百人一首ものがたり 041番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 41番目のものがたり「天徳歌合」

恋すてふ(ちょう) わが名はまだき 立ちにけり
人知れずこそ 思ひそめしか

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「心寂坊殿は壬生忠見をどのようにお思いですか」と訊くので、

「父の壬生忠岑殿は身分の低い武官でしたが、右大将忠国の随身となり、和歌によって忠国様をお救いになったほどでしたから、その子の忠見殿も幼い頃からよほど優れていたと思われます」と答えると、

「まことに、幼い頃からその俊英ぶりは鳴り響いていたようです。なにしろまだ年端の行かぬうちから大人顔負けの和歌を詠む、その評判が内裏にまで届いて『参内して歌を詠んで見せよ』とのお達しがあったほどです。しかしその時父は摂津の国に赴任して留守であったし貧乏でもあったので、参内しようにも乗り物が何一つなかった。そこで忠見少年は「乗り物がありませぬ故に、お迎えをお願い致したく存じます」と文を書いて届けた。すると折り返し蔵人から「そなたは竹馬に乗って遊ぶのが得意との噂である。竹馬は竹ではあるが、馬でもある。故にそなたの愛用の竹馬にのって参内するがよかろう」と命じた。そこで忠見は、

竹馬はふしかげにしていと弱し

今夕陰に乗りて参らん

(竹馬に乗って都に参れとの仰せですが、竹馬は鹿毛の馬と違い、節のある蔭に育った竹ですので、とても長旅には耐えることはできません、ですから日の陰る夕陰に乗じてまいりましょう)と詠って応じたのです。これが大評判となって、忠見が竹馬に乗って朱雀大路を内裏へ向かう絵が出回るほどでした。長ずるに及び歌人としての名声はいよいよ高まり、御厨子所に仕える頃になると都で知らぬ者はないほどになりました。ところが、忠見は急死いたしました」

「・・・」

「心寂房殿もご承知の如く、『沙石集』によれば、壬生忠見は天暦の歌合に於いて平兼盛に負けたために不食の病に掛かって死んだと記されております。ところがそうではない、人は歌合わせに負けたぐらいで死ぬ事はないし、現に壬生忠見はずいぶんと長生きしたと書いてあるものもございます。そこで心寂房殿にお尋ねしたいのは、果たして人は歌合に負けて死ぬような事が考えられるかどうかということなのです」

 定家がこのように訊ねたので、心寂房は、

「関白様の蔵書に『素問』という医学書がございます。許しを得て書写させていただきましたところ、『素問・六節臓象論』に、『心は生命の本なり』と記されておりました。また、『内経』を見ますと「心は神を蔵す」とも見えます。即ち、医学の立場からいたしますと、心こそが生命の源と申し挙げて良いかと存じます。従って、人が心に深い傷を負うと人間に宿っている神も深手を負い、死ぬと言う理屈になります」

「人に宿る神が死ぬのでございますか?」

「『霊枢・邪客篇』という書物には『心に深手を負えば神はその者から去り、神が去ればその者は死す」とあります。これからすると、神が死ぬわけではなく、その者から去ってしまう。神が見捨てた肉体は滅びると考えられます」

「では、心寂坊殿は、歌合に負けたことによって壬生忠見の心は深い傷を負い、それによって神が去り、死んだと、こうお考えなのでしょうか」

「私はこれまで多くの患者を診てまいりましたが、心が病みますと、肉体がさほど弱らずとも容易に死ぬ有様を見ております」

「ということは、壬生忠見はやはり、歌合に負けたが故に死んだと考えても良いと言えるのですね」

「そのように申してよろしいかと存じます」

「なるほど・・・それであれば、壬生忠見ほど恵まれた歌人は他にありますまい」

「それはまた何故に?」

「忠見は天徳内裏歌合に出詠できたのですよ。仮にこの私がその晴れの舞台に出て、負けと判じられたら、死んで本望であったでしょう」

「・・・」

「歌合わせを主催されたのはご承知の通り村上天皇ですが、天皇は万能の方で政務にも明るかったので太政大臣忠平が亡くなると摂政を置かず、ご自分で政務を執られた。天皇による親政は悪くすると独裁に傾く危険がありますが、村上天皇は左大臣・藤原実頼、右大臣・藤原諸輔らの意見にも耳を傾けたので、万事平穏に保たれたのです」

