百人一首ものがたり 4番 山部赤人
目次
田子の浦に うちいでて見れば白たへの 富士の高嶺に 雪は降りつつ
百人一首ものがたり
- 百人一首ものがたり 100番 順徳院
- 百人一首ものがたり 10番 蝉丸
- 百人一首ものがたり 11番 参議篁
- 百人一首ものがたり 12番 僧正遍昭
- 百人一首ものがたり 13番 陽成院
- 百人一首ものがたり 14番 河原左大臣
- 百人一首ものがたり 15番 光孝天皇
- 百人一首ものがたり 16番 中納言行平
- 百人一首ものがたり 17番 在原業平朝臣
- 百人一首ものがたり 18番 藤原敏行朝臣
- 百人一首ものがたり 19番 伊勢
- 百人一首ものがたり 1番 天智天皇
- 百人一首ものがたり 20番 元吉親王
- 百人一首ものがたり 21番 素性法師
- 百人一首ものがたり 22番 文屋 康秀
- 百人一首ものがたり 23番 大江千里
- 百人一首ものがたり 24番 菅家
- 百人一首ものがたり 25番 三条右大臣
- 百人一首ものがたり 26番 貞信公
- 百人一首ものがたり 27番 中納言兼輔
- 百人一首ものがたり 28番 源宗于
- 百人一首ものがたり 29番 凡河内躬恒
- 百人一首ものがたり 30番 壬生忠岑
- 百人一首ものがたり 31番 坂上 是則
- 百人一首ものがたり 32番 春道列樹
- 百人一首ものがたり 33番 紀友則
- 百人一首ものがたり 34番 藤原興風
- 百人一首ものがたり 35番 紀貫之
- 百人一首ものがたり 36番 清原深養父
- 百人一首ものがたり 37番 文屋朝康
- 百人一首ものがたり 38番 右近
- 百人一首ものがたり 39番 参議等
- 百人一首ものがたり 40番 平兼盛
- 百人一首ものがたり 41番 壬生忠見
- 百人一首ものがたり 42番 清原元輔
- 百人一首ものがたり 43番 権中納言敦忠
- 百人一首ものがたり 44番 中納言朝忠
- 百人一首ものがたり 45番 謙徳公
- 百人一首ものがたり 46番 曽禰好忠
- 百人一首ものがたり 47番 恵慶法師
- 百人一首ものがたり 48番 源重之
- 百人一首ものがたり 49番 大中臣能宣朝臣
- 百人一首ものがたり 50番 藤原義孝
- 百人一首ものがたり 51番 藤原実方朝臣
- 百人一首ものがたり 52番 藤原道信朝臣
- 百人一首ものがたり 53番 右大将道綱母
- 百人一首ものがたり 54番 儀同三司母
- 百人一首ものがたり 55番 大納言(藤原)公任
- 百人一首ものがたり 56番 和泉式部
- 百人一首ものがたり 57番 紫式部
- 百人一首ものがたり 58番 大弐三位
- 百人一首ものがたり 59番 赤染衛門
- 百人一首ものがたり 60番 小式部内侍
- 百人一首ものがたり 61番 伊勢大輔
- 百人一首ものがたり 62番 清少納言
- 百人一首ものがたり 63番 左京大夫(藤原)道雅
- 百人一首ものがたり 64番 権中納言定頼
- 百人一首ものがたり 65番 相模
- 百人一首ものがたり 66番 大僧正行尊
- 百人一首ものがたり 67番 周防内侍
- 百人一首ものがたり 68番 三条院
- 百人一首ものがたり 69番 能因法師
- 百人一首ものがたり 70番 良暹法師
- 百人一首ものがたり 71番 大納言経信
- 百人一首ものがたり 72番 祐子内親王家紀伊
- 百人一首ものがたり 73番 権中納言匡房
- 百人一首ものがたり 74番 源俊頼朝臣
- 百人一首ものがたり 75番 藤原基俊
- 百人一首ものがたり 76番 法性寺入道前関白太政大臣
- 百人一首ものがたり 77番 崇徳院
- 百人一首ものがたり 78番 源兼昌
- 百人一首ものがたり 79番 左京大夫顕輔
- 百人一首ものがたり 80番 待賢門院堀河
- 百人一首ものがたり 81番 後徳大寺左大臣(藤原実定)
- 百人一首ものがたり 82番 道因法師
- 百人一首ものがたり 83番 皇太后宮大夫(藤原)俊成
- 百人一首ものがたり 84番 藤原清輔朝臣
- 百人一首ものがたり 85番 俊恵法師
- 百人一首ものがたり 86番 西行法師
