百人一首ものがたり 33番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 一番目のものがたり「競べ馬」

久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく花の散るらむ

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「これはみな関白様からいただきましたもので」

「なんとも見事な乾し牡蠣でござります」

 心寂坊と家司の忠弘の話声が聞こえてくる。実朝が暗殺された後、鎌倉四代目将軍には関白九条道家の子・頼経が立てられたので鎌倉幕府と関白家はすこぶる密接な関係にある。加えて九条道家の母は源頼朝の姪なのだから関白道家と鎌倉との親密さは切っても切れぬものがある。京の三条河原には餓死した者の骸がうち捨てられて重なっているが、関白家には山海の珍味や穀類を積んだ荷駄の列が絶えることがない。しかしそれほどに恵まれた関白でも、体ばかりは思うようにならぬらしく、しばしば心寂坊を呼び寄せて療治を命じている。それが時には十日あまりも続くことがある。その日も心寂房は十二日目にしてようやくやってきたので定家は少々不機嫌に迎えたのだった。

 心寂坊は挨拶の後、包みを解いて大きな蜜柑を取り出した。

「それも関白からの貰い物ですか」

「いえ、私の庭で育った蜜柑でございます」

「何と、ご自分で育てたのですか」

「はい。中納言様の庭にも移植いたしましょうか」

「それは是非ともそう願いたい」

 定家はすっかり機嫌を取り直して「心寂坊殿が蜜柑をお持ち下されたので、こちらも今できたばかりのものをお見せいたしましょう」そう言いながら手元の箱の中から巻物を取り出した。

心寂坊は『今度こそは紀貫之様に違いない』心寂坊は思ったが、表書きには『紀友則』とある。がっかりしていると、

「心寂房殿は寛平の御時の七夕の夜の『うえにさぶらふおのこども歌たてまつれ』との(みことのり)をご存じですか」と訊くので、

「いったい何のことか少しも分かりかねます」と答えると、

「これはとても面白い出来事ですよ。この時の帝は宇多天皇、『うえにさぶらうおのこども』というのは、殿上人のことです」

「そのようにご説明を受けましてもまだ一向に」

「それならこう申せばお分かりでしょうか。寛平の年の七夕の夜、天の川の星を眺めて楽しもうという殿上人が大勢清涼殿に詰めかけましたが、天皇は『七夕の夜に相応しい和歌を詠んでみなさい』と命じたのです」

「それはまた、雅な景色が目に浮かぶようでございます」

「当時はこのように天皇の御前で歌を詠むことが多かったのですが、その場に応じて歌を詠めと仰せになられても時には詠めない事もあります。そこで殿上人たちはそうした不測の事態に備えて選りすぐりの歌人を側に置き、自分に代わって詠ませたのです」

「身代わりの歌人・・そのようなことが許されたのですか」

「昔はおおらかでしたから、代わりの歌人が詠んでもその方が詠んだと見なされたのです。それから殿上人お付きの歌人ばかりでなく、その歌会のために臨時に呼ばれた歌人も御殿には控えていたようです。そうした控えの歌人の中に友則が混じっておりましたが、天皇が「中納言兼輔、歌を詠みなさい」と仰せになられた。ところが兼輔はどうした事か、その晩に限ってすぐには詠めなかったのです。兼輔は日頃から歌の名人として自他共に許す存在でしたから、控えの歌人などの用意はしなかった。そこで天皇が『誰ぞ、中納言に替わって詠め』と仰せられたので、紀友則が直ぐに詠んだ歌というのが、

