百人一首ものがたり 35番
目次
人はいさ 心も知らず ふるさとは
花ぞ昔の 香(か)ににほひける
百人一首ものがたり
- 百人一首ものがたり 100番 順徳院
- 百人一首ものがたり 10番 蝉丸
- 百人一首ものがたり 11番 参議篁
- 百人一首ものがたり 12番 僧正遍昭
- 百人一首ものがたり 13番 陽成院
- 百人一首ものがたり 14番 河原左大臣
- 百人一首ものがたり 15番 光孝天皇
- 百人一首ものがたり 16番 中納言行平
- 百人一首ものがたり 17番 在原業平朝臣
- 百人一首ものがたり 18番 藤原敏行朝臣
- 百人一首ものがたり 19番 伊勢
- 百人一首ものがたり 1番 天智天皇
- 百人一首ものがたり 20番 元吉親王
- 百人一首ものがたり 21番 素性法師
- 百人一首ものがたり 22番 文屋 康秀
- 百人一首ものがたり 23番 大江千里
- 百人一首ものがたり 24番 菅家
- 百人一首ものがたり 25番 三条右大臣
- 百人一首ものがたり 26番 貞信公
- 百人一首ものがたり 27番 中納言兼輔
- 百人一首ものがたり 28番 源宗于
- 百人一首ものがたり 29番 凡河内躬恒
- 百人一首ものがたり 30番 壬生忠岑
- 百人一首ものがたり 31番 坂上 是則
- 百人一首ものがたり 32番 春道列樹
- 百人一首ものがたり 33番 紀友則
- 百人一首ものがたり 34番 藤原興風
- 百人一首ものがたり 35番 紀貫之
- 百人一首ものがたり 36番 清原深養父
- 百人一首ものがたり 37番 文屋朝康
- 百人一首ものがたり 38番 右近
- 百人一首ものがたり 39番 参議等
- 百人一首ものがたり 40番 平兼盛
- 百人一首ものがたり 41番 壬生忠見
- 百人一首ものがたり 42番 清原元輔
- 百人一首ものがたり 43番 権中納言敦忠
- 百人一首ものがたり 44番 中納言朝忠
- 百人一首ものがたり 45番 謙徳公
- 百人一首ものがたり 46番 曽禰好忠
- 百人一首ものがたり 47番 恵慶法師
- 百人一首ものがたり 48番 源重之
- 百人一首ものがたり 49番 大中臣能宣朝臣
- 百人一首ものがたり 50番 藤原義孝
- 百人一首ものがたり 51番 藤原実方朝臣
- 百人一首ものがたり 52番 藤原道信朝臣
- 百人一首ものがたり 53番 右大将道綱母
- 百人一首ものがたり 54番 儀同三司母
- 百人一首ものがたり 55番 大納言(藤原)公任
- 百人一首ものがたり 56番 和泉式部
- 百人一首ものがたり 57番 紫式部
- 百人一首ものがたり 58番 大弐三位
- 百人一首ものがたり 59番 赤染衛門
- 百人一首ものがたり 60番 小式部内侍
- 百人一首ものがたり 61番 伊勢大輔
- 百人一首ものがたり 62番 清少納言
- 百人一首ものがたり 63番 左京大夫(藤原)道雅
- 百人一首ものがたり 64番 権中納言定頼
- 百人一首ものがたり 65番 相模
- 百人一首ものがたり 66番 大僧正行尊
- 百人一首ものがたり 67番 周防内侍
- 百人一首ものがたり 68番 三条院
- 百人一首ものがたり 69番 能因法師
- 百人一首ものがたり 70番 良暹法師
- 百人一首ものがたり 71番 大納言経信
- 百人一首ものがたり 72番 祐子内親王家紀伊
- 百人一首ものがたり 73番 権中納言匡房
- 百人一首ものがたり 74番 源俊頼朝臣
- 百人一首ものがたり 75番 藤原基俊
- 百人一首ものがたり 76番 法性寺入道前関白太政大臣
- 百人一首ものがたり 77番 崇徳院
- 百人一首ものがたり 78番 源兼昌
- 百人一首ものがたり 79番 左京大夫顕輔
- 百人一首ものがたり 80番 待賢門院堀河