- 百人一首ものがたり 87番 寂蓮法師
- 百人一首ものがたり 88番 皇嘉門院別当
- 百人一首ものがたり 89番 式子内親王
- 百人一首ものがたり 90番 殷富門院大輔
- 百人一首ものがたり 91番 後京極摂政前太政大臣
- 百人一首ものがたり 92番 二条院讃岐
- 百人一首ものがたり 93番 鎌倉右大臣
- 百人一首ものがたり 94番 参議雅経
- 百人一首ものがたり 95番 前大僧正慈円
- 百人一首ものがたり 96番 入道前太政大臣
- 百人一首ものがたり 97番 権中納言定家
- 百人一首ものがたり 98番 従二位家隆
- 百人一首ものがたり 99番 後鳥羽院
- 百人一首ものがたり 2番 持統天皇
- 百人一首ものがたり 3番 柿本人麻呂
- 百人一首ものがたり 4番 山部赤人
- 百人一首ものがたり 5番 猿丸太夫
- 百人一首ものがたり 6番 大伴家持
- 百人一首ものがたり 7番 阿倍仲麻呂
- 百人一首ものがたり 8番 喜撰法師
- 百人一首ものがたり 9番 小野小町
小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
うめき声がするので心寂坊があわてて奥へ入ってゆくと、童子が糸を力任せに引っ張っている。その糸は定家様の口の中につながって、唇から血が流れ出している。心寂坊は驚いて駆け寄ると、
「何という乱暴を!」
「これは心寂坊殿・・・その子を叱らないで下さい。昨日の晩から痛くて一睡もできませんでしたので・・・蛭も役に立たぬし」
「だからと申して子供に歯を抜かせるとは・・・その時が来れば歯はひとりでに抜け落ちまするぞ」
「そうは申されても・・・まあ・・心寂坊殿に見つかってはこのまま抜くわけにはいきませんな。今日は我慢しておくことにしましょう」
定家は部屋に戻ると書き付けを一枚一枚確かめながら積み重ねた。
「それは・・・もしや」
「山部赤人でございまするよ」
「では、四番目は山部赤人・・・既に取りかかっておられるのですか」
「昨夜、書き上げました」
定家は頬を押さえながら書類を机に広げた。「思うに、赤人はなるべく人に目立たぬようにと心がけていたようです。紀貫之は赤人を人麻呂と比肩する歌人と評しておりますが、果たしてどうでしょうか」
「・・・」
「人麻呂は持統天皇の皇子たちに仕えましたが、お二人の皇子が亡くなられた時の挽歌はあたかも夜の嵐の中で詠ったかの如くでございます。中でも高市皇子が突然身罷られた時の歌は壮大なもので七百字を越え、二首の短歌が添えられています。一書には、〈哭沢(なきさは)の神社(もり)に神酒(みわ)据ゑ祈(の)まめども我が大君は高日知らしぬ〉・・・とあり、人麻呂の慟哭が聞こえてくるようです」
「・・・」
「彼は愛や死、別離などを真っ正面から歌い上げ、時には山をも動かすほどに激しく歌っています。ところが赤人にはそのような気配は少しもみられない。赤人は聖武天皇の身近にあって、数々の御幸に従いまた、当時の政界をゆすぶる大事件に接していたのに・・・それらに関してどうした事か、何一つ歌にしていないのです。私にはこの赤人の沈黙が謎でした」
「・・・謎・・・」
「左様、沈黙の謎です。と申すのも、赤人が目にした事件は天地が覆るほど大きな政変だったからです」
「・・」
「最も大きな出来事は左大臣長屋王の殺害事件です。この事件からすでに五百年の歳月が流れておりますから、それがどのような意味を持っているのか詳しく説明できる者はおそらくいないでしょう。しかしこれは驚天動地の出来事でした。と申しますのも、長屋王は聖武天皇と並ぶほどの権力者でしたから、その人物が殺害されるということは、国家の方向が全く変わってしまうことを意味していたからです」
昼下がりの風が床を滑って吹き込んでくる。定家の顔は青く、その目は何かに取り憑かれたように彼方を見つめ、血糊のかすかに付着した唇からはとぎれなく言葉がはき出されている。
「長屋王は皇族の中でも特別な存在でした。彼の父は高市皇子、祖父は天武天皇、母方の祖父は天智天皇、聖武天皇は長屋王の妻の甥に当たります。こうしたことから見ても、長屋王は最も高貴な血筋の継承者だったのですが、同時に彼は太政官の最高権力者・左大臣の地位にありました。その長屋王が突然命を奪われたのです」