 天の川浅瀬白波たどりつつ

わたりはてねば明けぞしにける 」

「兼輔殿が詠めないものを友則殿がただちに詠むとは驚いた事ですが、いったいその歌はどのような意味でございますか」

「これはなかなかに意味合いの濃い歌です・・・彦星は一年という長い時を待ってようやく織女星に逢える晩になったので、いそいそと天の川に足を踏み入れたのだけれど、白波がたち騒いで、どこに浅瀬があるのか分からずに困惑して立ち往生しているうちに夜が明けてしまったことですよ・・・表の意味はこれほどの話しでしょうが、実は友則は、『今夜は中納言兼輔様が帝の御前で歌を披露する年に一度の機会なのに、気の利いた歌の一つも詠めずにぐずぐずしている間に夜が明けてしまいましたね、と兼輔の無才を皮肉っているのです」

「まさかそんな侮辱めいた事を何故に」

「兼輔は従兄弟に定方がおり、又従兄弟には時平、忠平がいますから飛ぶ鳥を落とす勢いでした。しかも兼輔はその富を惜しげもなく文化芸術のために使い、貫之や友則もその余慶に与っていましたから、友則は兼輔に感謝してしかるべきなのですが、友則は気位の高い男でしたから、古代からの名家の血筋を引く紀家の者が兼輔の恩恵にあずからねばならぬ現実に鬱々とした思いがあったのでしょう。その鬱憤が歌に出てしまったのでしょうね」

「紀家はそれほどの名家だったのですか」

「申すまでもありません。紀家は藤原家などよりも古い家で、祖先は武内宿禰なのですから」

「武内宿禰とは・・・大昔の神話の世界ではござりませぬか」

「如何にも武内宿禰は第八代孝元天皇の曾孫とも孫とも言われておりますから神話・伝説の人物です。日本武尊の父・景行天皇に仕え、その後も成務・仲哀・応神・仁徳の側近として働いたとされているのですからね」

「まさか、それが事実なら数百年も生きたという事になります」

「無論一人ではなく、何代にも亘って同じ名が継がれたということでしょうし、それだけ偉大な功績があったという事なのでしょう。しかしその勢力は年代を経るほどに衰微して、飛鳥奈良の御代になると権力とはほとんど無縁となりました。ところが一度だけ、紀家に古代の夢が蘇る機会が訪れたことがあったのです。いつぞや申したことですが、紀有常の妹の静子が文徳天皇の妃となり、惟喬親王を生んだのです。紀家にとって起死回生の機会でした。しかし藤原良房の力によってその夢は空しく打ち砕かれました・・・あの有名な、久方のひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ、という歌は、この時の紀家の不運と敗北を詠っているのではないかとも思うのです。『しづ心なく』のしずとは、文徳天皇の妃、静子を指し、花は誰もが皇太子にと仰ぎ見ていた『惟喬親王』。静子は紀家の期待を一心に集めて惟喬親王を生み、親王も美しく花咲いたけれど、その花も無情に散ってしまった。桜の花が散ると藤の花が大きな房を下げて春を謳歌するように、紀家は爛漫の春を藤原家に取られて空しく散ってしまうことですよ、とこのようにも解釈できましょう」

「それはすばらしい解釈ですが、そのまま信じてよろしいのでしょうか」

「さてそれは難しい事ですが、紀友則という人物は才能に恵まれながら長らく無冠のまま零落しておりましたから、ずいぶんとへそ曲がりな性格になっていたようです。そうしたわけで私は友則を書いてみようと思ったのでしたが、あれこれと想を練っているうちに時が前後してしまいました。まあ、気にせずにお聞き下さい」  定家はこんな前置きをして物語を読んだのだった。

第33番目のものがたり 「競べ馬」 )

 内裏歌合の打ち合わせがあるからと御書預役を仰せつかっている従兄弟の紀貫之に誘われ、右衛門府生壬生忠岑、甲斐少目凡河内躬恒らと共に蔵人頭菅原道真とあれこれと相談し、話し終えて一同と別れて校書殿から安福殿に通じる透渡殿を通って行くと、思いがけなくも向こうから若々しい姿の大納言時平様が大勢の供人と共に歩いて来るのが見えた。友則は渡殿の柱の後に身を半分隠すようにして退き、身を屈めてやり過ごそうとした。大納言はこれを目敏く見つけて「そなたは紀友則ではないか。滅多に参内せぬようじゃが、何故に顔を見せぬ」と訝しげに言った。弟の仲平はこれを聞いて「この者はまだ無官ですから歌合いの時でもなければ参内することは出来ないのです」