- 百人一首ものがたり 81番 後徳大寺左大臣(藤原実定)
- 百人一首ものがたり 82番 道因法師
- 百人一首ものがたり 83番 皇太后宮大夫(藤原)俊成
- 百人一首ものがたり 84番 藤原清輔朝臣
- 百人一首ものがたり 85番 俊恵法師
- 百人一首ものがたり 86番 西行法師
- 百人一首ものがたり 87番 寂蓮法師
- 百人一首ものがたり 88番 皇嘉門院別当
- 百人一首ものがたり 89番 式子内親王
- 百人一首ものがたり 90番 殷富門院大輔
- 百人一首ものがたり 91番 後京極摂政前太政大臣
- 百人一首ものがたり 92番 二条院讃岐
- 百人一首ものがたり 93番 鎌倉右大臣
- 百人一首ものがたり 94番 参議雅経
- 百人一首ものがたり 95番 前大僧正慈円
- 百人一首ものがたり 96番 入道前太政大臣
- 百人一首ものがたり 97番 権中納言定家
- 百人一首ものがたり 98番 従二位家隆
- 百人一首ものがたり 99番 後鳥羽院
- 百人一首ものがたり 2番 持統天皇
- 百人一首ものがたり 3番 柿本人麻呂
- 百人一首ものがたり 4番 山部赤人
- 百人一首ものがたり 5番 猿丸太夫
- 百人一首ものがたり 6番 大伴家持
- 百人一首ものがたり 7番 阿倍仲麻呂
- 百人一首ものがたり 8番 喜撰法師
- 百人一首ものがたり 9番 小野小町
小倉庵にて 権中納言藤原定家と主治医・心寂坊の対話
定家は血の混じった唾を塵紙に吐いて懐に入れながら、
「心寂坊殿は具平親王をご存知でしょうね」
「さしたることは存じませんが、確か村上天皇の御子で、詩歌管弦に秀でておられたばかりでなく、医術や陰陽道にも通じておられたとものの本で読んだことがございます」
「いかにもその具平親王ですよ。親王は諸芸に優れた才能を発揮されておられましたから『和漢朗詠集』『本朝文粋』などにも詩文を残しておりますが、ある時大納言公任と和歌のことについて議論を交わしたことがありました」
「親王と大納言さまがご議論・・・」
「何を議論したかと申せば、古今の歌詠みの中で、最も優れた歌詠みとされているのは誰であろうかということについてなのです。二人はまず古今に名高い歌詠みを数百人挙げ、その中から撰び抜いて、最後に二人の歌詠みが残りました。一人は紀貫之、もう一人は柿本人麻呂です。親王と公任はこの二人の代表歌を十首づつ選んで合わせてみたところ、八首が柿本人麻呂の勝ちとなり、一首は持(引き分け)、紀貫之の勝ちは一首のみであったのです」
「柿本人麻呂様は歌聖と謳われた人物ですが、紀貫之様がたった一首とは・・・」
「このことは藤原清輔殿が書いた「袋草子」に記されております。大納言公任は後に三十六歌仙を選びましたが、その動機はこの時の出来事がきっかけであったそうなのです」
「そうでござりますか。しかしそれなら、中納言様はどのようにお考えなのでしょうか。貫之様は人麻呂の足下にも及ばぬとお考えなのでしょうか」
心寂坊が首を伸ばして尋ねると、定家は歯のあたりを指で押さえて、血の付いた指を紙にすりつけてから、
「もしも私なら別の歌詠みとも合わせて見たでしょう。たとえば、業平殿と貫之、小町と貫之、家持と貫之」
「それはさぞや見物でしょうが、中納言様は何れの勝ちと」
「この組み合わせでは貫之は一つも勝てないでしょう。後世の和泉式部、西行と合わせてもとても勝てますまい」
「それはまたあまりにも厳し過ぎは」
「いいや、仮に源俊頼、あるいは六条家の藤原基俊などと合わせれば勝てるかも知れませんが、私の義兄弟の寂蓮や鎌倉右大臣実朝に優るかといえば、難しい話です」
「中納言様、私はそのお方たちが優れた歌詠みであることはよく承知しております。しかし貫之様の和歌は古今・後撰・拾遺の三代集に最も多く撰ばれ、伊勢御や和泉式部の数倍もございます。それなのになに故それほど低く評価なされるのでしょうか」