「・・・」
「直接手を下したのは、藤原不比等の三男、藤原午合。彼は二十三歳の時に遣唐副使として唐に渡り、玄宗皇帝にも拝謁した人物です。帰国後直ちに常陸国主となり常陸風土記を完成させました。また後に太宰府長官に就任した時には肥前風土記を編纂していますからその点では大功績者です。また彼は陸奥国平定の時には持節大将軍に任じられ凱旋していますし、即位したばかりの聖武天皇のために難波の都の建設にあたったかと思えば新羅の侵攻に備えて西海道節度使として軍隊を率いるという恐るべき人物でした。その彼が近衛兵を率いて長屋王の屋敷を取り巻き、自刃させたのです」
「・・・何故にそのような・・・」
「藤原家にとって長屋王は許し難い存在でした。藤原不比等は持統天皇を補佐し、跡を継いだ文武天皇が二十四歳で早世すると、元明天皇の右大臣となり、その娘の元正天皇にも仕えました。その間に彼が為したことは多事に渡りますが、ありていに申せば不比等は天皇の並び亡き側近として辣腕を振るったのです。不比等が死ぬと、彼の四人の息子が父の権力を受け継ぎ、拡大しました。天皇に代わって、藤原四兄弟による独裁が始まろうとしていたのです。これに立ち向かったのが長屋王でした」
「・・・長屋王とは、そのようなお方だったのですか・・・」
「長屋王が左大臣に就任した時の天皇は聖武天皇でした。長屋王にとって最大の難題は『如何にしたら中国とは異なる安定した国家機構を創ることができるか』ということでした」
「・・・」
「中国の律令制度によれば、すべての行政官を束ねるのは太政官ですが、太政官は皇帝の支配下にあります。ですから太政官の決定であっても皇帝が異を唱えれば反故となってしまうのです。唐の太宗は門下省を設け、そこに諫官を置きました。皇帝が独裁に走るのを治める役割を担わせたのです。門下省には皇帝が発する詔勅を拒否する封駁の権が与えられました。ですから門下省の審議を経ないと皇帝といえど政策を実施出来なかったのです」
「・・・それはたいした制度でございますな」
「まさしく、太宗はこれ一つをとってみても大政治家と呼ばれる資格が十分にあります。しかし、残念にも太宗の死後たちまち形骸化され、後の皇帝は思うがままに国政を操ったのです」
「・・・」
「日本は昔から多くの留学生を大陸に送っていましたから、中国という途方もない国の脆弱性の源が皇帝にあるという事を察知していました。なにしろ随という大帝国が瞬く間に壊滅し、李成民よって建国された唐もまた急速に衰退に向かっているのを目の当たりにしたのですから」
「・・・」
「しかし問題は日本にとってよそ事ではありません。古代の天皇は全て独裁者でしたし、『壬申の乱』も独裁から起きた悲劇だったからです。天皇が天皇という不可侵の地位と共に、役人の任免権を始め軍事大権や裁判権、行政権の全てを把握し続けるなら、それは中国の皇帝と変わらないことになり、王朝の滅亡は免れないことになります。そうならないようにするためにはどうすれば良いのか、これが最大の難問でした。おそらく長屋王とその周囲の者達は大いに頭を悩ませた事でしょう。しかし解決策は身近に記されておりました・・・古事記です」
「古事記にはそのような事まで・・・」
「古事記には独裁者スサノオによってもたらされた万の禍の有様が克明に伝えられています。古代国家が独裁者の支配によって何百年もの人民の苦しみがスサノオ伝説となり神話化されたのでしょう。スサノオが高天原を支配するとたちまち万の禍が生じ、天照大神は天岩屋戸に籠もってしまい、天地は暗黒に包まれます。この困難を切り抜けるため、思金神を中心に八百万神々は天安川に神集って鳩首協議して、天照大神に再び国を治めてもらうにはどうすれば良いかを相談しました。つまり、古事記は『国家の大事は合議で決定するべきである』と暗示しているのです」
「・・・なるほど・・・」
「神々の集いは天安川でしたが、太政官では陣座で行われます。陣座の最高位に左大臣・右大臣があり、これに大納言、中納言と数名の参議たちが加わります。彼らは議政官と呼ばれます。日本を中国と異なる強固な国とするためには議政官が国家政策推進の最高機関でなければなりません。天安川で神々が合議して暗黒から抜ける方策を合議したように、現実の世界に於いても、議政官の決定が詔勅を上回る権力を持つべきであると考えたと思われます」
