百人一首ものがたり 34番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 一番目のものがたり「安貴王」

誰(たれ)をかも しる人にせむ 高砂の
松もむかしの 友ならなくに

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

 秋の昼過ぎ、心寂坊が小倉庵を訪ねると家司の忠弘が「中納言様は宇都宮頼綱さまよりお誘いがありまして、別業へおいでになりましたが、文をお預かりしております」と文箱を手渡した。紐を解いて見ると、

「心寂坊殿、『百人一首ものがたり』に取りかかってから久しくなりましたが、その間、数多くの方々にお目に掛かりました。大化改新を成し遂げた天智天皇にはじまり、人麻呂、赤人、家持らと時を共にし、小町、業平、伊勢などの方々ともお会いして夢の如き日々を過ごしました。

 ところがひとり、またひとりとお会いしてその様を書き終えて、ふと夜半に我に返ると、あたりには誰も見えず、己ひとりが闇の中に取り残されているばかり。私はその度に愕然として、互いの間に横たわる数百年の時の隔たりを思い知らされるのです。私が話し、書き綴っているのは取り返しもつかぬ遠い昔、たとえ時を遡ることができたとしても、その方々はこの世には存在しない、その事夜寒の肌にしみじみと感じるのです。

 けれども、この世の者でなくなったのは昔の方々ばかりではありません。私と同じ時代に生き、月を眺め、歌を交わした多くの友もつぎつぎと去りました。西行・寂連・家隆・式子内親王・待賢門院堀川・皇嘉門院別当、太政大臣良経・右大臣実朝・・・指折り数えてみますと、五十、百どころか十本の指を百度折ってもまだ足りず、数えるのが恐ろしくなります。

  きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに

衣かたしきひとりかもねん 

後京極摂政前太政大臣の悲哀が夜ごとに迫ってまいります。

 これからの世がどのようになって行くのか、私には少しもわかりません。為家からの文によれば、過日、東一条立子・道家室の北の政所・姫御前・定高卿・齋宮などの方々が南京あたりを巡行された折り、警護の侍のみならず、諸太夫や殿上人らまでが日頃の空腹を満たそうとばかりに大食・大飲・大酔し、その貪る有様は浅ましいばかりであったとのことです。過ぐる日

黄門定高卿が邸で大饗を催したところ、長季、知家、経時、入道仲経卿など、みなみな大食過食酔狂して醜態をさらしたありさまはむかしの平範輔の浅ましさに似て、餓鬼畜生の如きであったとの事。三人の帝が配流となり、王朝の都には一片の道義も無き有様となったのですから今更昔を偲んでもどうなるものでもありませんが、残り少ない命の日々の間に、これほど醜い修羅の地獄を見なければならないわが身の不運を嘆くばかりです。

 

関白道家様はこの頃微熱が続いているとの事ですが、世の有様を見聞きすれば、病に取り憑かれるのは当然の事でござりましょう。盛親の下痢は如何にも急にて、薬湯も効験なく、為家は石清水八幡宮の放生会に出なければならないというのに先駆けにも人を欠く始末。

ところで、後鳥羽院の治世、『権門の女房』として権勢を振るった丹後の局兼子が過日、七十五才で亡くなりました。人伝えによれば、臨終を見守った者は数ならぬ身の者のみ、暁に土葬にしたとの事でした。

日々の出来事を見聞きするにつけ、思うは平安の都が華やいでいた往事の事ばかり。中でも寛平延喜の時に生きた方々を思うとき、羨望嫉視の眼差しを己から取り除くことは至難のわざでござります。

しかしそうした方々の中にも瑞雲の裂け目からけ落とされ、悲憤の淵に溺れた者も少なくありません。道真公がその筆頭であることは言うまでもないことですが、藤原興風という方もまたその一人でありました。

たれをかも知るひとにせむ高砂の

松も昔の友ならなくに

この歌には、世に疎まれ、誰からも存在を認められなかった者の声が、松の枝の間を微かに流れる風のように漂っています。興風は藤原四家の一つ、京家に生まれたが故に、生涯不遇のみに甘んじなければならなかったのです。