「・・・」

「村上天皇は和歌の道を大層重んじられました。天暦五年(951)十月には宮中に撰和歌所を置き、源順・大中臣能宣・清原元輔・坂上望城・紀時文ら『梨壺の五人』に古今集に続く勅撰和歌集の撰集と万葉集に訓詁をお命じになられました。ご承知の通り万葉集はそれまで全て当て字で記されていましたから、よほどの者でないと読む事ができませんでしたが、村上天皇の世に訓詁が成ったので多くの者が親しむことができるようになったのです。しかしなによりも羨ましいのは、当時の歌合わせは今とは比べものにならない豪華絢爛たるものでした・・・歌人の人選は天皇ご自身がなさいました。左の歌人には誰誰、右の歌人には誰それと決めて、ひと月前に歌題が発表になりますから、選ばれた歌人たちは題に基づいて歌を詠むのに懸命になった事でしょう」

「ひと月もの間苦詠するとは容易な事ではありません」

「何が大変なものですか、歴史に残る歌合わせに出られるのですよ。しかも場所は清涼殿で行われたのです。この世に歌人として生まれたら、撰ばれただけで死んでも良いと思ったでしょう・・・しかし私はこの時から二百年も後に生まれたのですから、遅すぎるというにも余りある遅さでした・・・ともかくその時に選ばれたのは、左の歌人として、朝忠・坂上望城・橘好古・大中臣能宣・少弐命婦・源順・壬生忠見」

「そのようなお方の名をお聞きすると、まさしく夢のように思えます」

「これに対する右の歌人は、平兼盛・藤原元真・醍醐天皇の皇孫で伊勢御を母に持つ絶世の美人中務、そして藤原博古」

「・・・」

「歌題は、霞・鶯・柳・桜 ・款冬(山吹)・藤・暮春・首夏・郭公(ほととぎす)・卯花・夏草・恋の十二でしたが鶯と郭公は各二番、桜は三番、恋が五番ずつ詠まれることになりましたから、合計すると二十番勝負でした。判者は左大臣藤原実頼、判者の補佐役には天皇の末の弟である大納言源高明(たかあきら)。歌を読み上げる役割である講師(こうじ)には左方に源延光、右方には源博雅が命じられ、左右の歌人を応援する役の方人(かたうど)には目もあやに着飾った女房数十人が左右に分かれて並び、それぞれに目映いばかりに趣向を凝らして声を張り上げて贔屓の歌人を励ましたのです」

「いよいよそれは何とも華やかなことで・・・」

「その高雅な有様は想像を絶するばかりであったようです。壬生忠見はそうした場に出られたのですから、何といって羨んでよいものか、言葉もありません」定家はそう言って物語りを読んだのだった。

第41番目のものがたり 「天徳歌合」 )

 天徳四年(960)三月三十一日、歌合の歌人の一人として召し出された壬生忠見は夢見心地だった。御厨子殿の卑官に過ぎぬ自分が、源順や中務と同じ歌合に出詠できるとは・・・。

 帝はまだ着座されてはおいでになられないが、判者の左大臣藤原実頼様、補佐役の大納言源高明(たかあきら)様は既に左右に並んでおられるし、講師(こうじ)役の源延光、源博雅等は左右に控えて畏まっておられる。それぞれの左方には朱や赤の鮮やかな衣装をまとった数十人の応援の方人の男女が列座し、右方には目にもあやな緑や青の衣装をまとった方人たちが時は遅しと待ちかまえている。