「議政官の決定が詔勅を凌ぐ・・・」
「その通りです。しかし重大事です。というのも、これは天皇の独裁権を剥奪する事を意味しますから、天皇はそのような制度を許さないでしょう。権力者は死ぬまで己の権力を離したくないものですからね。天智天皇であろうと天武天皇であろうと、もしもそのような提案をする者が現れたら即刻その者を反逆罪で捕らえ、刑死させたでしょう。また、不比等が生きていたら、長屋王の考えに反対したでしょう。太政官制が成立したのは持統四年でしたが、この時の太政大臣は高市皇子、右大臣には丹比真人島が就き、不比等は持統天皇の晩年にようやく大臣・納言に次ぐ直広弐という地位に就いたに過ぎませんでした。ところが元明天皇即位翌年の和銅元年に突如右大臣になり、天皇に平城宮遷都を勧め、不比等の上位官僚にあった左大臣石上麻呂を藤原京の留守居役に置き去りにして独裁権を得たのです。しかもこの時期、古代からの公卿たちが次々と死に絶え、空席になった公卿の地位は中納言には不比等の長男武智麻呂、参議には次男房前が任じましたから、不比等を遮る者はなくなりました。不比等は天皇の信頼と議政官の最高の地位を獲得することに成功したのです。即ち、不比等は無冠の独裁者となったのです」
「・・・」
「不比等の死後、その権力は四人の息子たち、すなわち、武智麻呂、房前、午合、麻呂の四人に受け継がれました。彼らは当然、父不比等のように国家を自在に牛耳れると考えていたでしょう。しかしその前に立ち塞がった人物が現れました。さきほどから幾度も名があげられていた長屋王です。長屋王は不比等の存命中はさしたる地位にありませんでしたが、神亀元年(724)、元正天皇は首皇太子に皇位を譲ると共に、長屋王に正二位を授け、左大臣に任命しました。この時藤原家の総帥武智麻呂と次男の房前は正三位を授けられましたが、突然長屋王が彼らの頭を飛び越えて最高位に就いたのです。元正天皇のこうした措置は、天皇が藤原家の横暴に危機感を抱き、彼らを押さえる役割を天皇の従兄弟である長屋王に期待したのかも知れません」
「・・・」
「首皇太子は即位して聖武天皇となりました。天皇は即位後直ちに『大夫人(だいぶにん)』の称号を母宮子に附与するとの勅令を発しました。宮子は不比等の娘ですから、四兄弟は当然これを望んでいたでしょう。ところが長屋王は真っ向から反対しました。古代からの公式令(くしきりょう)には天皇の生母の称号は「皇太夫人」と定められている。天皇の勅令はこれに反するというのです。武智麻呂、房前たちは議政官でしたが、長屋王の弁舌の前には歯が立たず、結局、聖武天皇は勅令を撤回せざるを得なくなりました。これは重大な出来事でした。議政官の決議が勅令を上回るという事実を証明したのです。これは中国では起こりえない事態でしたし、藤原四兄弟も、天皇の威を借りて己たちの思いを遂げる事が不可能である事を思い知らされたのです」
「・・・」
「長屋王の存在が藤原家にとってやっかいだったのは、彼は血統に於いて優れていただけでなく、政治的能力も傑出し、詩歌管弦にも豊かな才能を示し、人間としての魅力にあふれていた事です。彼は人々の来訪を歓迎しましたから、壮大な屋敷には文部百官の往来が引きも切らず、花々が咲き乱れる庭には孔雀や珍獣が放し飼いにされ、大陸の薬草が茂り、訪れた人々は想像を絶する景観に見とれました。彼はしばしば大宴会を催し、聖武天皇や元正女帝も招かれて彼の屋敷に行幸なさいましたが、その宴席の豪奢な有様は「後日本紀」や「懐風藻」の詩編にも記されるほどだったのです。・・・ところが長屋王の運命は一夜にして覆りました。天平元年(729)二月、宇合の率いる近衛府の兵馬が、突如長屋王の屋敷を取り囲んだのです。
「長屋王は天皇家の御命を縮めようと呪い、国家を傾けようとしている」との密告に基づく出動でした。しかし実の理由は別にありました。
