちの時代は失ってしまった。この罪の償いは誰がするのでしょうか。日本の国は、あのような人物を失って、これからどうなるのでしょうか」  月明かりが二人の男を冷たく照らしている。