「いや、決して低くく評価しているわけではありません。傑出した歌人であることは私も異存ありません。しかし貫之殿にはこの人でなければ絶対に歌えないという強烈な歌が極めて少ないのです。たとえば、
月や有らぬ春や昔の春ならぬわが身一つはもとの身にして、
ごのような歌は業平にしか詠うことができません。
君こふる涙しなくは唐衣
むねのあたりは色もえなまし
これは貫之の恋の歌ですが、業平の、
唐衣きつつなれにしつましあれば
はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ
には遠く及ばない。
夢ぢにも露やおくらむ夜もすがら
かよへる袖のひちてかわかぬ
これは貫之の恋の夢の歌ですが、小町の、
恋ひわびぬしばしも寝ばや夢のうちに
見ゆればあひぬ見ねば忘れぬ
どれをとっても貫之は小町の夢には及ばない。
しのぶれど恋しき時はあしひきの
山より月のいでてこそくれ
この貫之の歌も、平兼盛の、
忍ぶれど色にいでにけりわが恋は
物や思ふと人のとふまで
には遠く及ばない。
津の国の難波のあしのめもはるに
しげきわが恋人しるらめや
これを伊勢御の、
難波潟みじかき葦の節のまも
あはでこの世を過ぐしてよとや
と合わせて、貫之が勝ちとする者は誰もいないでしょう。このようにわずか数首を見てもこの通りですから、紀貫之という人物が歌人として抜きん出ていたと言うことは難しいのです」
「しかし我が国で紀貫之を知らぬ者は誰一人居らぬほど高く評価されております。それはなぜでござりましょうか」
心寂房がこのように真剣に訊くので、定家は、
「それは紀貫之の偉大なる功績によるのです。貫之こそが、歌の道の歴史や由来、思想、日本国と和歌との関係を明らかにしたのです。『日本独特の心の表現方法は和歌である』という事実を明らかにしたのです」
「日本独特の心の表現・・・」
「これらの漢詩集をもう一度ご覧下さい。この「懐風藻序」に何と記されていますか。
『逖聴前修。遐観載籍。襲山降蹕之世。橿原建邦之時。天造草創。人文未作。云々』
ご覧の通り「懐風藻」の序文は日本にまだ文字が無い頃の事から書き起こされている。百済や高麗から文化が渡ってきた様子が記されています。次に『凌雲集序』には、『 臣岑守言。魏文帝有曰。文章者経国之大業。不朽之盛事。云々』
冒頭に、魏の文帝の言葉が引用されている。
次に文華秀麗集の序文には、『先漏凌雲者。今議而録之。』即ち、この勅撰漢詩集は「凌雲集」の続編であり、補完です。
では経国集はどうかと見ると『・・・譬猶衣裳之有綺縠。翔鳥之有羽儀。楚漢以来。詞人踵武。洛汭江左。其流尤隆。楊雄法言之愚。破道而有罪。魏文典論之智。経国而無窮。是知文之時義大矣哉。雖斉梁之詩〔イ時〕風骨已喪。周隋之日規矩不存。』
ごらんの通り、楚・漢・魏・斉・梁・周・随などの古代国家の名が随所に見られる。つまり、これらの日本の漢詩集は日本文化が大陸の強い影響下にあったことを示しています。
ところが貫之の『かな序』をごらんなさい。大陸の影は微塵もない。難解意味不明な漢字は全くみられない。貫之の時になって美しい調べと余韻にみちた日本の文章が生まれたのです。
『やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。世中にある人、こと、わざ、しげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。花になくうぐひす、水にすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬおに神をもあはれとおもはせ、をとこをむなのなかをもやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるは、うたなり。