 左の歌人たちは北に位置して、筆頭が平兼盛殿、続いて藤原元真殿、伊勢御の娘・中務、藤原博古殿等が緊張しきった面持ちで座っておられる。対する右の歌人たちは、忠見と同じ南側に身じろぎもせずに居並んでいる。

 お庭のあたり一帯には得も言われぬ香りが漂っている。焚き物は崑崙方(くろぼう)であると誰かが囁いている。

 やがて左右の方人たちは工夫を凝らした州浜を用意してお庭の陰で用意を調えた。まず右方の方人たちが現れたが、その趣向や如何にと見れば、青色のそろいの襲の装束姿の少女たちが殿上人に付き添われ、入り江をかたどった大きな飾り台を担いでいる。飾り台は香木で造られ、金蒔絵をほどこし、台覆いには花鳥を刺繍した鮮やかな薄物を用い、四つの足にはそれぞれに色の濃い組み糸を結びつけてある。乙女たちは担いできた州浜を霞がかった縹色の打敷に据え置いた。首を伸ばして見ると、台の上の山と見えたのは沈香の香木でこしらえた須弥山を象ったもので、山の下には大きな鏡を置きましたがこれは入り江の海に見立てたものらしい。鏡の海には香木で細工した精巧な船を浮かべられ、岸辺に近いところには銀でこしらえた二匹の亀を配して、甲羅の下にはどうやら詠歌が忍ばせてあるようだ。

 忠見が声もなく見とれていると、ややしばらくして左方の方人たちが現れた。州浜を運び入れる六人の乙女たちは目の覚めるばかりの桜襲の衣装をまとっている。少女たちが殿上人に付き添われて運び入れた州浜は左と同じように沈香の山に鏡の海の景色だが、浜辺に銀の鶴が降りたって、嘴には黄金造りの山吹の葉を銜えている。その山吹の葉には和歌が書き記されているようである。台座は総紫檀造りで金銀の蒔絵がほどこされ、台座の覆いは銀製の竹、打敷は葡萄染めの錦である。

 やがて帝が着座なされ、歌合が始まった。左の蔵人は亀の甲羅の下から和歌の記された料紙を取り出して左の講師役である源延光にお渡しした。右の蔵人は鶴の嘴から料紙を取りだして右の講師役・源博雅に手渡した。

  第一番の御題は『霞』である。左の講師役の源延光は朗々たる声で中納言朝忠卿の和歌を詠み上げた。

 倉橋の山のかひより春霞

としをつみてやたちわらるらむ

 

これに対するに、右の講師役源博雅は平兼盛の歌を少しかすれた声で詠んだ。

ふるさとは春めきにけりみよしのの

御垣の原をかすみこめたり

 判が為され、中納言朝忠卿の勝ちとなった。

 第二番の御題は『鶯』 水左の講師が源順の和歌を詠った。

こほりだにとまらぬ春のたに風に

まだうちとけぬうぐひすのこゑ

これに対するに、右の講師役源博雅が詠んだのは、平兼盛の

 わがやどにうぐひすいたくなくなるは

にはもはだらに花やちるらむ

   この二つが番えられると、左右の方人たちはそれぞれの和歌を互いに詠み合って気勢を上げた、御殿は華やかな熱気にあふれ、風もないのに梅の花が散りまがうばかりだった。

 判者の裁定によって、源順の勝ちとなり、左の方人たちはどっと歓声を挙げて勝ちを喜んだ。

 次はまた鶯の御題で、左は朝忠卿の、

わがやどの梅がえになくうぐひすは

風のたよりにかをやとめこし

これに対する右方の和歌は、平兼盛の歌であったれど、講師が詠み上げたのは、

さほひめのいとそめかくるあをやぎを

ふきなみだりそ春の山風

 これを聞くとその場の方々は一斉にどよめいた。御題は『鶯』であるのに、詠み上げられたのは『柳』の和歌だったからである。これはいったいどうしたことか・・・ざわめきが浪のようにあたりに響く中を、左の方々を代表して源延光が判者・左大臣藤原実頼様と補佐役の大納言源高明(たかあきら)様に近寄って、