心寂房殿は藤原京家に生まれた者がなに故に不遇を託つ運命と定められてるのか、訝しく思うでしょうが、藤原家にはご承知のごとく四家があり、京家は最も小さな勢力でした。四家の当主は藤原不比等の四人の息子たちが興した家であり、長男の武智麻呂は南家、次男房前は北家、三男宇合は式家、四男麻呂は京家をそれぞれに立てました。四家は当初より互いに勢力を競っておりましたが奈良朝に置いては南家が大勢力を誇り、武智麻呂の子仲麻呂は光明皇后の絶大な信頼を得て昇竜の如くに出世し、皇族以外で初めて太師(太政大臣)の地位まで上り詰めました。しかし道鏡と対立して反乱を起こし、一族共に処刑されましたので南家は没落してしまいました。         

 

式家は藤原宇合が立てた家ですが、宇合は時の左大臣・長屋王と対立し自刃に追い込んだ人物です。宇合の子広嗣は吉備真備らの政策に反対して九州で反乱の旗を挙げ、九州で処刑されました。宇合の孫、種継は桓武天皇の絶大の信頼を得、長岡京の造営史となりましたが、暗殺され、種継の次男・仲成と薬子は『薬子の乱』の張本人となり、殺されました。宇合の孫娘、乙牟漏は桓武天皇の皇后となり、平城天皇と嵯峨天皇の母となりましたので、国母ということになりますが、兄弟が謀反人でしたので、宇合の立てた式家そのものは凋落したのです。

不比等の末っ子・麻呂は管弦、弁舌に優れていましたが、晩年狂気に取り憑かれた気配があり、またその子、浜成が桓武天皇即位に反対の謀議に加わった事が発覚して、京家は没落しました。

こうしたわけで、藤原四兄弟が立てた四家のうち、式家、南家、京家は没落し、北家のみが隆盛を誇ることになったのです。

藤原興風は京家の血筋だったため官位を得る事は絶望的でした。そうした事情も手伝って、寛平御時后宮歌合では次のような歌を詠っています。

咲く花は千草ながらにあだなれど

誰かは春を恨み果てたる

(花はこの世にさまざまな彩りで咲くけれど、いずれもはかない運命と定められている。しかしだからといって、誰が春を恨みに思うようなことがありましょうか)

これが表の意味でしょうが、裏の意味は今ひとつ複雑です・・・

(花といっても誰も見ぬ野辺の花もあれば、九重に咲き誇る桜の花もある。春が過ぎてしまえば散るのが定めと言いながら、一度しかこの世に花を咲かすことができないのであれば、華やかな宮廷に爛漫の花を咲かせ、美しい女官に愛でられてこの世を終えたいものだ。しかしその望みが叶わぬからといってどうして春を恨んだりするものか。恨みに思うのは、自分に定められたこの運命なのだから)

興風は同じ思いを鶯にたぐえて詠んでいます。

声たえず鳴けや鶯ひととせに

ふたたびとだに来べき春かは

(鶯よ、声をとぎらせずに、唯ひたすらに鳴き続けろよ、春は年に一度しか来ないのだから)

第34番目のものがたり 「安貴王」 )

女の残していった裳を頭の下に引き敷いて枕にして、興風は横になっていた。さっきまで枕を交わしてさまざまに語り合っていたものを、突然親が寝間に侵入して女を連れて行ってしまうとは。こんな浅ましいことがいつの世にあったろうか。しかし、こんな憂き目に遭わねばならのも、私の身分が低いからだ。公卿とはいわず、せめて殿上人の地位を得ていたなら、このような無体な扱いは受けなかったものを。

業平殿が武蔵の国の女を夜ばいしたときに、その親が「みよしののたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる」