このうた、あめつちのひらけはじまりける時より、いできにけり・・・あらかねのつちにては、すさのをのみことよりぞ、おこりける。ちはやぶる神世には、うたのもじもさだまらず、すなほにして、事の心わきがたかりけらし。ひとの世となりて、すさのをのみことよりぞ、みそもじあまりひともじはよみける・・・』
貫之はこの序文を通じて、和歌という文化が日本の創世と共に生まれたこと、神々の愛の言葉から誕生し、この世の全ての生き物と心を共有していることを示しました。これによって和歌は思想を得、哲学を獲得したのです。すなわち貫之は和歌が学問芸術の分野にとどまらず、美と愛と国と人と神々と、生きとし生きるものすべてに共通する心を表現することのできる唯一の道であることを明らかにした人物なのです。貫之は歌人であることを超越して、日本人の精神の誇りとなったのです」
心寂房はこれを聞いて涙を流しながら「一人の人物から全てが始まり、八代集が生まれるとは、驚くべきことです」としきりに感歎するので、定家は微笑して、
「折角良い気持ちになっておいでのようですが、如何に貫之が優れた人物であったとしても、彼ひとりではどうにもならなかったでしょう。貫之があれほどに活躍できたのは、醍醐天皇の存在があったればこそなのです。和歌は我が国に漢詩がはいる遙か以前、神代の昔から詠い続けられてきましたが、勅撰和歌集はありませんでした。古今集も当初は漢詩集を真似ようとした節が見られます。醍醐天皇は、古今の歌を旧家に命じて献じさせ、これらを集めて歌集を創れとお命じになられ、編纂されたのが『続万葉集』です。しかしこれは御意に叶わなかった。醍醐天皇は漢詩漢文とは全く別の文化を求めておられたので、重ねて勅命を下しました。こうして完成したのが古今和歌集だったのです」
「醍醐天皇がそれほどに日本古来の和歌集を創ろうとお思いになられたのは、やはり大陸の衰えが原因しておりましょうか」
「それもあるでしょう。唐は内部の腐敗が極点に達し、大陸全土に農民の大反乱が起こり、国家の体を失いました。古代高麗人が立てた渤海も同様の混乱状態にあり、北方民族・女真族の侵略を受けていましたし、新羅は振興の高麗や後百済国と交戦状態にありました。大乱によって無数の難民が出た事は申すまでもありません。彼等は行き場を求めて四散し、海賊となるものも少なくなかったようです。こうした状況から朝廷には政治的分野のみならず、漢詩漢文、風俗にいたるまで、従来の大陸依存から脱却しようという意識が漲っていたのでしょう。しかしそうはいっても、文化は一朝一夕には成りません。それまでの学問はみな漢詩漢文が基本でしたから、和歌による勅撰集編纂は困難でした。勿論当時は歌合などが盛んに催されておりましたから、高位高官の方々も和歌を詠うことは出来たでしょうが、和歌の系統的知識となると、紀貫之を凌駕する人物は存在しなかったのです。貫之はその頃「御書所預」という低い役職でしたが、実はこここそが貫之の知恵の源でした。「御書所預」という役職は『禁中の書』を司るのが役目でしたから、貫之は朝廷の保有する書物の全てを思うがままに扱かうことができました。禁中の書を扱えるのはもう一つ、内御書所、承香殿の中にありましたが、ここは天皇の御座所である仁寿殿の北にあり、勅書を造ったりあるいは勅撰集の編纂などの場所です。またこのあたりは天皇が内宴や御遊をなさる場所でしたから貫之の存在を知る機会も多かったと思われます。天皇は貫之の和歌に対する考え方をお聞きになり、この者こそ、と直感されて大役を命じられたと思われます」
第35番目のものがたり 「忘れ貝」
土佐国に奉職していた貫之は、都から届いた躬恒の文を見て驚愕した。道真公の怨霊が雷神と化して清涼殿に落ち、大納言藤原清貫様と右中弁平希世様は即死、醍醐天皇は衝撃を受けられ、病の床に伏しておられたが、九月二十九日身罷られたという。
