百人一首ものがたり 38番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 38番目のものがたり「残り雪」

忘らるる 身をば思はず 誓ひてし
人の命の 惜しくもあるかな

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

 心寂坊が法性寺入道公経様からお借りした「医心方」を書写していると、定家が時々こちらをチラリとのぞき見るがすぐに額に黒い皺を寄せて熱心に何か書き連ねている。 

『 我が身の悪なること

第一・人を頻りに誹謗し、羨望し、憎悪すること。

第二・わが身の出世のためには常日頃『狂女』と誹謗していた奸佞な女にも金品を贈り、荘園を贈与し、官位を得ようとしたこと。

第三・ひとたび公卿に列するや、世の中に対する非難中傷の言を覆し『叡慮既に天暦の善政古風に復す』などと手の平を返して賛美したこと。

第四・承久の変により、権勢を誇った人々みな栄職を失したるに、我が身は鎌倉側に付いた西園寺公経の義兄弟なるをもって身の保全を得たるのみか、人臣の極位とも申すべき正二位の位を与えられ、その栄達に狂気して『乱世に逢わざればいかでか之に叙せんや、稀代の珍事なり』と書き記し、承久の変を肯定したこと

第五・正二位を得たにもかかわらず、更に満足せず、中納言への執着断ちがたく、関白道家殿に盛んなる働きかけをしたばかりか、老妻を叱咤して、我が身に代えて日吉の社に参籠祈念せしめ、著しく健康を損ねたこと・・・云々』

「これは・・・いったい・・・中納言様はなにゆえにこのように自らを悪し様にお書きになられたのですか」と心寂坊が驚くと、定家は筆を置いて、

「何の後ろ盾もない者がこの世に生きて行くには己の才覚しか頼りにならないといことは、私の父のことを見て、よくよく学んだことでもあるのです」

「・・俊成様を見習ったと・・・」

「いかにも、父は世に並びなき歌人の一人ですが、父俊成が保元平治から晩年まで、九十年という途方もない年月を生き延び、しかも歌道を世に伝えられたのは処世術の抜かりのなさ故でした」

「・・・」

「私が祖先は藤原北家、御堂関白道長に連なるとはいえ、所詮は傍流。我が家は微禄して見るべき財産は何一つ無く、後ろ盾になるお方もなかったのです。ただ一つ父を支えていたのは歌道と仏道でしたが、歌道と申しましても、当家にはその伝統はありませんので父は歌壇の重鎮であった藤原基俊殿に入門して精進し、やがて独自の世界を開きました。それが歌道と仏道的思想を結びつけた幽玄の世界です。しかしもし父がこの事のみで我が事なれり、と満足していたら、父の名はたちまち忘れられていたでしょう」

「私にはそのようには思えませぬが・・」

「心寂坊殿、歌は確かに永遠の命を宿しておりますが、命には容れ物が必要です。魂のみがあって体がないのでは人とは云えぬように、どれほどの名歌を詠もうとも、和歌を支える身体が無ければ空しくなってしまいます」

「和歌の身体とは?」

「人の頭脳や心を支えるのが肉体である如く、和歌を支えるのは、歌集です。心が形となっても、そればかりで歌集とならねば後の世には伝わりません。しかも、私家集では危うい。時代が変わればたちまち失われる危険があります。勅撰集、あるいは、それに準ずる歌集でなければ後世に伝えることは困難です。父はその事を悉知しておりました。それ故、勅撰集に自らの和歌を収載するためにさまざまな手段を用いました」

「手段とは」

「最も効果的であったのは、婚姻です。婚姻を通じて高位高官の公卿、あるいはそれ以上のお方の援助を得られれば、歌人としても活躍ができますし、歌集も自然に作れましょう。やがては帝の御心を動かす地位に昇れるやも知れません。父は常にその目的を心に秘めて行動し、志しを貫いて幸運をつかみ取ろうとしました。その第一歩は優れた歌人の娘を妻とすることでした。父が藤原為忠の娘を妻としたのはその大望の故です。父と為忠の娘の間には優れた女子が大勢育ちました。その最も優れた娘が、我が姉、後白河院京極局ですが、ご存じですか」

「不明にして、私は詳しくは存じ申し上げません」

「時代がかくも違ってしまったのですからご存じないのも当然ですが、私の姉・後白河院京極局は上皇の寵愛まことに目出度く、後白河上皇が行幸される際、御車に同乗を許されたのは姉一人でした。公卿たちが上皇に何事か上奏する時には、必ず姉の手を通さねばならぬほどだったのです」

「・・・・」

「もし姉がそのままの地位を保つことが出来ましたら、私も若い頃に高位高官を得ていたでしょう。しかし不運は突然にやってきました。帝の前に高階栄子なる女が出現し、たちまち上皇の魂を奪い取ったのです」