四兄弟は姉の宮子の「大夫人」の称号事件に続いて天平元年二月、光明子の称号を巡って藤原家と長屋王は反目しました。四兄弟は光明子を皇后に就かせようとしましたが、長屋王が「古今の歴史を通じて、臣下の娘が立后したことはない」と異議を唱えたのです。四兄弟は激怒し、兵馬を出動させました。王は厳しい尋問を受け、自殺。吉備内親王も子供と共に自殺しました」
「・・・」
「山部赤人は聖武天皇の近くに侍る歌人でした。ですから、当然のことながらこの一連の出来事を目にし、事の子細を承知していたにちがいありません。ところが、赤人は何一つ歌っていません。赤人の歌は万葉集に五十首・長歌が十三首、短歌が三十七首見えますが事件の存在をうかがわせるものはどこにも記されていないのです。これは何としても奇妙です。私はその理由を考え続けました・・・そしてつい先頃、私は彼の長歌の中に、ひとつの暗示が隠されているのを発見しました。そこで私はその暗示を手がかりに物語を書いてみたのですが・・・しかし・・・これを読む前に一つお尋ねしたいのは、長屋王を殺した午合という人物を心寂坊殿はどう思われるかという点です」
定家は額に深い皺を寄せて心寂坊を見つめた。心寂坊は少しの間沈黙していたが、「恐ろしい人です」とぶっきらぼうに言った。「今の世が浅ましい有様になりましたのも、鳥羽上皇から始まる院政の独裁が争乱の種を蒔き、後鳥羽上皇の独裁が栄華を灰燼にしてしまったのですから、天皇に全ての大権が集中されれば国家は危うくなる、ということは身にしみて分かります・・・議政官制度は何としても守るべき大切な国家の拠り所であったと思います。長屋王もそれを承知していたからこそ、藤原家の反対を押し切って議政官の考えを貫こうとしたのでしょう。ところが、午合は大切な人を殺してしまった・・・午合の為したことが許されるなら、気に入らない議政官は軍によって抹殺され、国家は軍に牛耳られ、終には日本は滅びるでしょう・・・午合の行為は、スサノオの行為よりも浅ましい事と存じます」
心寂坊がこう述べると、定家は深くうなづいて、
「心寂坊殿の申される通り、午合のやり方は則天武后の行為に通じるものがあります。しかし、この国には神仏がおいでです」
「神仏・・・とは」
「もしも午合ら四兄弟が長生きしたら、この国は彼らの独裁国となったでしょう。ところが、四人は突如死にました」
「・・・四人共に・・・でございますか」
「疫病です。慈円殿の『愚管抄』には〈赤瘡天下におこり没するものかぞえることあたわず〉と記されております。聖武天皇と皇后光明子は無事でしたが、公卿の多くは没し、生き残ったのは橘諸兄、藤原豊成、その弟の仲麻呂ぐらいのものでした。疫病が国を救うこともあるものなのですよ」
定家はこう言いながら文箱の中から巻物を取り出すと、 「では、お聞かせいたしましょうかな」と言って、静かに読み始めた。
第二番目のものがたり 「不二」
長屋王自刃の翌日、山部赤人は近衛府の長官である藤原午合に呼び出された。赤人は剣を腰に下げた武人たちが大勢行き来する屋敷に入っただけで身震いするような思いだったが、長い回廊を厳めしい武官の後ろからついて奥の長官の部屋に通された時には全身が凍えて朦朧としていた。
藤原午合は威儀を正した武官たちを従えて、一段と高い段の上の椅子に腰を下ろし、床に平服している赤人をじろりと凝視した。
赤人は思わず生唾を飲みこんだ。
「お前が天皇の側で歌を詠むという山部赤人か」と午合は低い声で言った。
「はい」赤人はのどがひりひりとするのを感じた。
「では聞こう。お前は昨夜、何を見たか」
「・・・」
「黙っていては分からぬ。昨夜、何を見たか、申せ」
「・・私は・・何も・・」
「何も見ないと申すのだな」
「は、はい」
「そうか、それが真実であればお前にとっては幸いだ。が、しかし」
午合は椅子から身を乗り出し、鋭い眼差しで赤人を見下ろした。
「昨夜、お前が長屋王の屋敷の近くの木陰に身を隠し、様子を窺っていたと申す者がある。申し立てた者は近衛府の雑人である。お前はあの屋敷で何を窺っていたのだ」
「・・私は・・何も」