「何、無官だと?」時平は言いながら友則を不躾(ぶしつけ)に見たので、恥ずかしさと悔しさで首の後まで青くなって、袖で顔を半分隠して逃げようとした。これを見て時平はますます面白がって、

「まさかそなたが無官とはなぁ。こうして見ればひどく年輩ではないか。いったい幾つになったのだ」

「・・四十余りになりまする」

「ホホッ、しじゅあまりか」と口を細めて、

 今までになどかは花の咲かずして四十年(よそとせ)あまり年ぎりはする   (今までどうして花が咲くこともなく、実もならずに四十も過ぎて枯れかけているのかな、後撰1077 )

 と歌った。供人たちはどっと笑った。友則は青ざめて、

はるばるの数は忘れず有りながら

花咲かぬ木をなにに植へけん   (春は忘れずにめぐってまいりますから私もそれだけ年を取りましたが、私という木はあなたが日陰の鉢に植えたからでしょうか、春がめぐってきても花が咲くことはないのです。毎年大勢の者が春の除目で官職につきますけれど、私が無官でいるのは他ならぬあなたのせいではありませんか 後撰1078)と返した。これを聞いて大納言は、

「さすがに歌詠みは達者なものだ」と笑い、供人を引きつれて行ってしまった。

 内裏を出てどのように歩いたか覚えがなかった。腹が立って、あてもなく裏路地を歩いた。小川が流れている傍らに雁の卵売りが背を丸めてしゃがんでいた。斑点のある卵が筵に幾十も並んでいる。それ見て友則は伊勢物語の男が人を恨んで歌った歌をふと思い出した。

 鳥の子を十づつ十はかさぬとも

思はぬひとを思うふものかは   伊勢物語五十段 (十の十倍にした数の百個の鳥の卵を真っ直ぐに積み重ねようとしても決してそんな芸当は出来ぬように、私を大切に思ってくれぬ人をどうしていとしく思うことがあるだろうか、死んでも思ってやるものか)

 友則はこの歌を紙にかきつけ、舟の形に折って、小川に流して見送るとまた歌った。

雁の子を十づつ十は重ぬとも

人の心はいかがたのまむ 古今六帖

(雁の卵を百こ重ねられぬように、人の心は何とも当てできぬ)

 友則はこの歌も舟型に折って、水に流してしまった。それから懐から金を出して、卵を十買って家路についた。

 門を入ると、りんどうの花が倒れている。友則はこれを見て、

 我宿の花踏みしだく鳥打たむ

野花なければや此処にしも来る 古今442(私の家の花を踏みつけにした鳥を捕まえて打ち殺してやろうか。大納言時平が私を捕まえて侮辱したように、花の心を知らぬ鳥共は、野にめぼしい花がないものだから、私の家に入り込んで花を散らしたぞ。憎いことだ。)と歌った。