『ただ今、右の講師役源博雅殿が詠まれたのは柳の御題の和歌と思われます。源博雅殿は取り違えられたのではありませんか』と申し入れた。右の方々はまさか、読み違えるなどということがあり得ようかと、信じられない面持ちである。というのも、講師役を務める源博雅は、醍醐天皇の皇子克明親王の子で、琵琶のみならず、箏や笛、篥(ひちりき)などの名手として知られ、蝉丸から流泉・啄木の秘曲を授かったという伝説を持つ公卿である。それほどのお方が、帝の歌合で詠み間違えなどするはずはない。誰もがそのように思ったが、しかし、詠み上げられた和歌を思い返して見ると、どう見ても鶯の御題にそぐわない。みなみな訝しんで源博雅を見ると、博雅は顔面蒼白となって、今にも倒れそうな気配である。緊張の余り、三番と四番を間違えて詠んでしまったのだ。博雅は恥じ入って、立っているのも苦しげな有様である。これを見て判者は博雅を近くに呼んで、

「間違いは誰にもござりましょう。正しく詠み直して下さればよろしいのです」と宥め、補佐役の大納言源高明様も「気になさるようなことではありませんぞ。どうぞ、気を安らかにお持ち下さい」と励まされたので、博雅はようやく気を取り直して詠んだ平兼盛の歌は

しろたへの雪ふりやまぬ梅がえに

いまぞうぐひすはるとなくなる

  

この勝負は博雅の声は蚊の泣くように頼りない声だったせいか、平兼盛の負けとなった。続く『柳』の御題では、左の坂上望城の

あらたまの年をつむらむ青柳の

糸はいづれの春かたゆべき

 に対して、先ほど詠み上げられた右、平兼盛の

さほひめのいとそめかくるあをやぎを

ふきなみだりそ春の山風

 が番えられて、平兼盛の勝ちとなった。右方は歓喜の声を上げ、博雅はその歓声に励まされてようやく血色を取り戻した。

 次の御題は『桜』。左からは朝忠卿の、

あだなりとつねは知りにき桜花

をしむほどだにのどけからなむ

右からは、藤原元真の歌が番えられた。

よとともに散らずもあらなむさくら花

あかぬ心はいつかたゆべき

  

判者が決めかねている間、左右の方人たちが互いに元輔と朝忠の和歌を声高らかに競ったが、終に朝忠卿の勝ちとなり、左の方人は大いに意気が揚がった。

 進むにつれ歌合はいよいよ佳境に入り、左右の方人たちのみならず誰も彼もが興奮して、勝った側はいよいよ声高らかに詠うので、熱気が玉座にまで伝わって、御簾が浪のように揺れ動くほどであった。

 御題は次々と進み、いよいよ第十二番『卯花』となった。

 左の講師が壬生忠見の和歌を朗朗と詠み上げた。

 道とほみ人もかよはぬ奥山に

咲ける卯の花たれとをらまし

  これに対する右の平兼盛の和歌は、

 嵐のみ寒きみやまの卯の花は

消えせぬ雪とあやまたれつゝ

 講師が詠み終えて判を待つ間、忠見は身震いが止まらなかった。これほどの晴れの舞台で勝ちを占める事が出来たら死んでも良い、忠見はそう思った。しかし、無情にも平兼盛の勝ちと判が下ったので、忠見は落胆して涙を留めることが出来なかった。