『過ぐる年には皇太子保明親王がわずか二十一才で夭折されたので、ちまたには道真公の祟りとの噂が流れ、朝廷は道真公の本官を復して右大臣としましたが、その甲斐もなく保明親王に代わって皇太子となられた慶頼王もわずか五歳で突然に亡くなられたので臣民恐れおののいておりましたが、昨年秋には雅明親王が亡くなり、今年二月には敦慶親王が身罷られたのでいよいよ何事か異変が起こるのではないかとみなみな恐怖していたところ、六月二十六日、突如御所に落雷し、公卿等が即死するという前代未聞の出来事が起こりましたので、帝は床に臥され、寛明親王が受禅なされましたが、帝はそのまま身罷られました。帝のご冥福を祈願し、中納言兼輔が醍醐寺の造営に着手しましたが、世情混沌としてみなみな不安に怯えております』。
貫之は躬恒の文を読みながら号泣した。こんなことがあってなるものか、このような事、真実であるものか。喉がふさがり、食べることも飲むことも出来ずに日を過ごした。
『すぐにでも都に立ち返ろう・・・帝が本当に亡くなられたのか、この目で確かめなければ・・・しかし土佐に赴任したのはこの春の一月。国守の役割を擲って帰ることは許されることではない』
貫之は文机に凭って呆然としていた。雲のようなものがしきりに去来した。夜になった。貫之は空ろな眼差しで闇を見つめていた。その貫之の目に「新撰和歌集」の文字が見えた。
貫之が土佐に旅立つ前、醍醐天皇は中納言兼輔を通じて貫之に勅命を下された。『古今和歌集に続く勅撰集を編纂せよ』
貫之は驚喜し、兼輔が目の前にいるのも忘れて感涙にむせんだ。土佐への船中でも編纂の手を休めず、着任して三ヶ月の間に三百首余を撰集した。だが、それが今、何になろう。貫之は凝然として為す術を失った。
年開けて閏七月、重ねて悲報が届いた。宇多法皇が身罷れたという。そして更なる死の知らせが届けられた。三条右大臣定方の死である。続く承平三年二月、中納言兼輔が死んだ。
『新撰和歌集を編纂しなさいと帝は仰せに成られております』
中納言兼輔様はそうお伝え下さった。あの、大らかな貴公子が、身罷られるとは・・・。
翌年、帰京命令が届いた。貫之は土佐国出立に先立ち、新撰和歌集の序文に次のように書き記した。
貫之秩罷んで帰るの日、将に以て上献せんとするに、橋山の晩松愁雲の影已に結び、湘浜の秋竹、悲風の声幽かなり(醍醐天皇の崩御をさす)。勅を伝ふるの納言(兼輔)もまた已に薨逝す。空しく妙辞を箱中に貯え、独り落涙を襟上にそそぐ。もし貫之逝去せば、歌もまた散逸せん。恨むらくは、絶艶の草をして、復た鄙野の篇に混ぜしめんことを。故にいささか本源を記して、以て末代に伝ふとしか云ふ。
帰京の日を待つ間に、娘が死んだ。貫之は形見の鏡を握りしめて泣いた。
風が船を頼りなく運んで行く。荒波にもまれ、嵐に転覆しそうになりながら、それでも沈まず、船はよたよたと進み、夜になり、朝がきて、また夜がきた。幾日も過ぎた。そんなある日の夕暮れ時、船は見知らぬ港に立ち寄った。女たちが月の光の渚に乱れるあたりに寄り集まって、着物の裾を高々とたくし上げて、「船旅ですっかり肌がよごれてしまいましたもの、月明かりですから海の神様も見逃してくださいましょう。さあ、汚れを洗いましょう」などと言い合って、波間で戯れている。貽鮨、鮨鮑までも恥ずかしいとも思わない様子でさらけ出して騒いでいるので、貫之は、水というものは何もかも洗い流そうとしているのだな、と思って、亡くなった中納言様兼輔の歌を詠んだ。
いつしかとまたく心を脛に上げて
天の川原を今日やわたらむ
(織り姫が恋しい人にあえる喜びで待ちきれずに、着物の裾を高々とまくって、天の川を踏みわたってゆくのだなあ)
月が山の端に隠れるかと見ていると、そうではなく、青黒く続く松原に沈み、闇夜が来たが、その闇も海風に運ばれて、白々と夜が明けた。松原がどこまでも続いている。真っ白な浜に松林がどこまでも続いている。松原に鶴の群れが舞い飛んでいる。波間に低くふれるかと見れば風に乗って雲間に届くほどに悠々と翼を広げて、天女の群れのように舞い飛んでいる。千歳を経たかとも見える老木の根方に白波が打ち寄せている。十歳ほどの女の子が渚にしゃがみこんで貝を拾いながら歌っている。