 友則は寂しい夕餉を一人で食べて、雁の卵を一つ飲んだ。女を訪ねる気にもなれず、そのまま寝てしまった。翌日物思いに耽っていると、従兄弟の紀貫之がやってきた。

「聞きましたぞ」と貫之は友則の前に座って「大納言様もお人が悪い。さぞや腹が立ったであろうが、しかしどうなるわけでもない。時が来るのを待つことだ。」

 友則は眉間に青筋を立てて、

「時を待てとは何の意味だ。藤原の種が尽きるまで待っていろと言いたいのか」と言って大の字に転がった。貫之は早々に帰ってしまった。

 翌日は雨だった。雨粒が藁屋根の軒から絶え間なく落ちる様を眺めてぼんやりしていると貫之の姿が見えた。

「本日のご機嫌はいかがかな」と貫之は微笑した。

「昨夜、ほととぎすを聞いたぞ」友則は酒壺を床に立てた。

「確かに聞いた」貫之は言いながら筆を湿して歌を書き付けた。

 五月雨の空もとどろに杜鵑

何を憂しとか夜ただ鳴くらん 古今160(五月雨が降っているその夜の空をとどろかして杜鵑がひたすらに鳴いている、その杜鵑のように、君は何が辛いといってそのように苦しい夜を過ごしているのだろうか)

 友則は筆を執って、

 をとは山けさ越えくればほととぎす

梢はるかに今ぞ鳴くなる 古今142(私が音羽山を越えて彷徨っていると、杜鵑が突然鳴いたので、見上げると梢はるかに鳴きながら飛び去って行ったよ。その杜鵑のように私は孤独のまま、誰にも認められずにあてもなく飛び去って行くのさ)

「妙な夢を見たのだよ」と友則は言った。「あの相撲の勝負に勝ったのだ。我が紀家は藤原に代わってこの世を治めることになった。私が左大臣、そなたが右大臣。すばらしい夢であろう」

「愚かな夢だ」

「何が愚かなものか・・・もしもあれが成就しておれば夢は正夢であったのだ、そうは思わぬのか」

 友則の言葉には酒の勢いとは裏腹の真剣な気配が見える。貫之は困って夕暮れの雨を見てため息をついた。

 友則が夢で見たという「相撲の勝負」というのは皇太子の地位をめぐる伝説めいた話だった。

 仁明の帝が世を治めて居られた頃、藤原の力は今ほどに絶対なものではなかった。仁明の帝の父は嵯峨天皇だが、嵯峨天皇は藤原氏にはとらわれず、才能のあるものはどんどん登用したので朝廷には驚くほど多様な人々が雲霞のように集まり、加えて天皇の后・嘉智子様は橘家から出たお方だったので、昔からの名族への庇護は厚く、特に橘氏の子弟のためには嵯峨野に壇林寺を創建して教育を指導し、伴、紀などの名族にも援助の手をさしのべていた。このような皇后の影響もあって、仁明の帝は紀や橘の人々を多く登用し、また文人たちにも目をかけたので才能ある若者が次々と殿上人や蔵人に列するようになった。さらにまた、皇太子通康親王の后には藤原家からだけではなく、紀家からも更衣が入ったので後宮は華やかさを増して内裏は活気に満ちあふれていたのである。

 こうした時、紀家から入内した静子が皇太子通康親王の寵愛を一身に受け、惟喬親王を生んだ。右大臣藤原良房の娘・明子(あきらけいこ)も通康親王の妃ではあるが皇子はない。このままでは惟喬親王がやがて皇位に就き、紀家が藤原家を凌ぐようになるかも知れない。藤原家の者は焦燥した。

 藤原家の思いをよそに、惟喬親王はすくすくと育った。親王は幼い頃から聡明で、文章博士の難しい話を大きな耳で辛抱強く聞き、たちまち覚えた。通康親王は手ずから書の手本を書き、歌を教えたが、たちまち覚え、詩を創った。通康親王はいよいよ惟喬親王を愛おしんだので、紀家の人々の期待は深まるばかりだった。

 ところが、思いがけない出来事が人々を驚愕させた。仁明天皇がお亡くなりになった数日後、右大臣良房の娘明子が皇子を生んだのである。紀家の人々は愕然として声を失ったが、藤原一族は驚喜した。皇子が生まれさえすれば、惟喬親王を退ける事などたやすいことである。右大臣良房は明子の生んだ皇子を惟仁となづけ、すぐさま皇太子に就ける段取りに着手した。ところが事は思うように運ばなかった。生まれたばかりの嬰児を皇太子に就けようとする良房の振る舞いを多くの殿上人たちは快からず思い、都には良房の横暴を揶揄する歌が流行りはじめたのである。