「お前がただの官人であれば何もこのようなところに呼びつけたりはせぬ。あの晩、何が起きたのか、密かに見ていた者は大勢いるのだからな。噂は池の波のようにどこまでも伝わっていくであろう。だが、それがただの噂であれば、やがては消える。別の石が池に投げ込まれれば、新しい波紋が立ち騒いで古い波紋を消し去るように、いかなる大事件だとて人の記憶からは消え去るものだ。しかし、歌、あるいは詳細な記録として残されということになれば、事は別事となる。特に歌となればそれは人の口から耳へとどこまでも伝わり、世々の者共は、いつまでもその出来事に深い関心を抱き続け、やがては予測もつかぬ大きな結果となって現れることになるやも知れぬ。故に、私は聞いているのだ。お前は何かを見たのではないか、とな」
午合の目はますます暗い。屋根の上でカラスが鳴いている。赤人はくびりとまた生唾を飲んだが、喉の奥にひっかかってひどくむせた。
「では、他のことを尋ねよう。そなたが宮廷に仕える歌人であるというなら、歌を詠うことは当然のことだ。だが、その歌が宮廷に仕えるにふさわしいものであるかどうか、私はそれを知りたい。そこで、お前に尋ねる。魏の曹操の子、曹植を知っておろう」
「・・はい」
「曹植は詩を良くしたが、彼には曹丕という兄があった」
「・・はい」
「その曹丕が魏の皇帝の座についた時、弟の曹植を呼び出してに何と言ったか、申してみよ」
「・・・曹丕は「七歩あるく間に詩作せよ。もし作ることができなければ、死は免れぬ」と曹植に命じました。それで曹植は『七歩詩』というものを作ったと伝えられております」
「では、『七歩詩』とはいかなるものか」
「・・・はい」
「歌ってみよ」
命じられた山部赤人は震えながら歌った。
豆を煮るに豆(まめがら)を燃やせば,
豆は釜中に在りて泣く。本是れ同根に生ぜしに,
相ひ煎(に)ること何ぞ太(はなは)だ急なる
「ふむ、たいした歌ではないが、曹植も死を賭して即興で歌ったのだから仕方があるまい」
「・・・」
「曹植は王族であったのだから詩作は余技であった。しかしそなたは宮廷歌人だ。宮廷歌人ならその地位にふさわしい歌を詠めるであろう」
「・・」
「どうした、さあ、何か歌ってみよ」
「・・・」
「私には時間がない。左大臣が突然身罷ったのだからな。私はこれから七歩扉に向かって歩く。その間に歌えなければ、生きて出ることはできぬ」
午合は椅子から立ち上がった。山部赤人は青ざめた顔でうつむいていたが、午合が一歩、二歩、三歩と歩き始めたその時に、細い声で歌い始めた。
あめつちの 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振りさけ見れば 渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ 不尽の高嶺は
長歌を歌い終えると、赤人は嗄れた声で短歌を続けた。
田子の浦にうち出てみれは白妙の
不二の高根に雪は降りつゝ
午合は驚きを隠せない表情で赤人を見下ろした。
「そなたは、その歌を、今・・・たった今作ったのか」
「はい」
「・・そう・・・か・・不二の高嶺・・不二は、常陸の国に赴任する時に毎日仰いでいた。・・・ふじ・・・とは・・・藤原の不二という意味か」
「・・私は歌詠みにござりまする。その歌がどのように解釈されるかは、歌をお聞きになるお方のお心一つでござります」
「ふむ・・・聞く者の心次第とな」
午合は目を細めて「語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ 不二の高嶺は」とつぶやきながら扉の方に歩き出したが、ふと振り返って、
「山部赤人、そなたは確かに、人麻呂以上の宮廷歌人として後世に伝えられるであろう」と高笑いして遠離って行った。
了
注・梅原猛氏はその著「さまよえる歌集 赤人の世界」に於いて藤原氏と赤人との関係、赤人の歌の意味するもの、などに関して卓越した論を展開している。『第三番山部赤人』はこの論に多大の示唆を受けて書き記したものである。
しかしながら「隠された十字架」に梅原氏が主張する『古事記・日本書紀の実際の著者は藤原不比等である』という説には疑問が残る。梅原氏は『藤原氏に都合の良いイデオロギーをそのまま国家のイデオロギーとして、律令体制を強化しようとした公式の歴史書である』と述べておられるが、律令体制に於ける議政官の理念と不比等の行動には矛盾があり、古事記の思想とも相容れない。詳細に関しては拙著「変容する神々」〈東洋医学舎刊〉をご参照いただきたい。