なほこそ国のかたは見やらるれ 我が父母なしとし思へど かへらや (私の国がかすかに見える。私の父母はないのだけれど、ああ、早く帰ろう)
これを聞いて貫之は、『都には父母のような帝も法皇もおいでにはならない。それでも、帰りたい、早く帰ろう』と涙を流した。
漁師が渚で網を引いている。春だというのに、雪が空から舞い落ちてくる。白雪は漁師の頭に雪が降り積もって、八十の翁のようだ。翁は網を引きながら歌う。
我が髪の雪と磯べの白波と
いづれまされり沖つゆく船
不思議だ。あの歌は、私が海を渡ってゆくときに、雪が降り、私の頭が白くなってしまったので詠った歌ではないか。
我が髪の雪と磯べの白波と
いづれまされり沖つ島守
(役目を終えて都へ帰れるというのに、降り積もる悲しみで、私の髪はすっかり白くなってしまった。うち寄せる波のように、白くなってしまった。沖の島守よ、年老いた私を哀れんでくれ)
遠くに、華やかな吹き流しを幾本も立てて、都へ帰る船が見える。船から歌声が聞こえる。
波とのみひとつに聞けど色見れば
雪と花とにまがひけるかな
「さても優雅に遊びつつ漕いで行く船であることよ」漁師がつぶやきながら網を引くと、魚はひとつも見えず、貝殻がからまっている。女の子が浅瀬に下りて漁師の網から貝殻をはずして、砂に並べて詠っている。
波とのみひとつに聞けど色見れば
雪と貝とにまがひけるかな
月が出た。女たちは船を下りて薄い衣を脛まであげて汚れを落としている。十二月の海に入るとは、女はどうしてそこまで美しさにこだわるのだろう。不思議に思っていると、女に混じって幼い女の子が貝殻を拾っている。そして水の中から銀の貝殻を拾い上げるとその中をしみじみと見た。貫之はその貝殻を見て、あっと叫んだ。
「その鏡は、海の神に差し上げた鏡ではないか。大風が吹いて、水主たちがいくら漕いでもいささかもすすまぬ。
舵取りが『海の神が住吉明神が宝を欲しがってこのように荒れていなさる。神様が喜ぶような品物を奉ってくだされ』と頼むので、山のように供物を重ね、幣と共に奉ったが、風はますます吹きつのって、いよいよ船が転覆するという時に、舵取りが『神様はまだ満足なさらない。大勢の命がかかっているのだから、かけがえのない宝物を差し上げて下さい』と悲痛な声で叫ぶので、『私の目は二つあるのだが、神が差し出せと云えば惜しがらずに差し上げましょう。しかし今は目よりも大切なものを差し上げることにしよう』と言って、泣き騒ぐ人々を宥めて、娘の形見の鏡を海に投げ込んだのだった。あの子が持っているのは、あの鏡ではないか。
「そなたは!」
「おとうさん、おとうさん」
「そなたは、どうして」
「私は、お父さんも、お母さんも、私を置いて行ってしまわれたので寂しくて、泣きながら、ここまで追いかけてきたのです」
「ああ、お前を亡くした時私はこの先、どうして生きていけるのかと、胸が張り裂けるようだった。こちらにおいで」貫之が両手を広げると、青い波に呑み込まれながら娘は詠った。
忘れ貝拾いしもせじわが父母を
恋ふるをだにもかたみと思はむ
貫之は貝を抱きしめて慟哭して詠った。
忘れ貝拾いしもせじな白玉を
恋ふるをだにもかたみと思はむ
『土佐を離れて船に乗ったとき、私は亡き娘を偲んで歌を詠った。あの子は歌を返そうとして、波間を漂って追ってきたのだ。ああ、真珠の玉よりもいとしい娘を慕う気持ちをあの子の形見と思って、忘れ貝を拾わずに帰ろう』
都に帰り着くと、邸は荒れ果てて八重葎が生い茂り、白い梅の花が咲いているばかりだった。
人はいさ心もしらす古郷は
花そむかしの香ににほひける
「新撰和歌」序文に関する引用参考文献・『紀貫之』百八十頁目 目崎徳衛 吉川弘文館