 大枝を超えて、走こえて、躍りあがりこえて、我れ護る田にや、捜ぐりあさり食む鴫や、雄おい鴫や

(しっかり大枝を組んで悪い鴫が入り込まぬように囲い護っているのに、その大枝を軽々と飛び越えて、躍り上がって、私の田圃にぬけぬけと入り込んで、大事なあさりを食ってしまう鴫め、おおい、憎い鴫の奴め)

 朝廷内外の混乱を鎮めるため、陣座の公卿たちは協議の末、次のような結論に達した。

「そもそも臣下である者が親王のいずれかをとり、いずれかをとらずと選んで、皇太子を決めようとするのは良くない事である。従って万人は口を閉ざし、神意によって決定するべきである。神意を測る方法は、第一・競べ馬、第二・相撲。これにより運を知り、雌雄に依りて、宝祚を授け奉るべきである」

 こうして皇位をかけて、前代未聞の勝負が行われることになった。天安二年九月二日、惟仁親王は乳母に抱かれ、惟喬親王は紀有常や在原業平に付き添われて右近の馬場に行啓なされた。馬場の周辺には皇族、貴族公卿殿上人たちがひしとつめかけ、貴族の女たちを乗せた牛車は隙もないほどに馬場の周りを取り巻いた。また双方とも仏のご加護を得ようと、惟喬親王側は東寺に壇を築いて信済が祈祷を行い、惟仁親王側は内裏の真言院に壇を設けて、恵亮を中心に盛んな秘法を行った。

 いよいよ競べ馬が開始された。初めの四番は惟喬親王が勝ちを収めたが、後の六番は惟仁親王側が勝利した。そこで次に相撲となった。惟喬親王の側は右兵衛督名虎という勇者が進み出たが、この者は皇太子の妃の父・紀名虎と奇しくも同じ名であった。惟仁親王側は少将の能雄という小兵が出てきたが、この男は自ら夢のお告げがあったとして名乗り出て撰ばれたのだった。名虎と能雄はがっぷり組み合って互いに譲らなかったが、やがて名虎の力が能雄を組み伏せそうな気配になった。

 惟仁親王の母・明子は真言院の恵亮に早馬をとばした。

「このままでは必ず負けましょう。いかがすればよろしいのか」これを聞いて恵亮は直ちに大威徳明王の法を修し、更に独鈷で自分の脳を就いて髄液を出し、あらかじめいただいていた明子様の乳と混ぜて護摩を焚いた。と、突如黒煙が上がって天井に渦が巻き上がったが、この時能雄は霊力を感じて名虎をはねとばし、ひと突きで悶絶させてしまったのだった。こうして雌雄は決し、惟仁親王が皇太子に就くことになった。

      ⁂

「名虎は、何故に能雄に負けたのであろうかな」友則は淡い夕暮れの空を眺めた。雨が止み、夜の帳が立ち籠めている。

「君はまだ夢の続きを見たいのか」と貫之が言った。

「そうとも。勝負に勝てば公卿にも大臣にもなれたのだぞ」

「愚かな。あの話は藤原憎しと思う者の作り話に過ぎぬではないか。相撲に負けた者の名が名虎などと、話が出来すぎている」

「そんなことは百も承知だ。しかし悔しくてならぬ。紀家は滅びたも同然だ。このような時に、夢を見ずにはいられようか」

 雲間から夕日が差し込んでいる。友則は貫之が帰った後も遅くまで酒を飲み続けた。

 翌年の春、友則は思いがけなく土佐掾の官職を得た。国守の補佐役で四等官である。大納言時平の恩情だった。

『若造に官職を恵まれようとは・・・」

 桜の老木は青い空に満開の花を広げ、風もないのに花びらが散っている。

 久方の光のどけき春の日に

しづ心なく花の散るらむ