 次に忠見の和歌が詠み上げられたのは十四番『郭公(ほとゝぎす)』の御題であった。左の忠見の和歌は、

小夜更けて寝覚めざりせばほとゝぎす

人づてにこそきくべかりけれ

 これに対する藤原元真の和歌は、

人ならばまててふべきをほとゝとぎす

ふたこゑとだにきかですぎぬる

  忠見は、これこそ何とか勝ちを、と願ったが、『持ち』となったので、双方のため息が忠見の胸をいっぱいにみたした。

 次の十五番『夏草』。左の忠見の和歌は、

夏ぐさのなかを露けみかき分けて苅る

人なしにしげる野辺かな

 これに対する右の平兼盛の和歌は、

 夏深くなりぞしにけるおはらぎの

森の下草なべて人かる

 今度こそ、忠見が祈っていると、信じられないことだが、忠見が勝ちとなつた。左方の歓呼の嵐を聞きながら、忠見は陶然として我を忘れていた。兼盛に勝った・・・夢ではないか・・・忠見は朦朧として、次に講師が何を詠み上げているのか分からなくなった。

 第十六番から二十番までは『恋』。次々と進み、最後の二十番になった。まず左の講師が壬生忠見の和歌を詠み上げた。

恋ひすてふわが名はまだきたちにけり

ひとしれずこそおもひそめしか

 源延光詠み上げると、左方の方人たちはその調べの見事さに心奪われ、もはや勝ったと確信して喜び合うので、右の講師はいつまでも詠めずに立ち往生する有様である。見かねて判者の実頼が鎮めたのでようやく静寂を取り戻して、源博雅が詠み上げたのは平兼盛の和歌、

しのぶれどいろに出でにけりわがこひは

ものやおもふとひとのとふまで  

 これを聞くと右方の者は、もはや我が方の勝ちとこちらも確信して大騒ぎになった。これを見て左の方人が負けじと、

 恋すてふわが名はまだきたちにけり

人しれずこそ思ひそめしか

 と声を張り上げる。これを聞いて右の方人たちはいよいよ声を張り上げて、  

  しのぶれど色に出にけりわが恋は

ものや思ふと人のとふまで

 高らかに合唱したので、双方の和歌が入り乱れて春の嵐のような有様であった。

 判者を任された左大臣実頼は困惑した。双方ともあまりにも優れているので、判を下そうにも下しようがない。思い余って左大臣実頼は御簾越しに、

「小臣、畏れ多くも申し上げます。左右の歌、共にもって優と申すべく、勝劣を定め申すこと能わず」と奏上申し上げた。

帝は幾度も頷かれて、

「おのおのもっとも歎美すべし。ただしなほ定め申すべし」と仰せに成られた。左右の歌があまりにも優れているからこそ、引き分けで終わりにしてしまうのはいかにも惜しい。更に賞翫して優劣を見定めてみてはどうか、というお言葉である。実頼は考えあぐねた末、自らの力では優劣を決めることは出来ないと悟って、傍らの源高明殿に「この判定はどうか大納言がなさっていただきたい」と判者を譲ってしまわれた。

高明は醍醐天皇の皇子でもあり、また当代きっての博学者として知られているのであるから、大納言の判であればこの場の誰もが納得するのではなかろうかと考えたのである。しかし源高明は、左大臣が判を下せないものを大納言が出来ようかと困り果てて、帝のご意向は如何かと御簾越しに拝見すると、帝も随分と思案なさっさておいでの様であられたが、大納言が耳を澄ませていると、幽かに「忍ぶれど」と囁かれたような気がした。そこで高明は「帝のお気持ちは、あるいは右にあるものと思われます」と左大臣に申し上げた。実頼はすぐさま「右が勝ち」と判を宣した。

 判が下ると同時に右方を応援していた者たちはどっと感嘆の声を上げ、笛を吹き、鼓を叩き、弦を奏して、感激のあまり手踊りをする殿上人もある、手拍子を打つ者もあり、前代未聞の有様となった。この景色に帝も杯を上げられ、群臣快く酔い、声を合わせて詠ったのだった。

 しかし壬生忠見の姿はその場にはなかった。「負け」を知らされると衝撃のあまり失神してしまったのだ。屋敷に運ばれたが、胸が塞がって粥も喉を通らず、「不食の病」にとりつかれた。

 間もなく忠見は息を引き取った。しかし忠見と兼盛の恋歌はたぐいまれな名歌となって歌い継がれ、天徳歌合は伝説となったのである。