百人一首ものがたり 32番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 32番目のものがたり「壱岐」

山川に 風のかけたる しがらみは ながれもあへぬ もみぢなりけり

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「中納言様、躬恒、忠岑と続きましたので、そろそろ紀貫之様の番でしょうか」と心寂坊が訊くので「心寂坊殿は貫之殿がほんとうにお好きなようですね」というと「貫之様こそ漢詩漢文の世界を払拭して和歌を大成させたお方ですから」とどこまでも素直である。そこで定家は「私もその意見には私も同意ですがしかし、古今集には少し奇妙な点がある事に気づきませんか」

「はて、奇妙な点とは」

「古今集の編纂をお命じになったのは醍醐天皇でした。ところが醍醐天皇の歌はどこにも見あたりません。一首もないのです」

「そう言われれば・・・」

「ところが紀貫之の歌は九十九首もある。古今集は全二十巻、千百首ですから、貫之だけで一割近くを占めている。しかも古今集の魂とも申すべき『かな序』も貫之が書いているのです。この異常さは万葉集と比べれば明白です。第一番は雄略天皇、第二番は舒明天皇、いずれも長歌と反歌からなる壮大な歌です。第一巻に登場する方々は天皇・親王などの方々で、編纂した大伴家持の歌は待てど暮らせど出てこない。古今集とは大違いです。この相違はどこに由来するのでしょうか」

「・・・」

「私は次のように考えています。すなわち、万葉集が編纂された時代はまだ日本が薄明の時にあって天皇の独裁的権力を抜きにしては何事もできなかった。万葉集は勅撰集ではなく、大伴家持の私家集ですから、思うように編集すればできたのでは無いかと思うかもしれませんが、古代においてはそうした事は思いも寄らないことだったのです。これに対して古今集の時代になると文芸は権力からずいぶんと独立する立場をとることができるようになりました。才能ある者はどこまでもその才を伸ばす自由を与えられ、天皇はそれらの才能ある者たちを大切にして束縛せず、むしろその者たちから学ぼうとしました。こう時代だったからこそ、勅命を発した天皇の歌が一首も選ばれず、微官に過ぎぬ貫之が、自身の歌を九十九首載せている事が許されたのです。しかし勅撰集はすべてこのように選ばれたのかといえばそうではありません。新古今和歌集をごらんいただければその違いがわかります。新古今和歌集の編纂を命じたのは後鳥羽院ですが、私たち選者が何千という和歌を集めて作業に入ろうとしますと、院は数ヶ月かけてご自身で目を通されました。私たち六人は院が選ばれたものをより分け編集する作業に入りましたが、この間にも院はしばしば口を挟まれました。こうして撰集された和歌総数は一九七九首、このうち後鳥羽院ご自身の作は三〇首です。しかし後鳥羽院はこれに満足せず、隠岐の島にながされた後も切継ぎを続け、十八年後、「隠岐本」を造り、これこそが真実の新古今和歌集であるとの詔を発しました」

「・・・配流された院が詔を発するとは、いかなる意味がございますのでしょうか」

「・・・そのことにつきましては論じないことにしております。それはともかく、こうした事からしても、貫之の時代がどれほど自由で豊かな時を過ごせたかにつきましては、よくお分かりでしょう。ですから貫之は歴史上たぐいまれな時期に生まれ合わせるという幸運に恵まれたのです」

「・・・まことに中納言様のお言葉通りでござりますが、百人一首を撰集するとなると、貫之様の歌の中からも一首だけしか選ぶことができないということになります。貫行き様の和歌は確か勅撰集に選ばれた歌だけでも五百首にもなるのですからこの中からたった一首となると中納言さまもお迷いになるのではないでしょうか」

「確かに四百七十五首の中から選ぶと成れば事ですが・・・しかし私は、まだ貫之殿を登場させるつもりはありません」

「それはまた、何故でござりますか」

「一工夫が必要ではないかと思っているのです。たとえばどれほど高い山であっても、周りに同じように高い山々が連なっていては、目移りして、その山を鑑賞することは困難です。しかし野の中にすっくと立っている山であれば誰にもその優れた姿が目にも留まります。また、山裾に広がる野の美しさも人の心を打つでしょう。つまり、紀貫之という優れた歌人を登場させるためには、これと好対照の、何の変哲もない野原の景色も必要だということです」