(みよしのの野に降りている雁が引き板を降ると鳴き声を立てるように、私の娘もただひたすらあなたさまをお頼みして、夜が来るとあなたさまのほうに心を寄せているようでございます)

と歌ってなんとか娘を縁づけようとしたのは業平殿が親王の御子だったからだ。他方、私は地位も名誉もないが故にこのような扱いを受けるのかと思うと恨めしくてならぬ。

 興風は女が形見にと残した裳を掴んで顔の前に引き回して、香りをかぎながら、歌った。

 逢ふまでの形見とてこそ留めけめ

涙に浮かぶ藻屑なりけり

(こんど逢うまでの形見として持っていてくださいと残して行ったあなたの裳は、私が流す涙の海に浮かぶ藻くずのように頼りないものであると思い知らされるばかりだ)

 

 見知らぬ貴公子が興風を見下ろしていた。

「あなたは誰ですか」

「歌に誘われて来たのです」

「歌・・・いったいどなたですか」

「恋人を奪われました」

「奪われた?それは私です。私は恋人を連れ去られたのです」

「私の方が先に奪われたのです」

「先に奪われた?」

 興風が怪しむと、男は詠った。

 しきたへの手枕まかず間置きて

年そ経にける逢はなく思へば

(あなたと私は、お互いの手を枕にして寝たものでしたが、今はあなたの手枕をすることもできず、時ばかりが過ぎてゆきます。

もう逢えないと思うとあの頃の手枕が恋しくてなりません)

 興風は驚嘆した。何とすばらしい調べだろう。こんな美しい歌にのせて恋人を失った悲しみを詠うとは・・・いったい何者だろうか。

 興風が訝しんでいると、

「あなたが恋人を失ったのは、あなたの身分が低く、財産もないからだと思っていますね」

「・・・」

「それに、あなたの京家には謀反人の汚名が染みついている。麻呂の子、浜成は山部親王(後の桓武天皇)の立太子に反対して氷上川継の謀反に荷担した。それからというもの、京家の者は公卿どころか殿上人になることも出来なくなった。あなたが官職に就けずにいるのも京家の汚名故と思っているのですね」

「そうですとも、もしも浜成が桓武天皇の即位の力となってたら、京家の者は日の当たる地位を得ていたでしょう」

「そのお気持ちは分かります。しかしそれは違います」

「違う?何が違うと言うのです」

「京家の者の不遇は、反逆者の血筋だからではありません。私から恋を奪ったからです」

「あなたの恋を奪った?何の事です。恋を奪われたのはこの私です。あなたの話は支離滅裂で、何のことか少しも分かりません」

「お分かりにならないのならお教えしましょう。あなたは歌人なのですからこの歌をご存じでしょうね」

「遠妻(とほづま)の ここにし在らねば 玉鉾の 道をた遠み 思ふそら 安からなくに 嘆くそら 苦しきものを み空行く 雲にもがも 高飛ぶ 鳥にもがも 明日往きて 妹に言問(ことど)ひ 我(あ)が為に 妹も事無く 妹が為 我(あれ)も事無く 今も見るごと 副(たぐ)ひてもがも)

(遠いところに流されてしまった私の妻よ。あなたは私から奪われて、ここにはいない。あなたと私を隔てている道はあまりにも遠い。互いを隔てている空はあまりにも遠い。あなたがいないので、私は心が一時も安らかでなく、嘆いてばかりいて、ただ空しくて、苦しくてたまらない。空を見上げていると、あなたのところに流れてゆく空の雲にでもなりたいと思う。空高く飛んでゆく鳥を見ると、私も鳥になれたらと切なく思う。なんとかしてあなたのところに行って、互いに思う気持ちをうち明けて語り合いたい。そうすれば、あなたの心もやすまるだろう。私の心も癒やされるだろう。私も何もかも忘れて心が安らかになり、今こうしてはっきりとあなたを面影に見ている通りのあなたを見て、満足するだろう。ああ、あなたを抱いて、互いにびったりと寄り添っていつまでも睦み合うことができたら・・・」