「高階栄子とは、いかなる女でござりましょうか」

「丹後の局ですよ」

「丹後の局と申しますと、あの、傾国の美女楊貴妃にも喩えられた女でござりましたか」

「彼女の夫・平業房(ひらのなりふさ)は上皇の側近でしたが、清盛が上皇と対立した際に捕らえられ、処刑されました。そうした縁で高階栄子は上皇に仕えるようになったのですが、もともと頭脳明晰な上に大変な美貌だったのでたちまち上皇の寵愛を受けるようになりましたので、姉は居所を失い、上皇の許を追われ、藤原成親の妻となりました。ところがこの成親はご承知の通り、僧俊寛たちと鹿ヶ谷で平家打倒の密議を謀り、罪を得た人物です」

「では、中納言様の義兄弟が、鬼界ヶ島に流されたのですか」

「いいえ、成親は首謀者として備前の国で処刑されました」

「・・・まさか、鹿ヶ谷の謀議の首謀者が、中納言様のご親族とは・・・」

「その話をはじめますときりがありませんのでまた別の機会にするとしまして、父俊成は朝廷に近づくためには為忠の娘を妻とするのみでは心許ないと考えておりましたが、そうした折り、

藤原親忠の娘と深い仲になりました。親忠は鳥羽院の近臣でしたが、親忠の娘は美貌の上に才能にも恵まれておりましたので、鳥羽院の寵姫・美福門院の乳母となり加賀と呼ばれておりました。彼女は独り身ではなく、夫は藤原為経でした。つまり、父・俊成は最初の妻の実弟が妻としていた女性と恋仲になったのです。しかも加賀には隆信という優れた子がありました」

「・・・」

「父と加賀は熱烈な恋に落ちてだれ知らぬ者のない仲になりましたので、この歌はその頃のものです。

よしさらば後の世とだに頼めおけ

辛さにたへぬ身ともこそなれ

             俊成

頼めおかんたださばかりを契りにて

憂き世の中を夢になしてよ

美福門院加賀

 こうした事の末、夫・為経は出家し寂超と名乗りました」

「あの、歌で名高い寂超様は、中納言様とそのようなご関係でござりましたか」

「左様」

「為経殿は出家の後、歌道に精進されて名を成し、また『今鏡』を著しました。その子隆信は・・・この方は私の異父兄弟ということになりますが・・・隆信は法然に帰依して出家、後に西行などと交わり歌人として名を成しました。似絵画家として高名な藤原信実は隆信の子。順徳院に仕えた歌人順徳院兵衛内侍は娘です」

「・・・」

「いずれにせよ父は為経の妻を奪い取ったとも申せますが、それが父に栄達をもたらした事は明らかです。それまではろくな官職につけなかったのですが、新しい妻・加賀は近衛天皇のご生母である美福門院得子のお側に仕えておりましたので、なにかにつけ父の和歌を話題にいたしました。美福門院は父の和歌をお気に召され、久安元年(1145)父俊成は従五位上に叙されました」

「・・・」

「その後の父の活躍はめざましく、宮廷のお歌合で才能を発揮し、天皇や上皇の覚えも目出度くなり、五十三歳の時、従三位に叙せられ、公卿となりました。俊成と名乗ったのはこの時からです。ですからもしも父が美福門院加賀と結ばれなかったら、後の活躍は及びも付かなかったのです」

「美福門院とは、それほどに力がございましたのか」

「申すまでもないことです。美福門院にはさまざまな伝説逸話がありますが、なにより稀代の美女であると共に政にも興味を持ち、後白河天皇擁立を可能にしたのも彼女の力があってのこととされてますし、また、崇徳天皇が左大臣頼長と謀って兵を挙げた保元の乱の時に、形勢不利と見た美福門院は平清盛を引き出し、後白河天皇に勝利をもたらしたのです。こうした権勢を持つ美福門院とつながりができたことは、父俊成がはじめから望んでいた事でした」

「・・・」

「しかし母と出会った後の父はとても変わりました。父は母と出会ってはじめて大業をなし得る力を得たのです・・・しかし、世の中はこのようにうまくは行きません。多くの男女は、貝あわせの片破れに出会うこともなく、空しくなるものなのですよ」定家はこう言って首筋を二三度拳で叩いてから、嗄れた声で読み始めた。

第38番目のものがたり 「残り雪」)

夜半、几帳の影でうとうととしていると、向こう側から「聞きましたよ。あなたはずいぶんと多くの方々の心を奪っておいでとか・・・師輔、朝忠ばかりではもの足りず、元良親王とも逢瀬を重ね、源順とも契っておいでとか。順は思いがつのって輾転反側し、眠れぬ夜を過ごして歌を寄せたと聞き及んでおります。

 ゐても恋ひ伏ても恋ふる甲斐もなく

かく浅ましくみゆる山の井

(寝ても覚めても座っても伏していても、あなたが恋しい、それほど想っているというのに、山ノ井に写るあの人の面影は定かに見えないのはあなたが私のことを浅く思っているからでしょうか)

 しかし源順はいくら良い歌を詠もうとしてもこれが精一杯。私ならもっと良い歌を差し上げますのに」というその声は、左近中将敦忠様。初めてお逢いした時、まさかこれほどのお方に思われるとは夢にも思わなかったので有頂天になって、このまま息絶えてもよいとさえ思ったのに、幾度か逢瀬を重ねるとふっつりと途絶え、耳にするのは他の方との噂ばかり。胸がふさがっていたたまれぬ折りにさまざまな方々が言い寄っておいでになったので浮かぬまま逢ってはいたものの、心はいつも敦忠さまを想っていた。それで我慢ならなくなって歌を差し上げたその歌は、

  おほかたの秋の空だにわびしきに

物思ひそふる君にもあるかな

(後撰423)

(何ごともなくても秋ともなれば侘びしく見える空のありさまなのですが、あなたさまを想うとことさらに物思いが深くなってしまうことです)

 返し歌はなかった。つれないお方なのだ、二度と逢うまい、右近はそう思い、軽々しく靡いたことを悔やんで日々を過ごした。ところがどうした風の吹き回しか、敦忠はその夜、突然右近を訪ねた。予測もしていなかったので、右近は少しどぎまぎして、

「中納言様は、どこぞの方にお逢いにお出に成られて、このような山道に踏み迷ってしまったのでしょうか」と言うと、敦忠は几帳を押し退けて、

  道知らぬものならなくにみ吉野の

山ふみ惑ふひともありけり

 (あなたのもとへ通う道はよく知っておりますが、吉野の山道に慣れた者でも時には迷うこともあるように、私もふと道に迷って、訪れが途絶えてしまいました)

  これを聞いて右近は、

とふことをまつに月日はこゆるぎの

磯にやいでて今はうらみむ

(あなたさまの訪れをひたすらこゆるぎの磯辺でお待ちしておりましたのに、あなたさまは山の中を迷っておいでとは・・・そうとは知らぬ私の心は揺らいで、お恨みもうしあげそうになっておりました)

  敦忠は彼女をかき抱いて、

 なほざりの名にこそありけれ呼子鳥

答えぬほどにこゑのかれぬる

 (私はあなたが恋しくて、声も恋も枯れ果てるほどに鳴いておりましたのに、あなたの耳に届かないとは、呼子鳥とは名ばかりで、役に立たぬものだったのですね)

 

 敦忠はそれからしばらくしげしげと通ったが、不意に足が遠ざかって、いつしか冬になったので、雪の降る日に、

   身をつめばあはれとぞおもふ初雪の

ふりぬることも誰に言はまし

  (あなた様を思うといつもわが身がどこにいるのか分からなくなりますので、侘びしいわが身が真実のわが身なのかとつねって見ますと、やはり自分が自分をつねっていると分かって、切なくなるばかりです。初雪が降っておりますが、冷たく降る雪を見ておりますと、わが身が古りぬる有様を見るようで、この苦しさを誰に伝えてよいやら分からなくなってしまうのです)

  返し、

  陰にのみ残れる雪の消え果てぬ

先にもひとに逢ひみてしかな

  (初雪はすっかり消えて果てて、光のあたらぬ陰に密かにのこっているばかりです。全部消えぬうちにお逢いしたいものです)

 右近は歌を頼りに待っていたが敦忠の訪れは無かった。それどころか敦忠が左大臣の娘明子を妻に迎えるという。敦忠は明子にしげしげと恋歌を送っているらしい。右近は我慢できなくなって、

 逢ひ見ずば契りしほとに思ひい出よ

添へつる珠を身にも放たて

  (あなたはこれほど私が想っているというのに、逢ってくださらない。そして他のお方と契りを重ねておいでとか。それがそうなら、契るほどに私を想い出してください。私はあなたに私の魂を添えてしまいました。どのようなことがあっても、その珠を身から放さずに私を想い出してください)

     返し、

  恨みても貝はなくともひとり寝る

床めずらかに辛き君かな

  (恋路の果ては誰も知らぬもの、その恋の行方を恨んでもそのかいはありません。私も夜離れの床に寝ることがないように、あなたとて、多くの方々と逢瀬を重ねておいでなのですから、独り寝の床などありようはずはありませんのに、あなたのお言葉の辛いこと・・・)

 これを見て右近は泣いた。そしてその果てに歌った歌は、

   忘らるるみをば思はずちかひてし

人の命の惜しくもあるかな

 (あなたの心が私から離れてしまったのでしょうね。ですから私をあなたから忘れられる我が身の事はもう何とも思わないようにいたしましょう。でも、あなたは私に後の世までもと、お誓なられた。その誓いを自らお破りになるのですから、きっと神の怒りにふれてお命も危うくなるでしょう。私の恋などもう惜しくもありません。惜しいのは若死にされるあなたの命ですよ)   敦忠は右近の歌の通り、天慶六年の春、三十八歳でこの世を去った。