「その歌は、天智天皇の子・志貴皇子の孫、安貴王の歌・・・でもまさか、あなたは・・・安貴王」

「私は安貴王です。私はあなたの曾祖父・麻呂に恋人を奪われ、殺されました」

「・・・」

「私は麻呂の妻・八上采女と恋に落ちました。麻呂は八上采女を捕らえ、因幡国に流罪にしました。そして私のことも捕らえようとしましたが、私が皇族なので思うようにならない。そこで麻呂は八上采女がかつて采女であった事を利用し、『天皇に仕えていた采女を犯した安貴王は不敬罪の罪に値する』と告発しました。八上采女はとうに世俗に下り、麻呂の妻となっていたことを思えば、どうして不敬罪などに問えましょうか。しかし麻呂は私の長歌を証拠として不敬罪の罪で捕らえました。私は讃岐へ送られる途中、毒を盛られ、殺されたのです」

「・・・」

「もしも麻呂が私の恋を許していたなら、京家は北家を凌ぐ繁栄を謳歌したでしょう。というのも麻呂には抜きん出た才能があったからです。その才能の力で麻呂は出世を重ね、天平三年には参議となり、兵部卿を兼ねて山陰道鎮撫使に任じられました。麻呂の博学と弁舌は陣座の公卿たちの耳目を奪うほどでしたから、大臣の地位も手に届くところにありました。しかし思わぬ事態が麻呂を襲いました。正気を失ったのです。朝廷でしばしば叫声を発し、酒に溺れ遊興に浸るようになりました。彼は自らが狂気に陥りつつあることを知って、次のように詠っています。『僕は聖代の狂生なり。風月を以て情と為し、魚鳥を翫(もてあそんで)と友と為す』」

「・・・安貴王さま・・・もしや、麻呂を狂気に陥れたのは、あなたなのですか。八上采女を奪われた事を恨んで狂い死にさせたのですか」

「麻呂は自ら滅んだのです。もしも人を恨み、殺せば、その者もまた地獄に堕ちましょう。麻呂は罪もない男女を死に追いやった罪で、神々に裁かれたのです」

「いいえ、信じられません。罪を犯したのは麻呂、そして浜成。なのに京家の者はみな過去の罪に苦しんでいます。私とて同じ事、殿上人は雲の彼方です」

「いいえ、あなたは恵まれている。今の世の誰よりも」

「恋人を奪われ、地方官にもなれず逼塞している私を、恵まれているなどと、からかうおつもりですか」

「あなたは時を超える歌が詠める方です。その証拠に、私は数百年の過去からあなたの歌に誘われて参りました。あなたの歌が微かに聞こえて来たとき、私はまるで自分自身が、あの方を思って詠んでいるのかと思ったほどでした。

きみ恋ふる涙の床にみちぬれば

みをつくしとぞ我はなりぬる

(あなたに恋い焦がれて涙を流し続けたので寝床は涙で海のように濡れ、この身は波間に立つ澪標(みおつくし)となり、とうとう身を滅ぼしてしまったのです)

  死ぬる命生きもやするとこころみに

玉の緒ばかり逢はむと言はなむ

(人はやがて死ぬものですが、あなたの心次第では死んだ命も生き返ることができるのです。私が生き返るかどうか、ためし『玉の緒ばかりの間でも逢いたい』と言ってください)

「麻呂は私を陥れ、私の恋人を奪い、死に追いやりました。しかし麻呂の血を引くあなたが、麻呂への恨みを洗い流してくれました。これから私はあなたのこの歌を携えて、黄泉路を下り、八上采女に会いに行くつもりです」

「黄泉路を・・・イザナミを求めるイザナキのように」

「いいえ、スセリヒメに会いに行く、大国主命のように、私は行くのです」

「では、私は」

「恋しい人に逢いにゆきなさい。きっとあなたを待っているでしょう」  興風はあたりを見回した。安貴王の姿は見えず、床には女の形見の裳裾があるばかりだった。