「野の景色とは・・・さて・・何のことでしょうか」

「すでに申し上げたことですが、古今集には詠み人知らずの歌が沢山みられます。たとえば十六番は読人しらず。

 野辺ちかく家居しせれば鶯の

なくなるこゑは朝な朝なきく 

 続く十七、十八、十九、二十も詠み人知らずが続いた後に、二十一番の光孝天皇の、

きみがため春の野にいでて若菜つむ

わが衣手に雪は降りつゝ 

となります。

 即ち詠み人知らずの歌は、美しい野原のようなものなのです。無論、詠み人知らずの歌はできが悪いというのではありません。また無名の人間を貶めるわけでもない。歌は全ての人々に宿るものであり、歌こそがあらゆる者にくまなく喜びと楽しみを与えてくれるものです。しかし、詠み人知らずの歌は、歌そのものが優れていても、その歌人がどのような人生を送ったのか、どのような時に詠ったものなのか、その詳しいことが分かりません。これに比べて、世にそのなが顕れている方々は、それぞれの人生が見えるだけに、歌そのものの意味合いが異なってきます。歌と人生は一体のものですから、歌人の人生が分かれば分かるほど、その歌の重み、味わいの深さを感じるものです。詠み人知らずの場合は、人生が知られないだけに、歌を純粋に味わうことができますが、あれこれと分かっている人の物とは存在の重みが違うのです」

「・・・・・・」

「たとえば、第一番、秋の田の歌が、天智天皇ではなく、詠み人知らずとなっていたとしたらどうでしょうか。後世の者は、この歌は農夫が歌ったのであろうかと思うかも知れません。秋の刈り入れが済んだ後に、恋人と苫屋で逢瀬を重ねているうちに露に濡れたのではと解釈することもできます。しかし、天智天皇が内政外交の大困難に直面していた時にお詠いになられたとなると、意味合いが全く異なることになるのです。

 このように、歌だけが示されている場合と歌人の名が知れている時とでは意味合いが全く異なってくるのです」

「・・・しかし、それでは詠み人知らずの歌がこれほど多く残されているのはいかがなわけなのでしょうか」

「そこが我が国の勅撰集の実に意味深長なところです。大陸の漢詩には詠み人知らずの作品はほとんどありません。大陸にあっては、詩を詠める者は限られた階級の人々ですし、またそれだけの格調が要求されます。漢詩を作るには多くの決まり事がありますから、心の内面や外界の景色を自在に詠うことは余程の教養を積んだ者でなければ出来るものではありません。心に思うまま漢字を並べるだけでは無教養な愚か者と嘲笑されるのが落ちなのです。しかし我が国の歌はそうではありません。形式といえば三十一文字だけですから誰でも歌うことができる。「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」そのままなのです」

「・・・なるほど」

「名がある方の歌はそれなりに味わうことが出来ます。しかし、名がない者の歌は、歌そのものを純粋に玩味することができるのですから詠み人知らずの歌が勅撰集に数多く収録されているということは、そうしたことこそが人間にとってとても重要なことであるということを意味しておりますし、だからこそ、意図的に詠み人知らずの歌を選んでいるのです。名のある人と名のない人の歌が織りなす景色が歌集の面白さなのです」

「・・・」

「ですから、百人一首にも、先日お話しましたように、詠み人知らずの歌がなければなりません。そこで、紀貫之殿の前に、詠み人知らずを入れることにしたのです」

「・・・どのような歌を・・・」

「春道列樹という方の歌です」

「確か古今集に見た記憶はありますが・・・一向に存じません」

「私も知らないのです」

「まさか、定家様がご存じない歌人などありましょうか」

「いや、事実、知らないのです。春道という名は珍しい姓ですからあれこれと調べてみたのですが、どうもこの名は古代の物部氏の末裔であるらしい。三代実録を見ると、貞観六年五月に、右京の人、因幡権掾(いなばのごんのじょう)正六位上の物部門起(もののべのかどおき)という人に、春道宿禰という姓を与えたと記されていますが、宿禰という名は、古代の朝廷で用いられた姓(かばね)のひとつで、重臣に与えられたものです。その最も良い例が武内宿禰でしょう。そもそも宿禰というのは八色姓(やくさのかばね)の第三に当たるもので、連(むらじ)の姓を持っていた朝廷豪族中の有力な諸氏に与えられたものです。ですから、春道一族は昔、物部の姓を名乗っていたが、後になって春道と名を変えたものと思われます」

「それは、何故に」

「物部は古代には大きな豪族でしたが、後の世になっては知る人もなくなったでしょうし、あったとしても、滅ぼされた氏族なのですから忌まわしい昔を忘れたかったのかも知れません」

「しかし・・・中納言様は貫之様の前に詠み人知らずの歌を置くと申されました。しかし春道列樹であるとするなら、詠み人知らずということにはならないのではありませんか」

「そうではありません。確かに春道列樹という名こそありますが、名はあっても、ないと同然なのです。なぜなら、この方がどこに住んでいたのか、どのような生涯を送ったのか僅かなことしか分かりません。延喜十年に文章生に補せられ、太宰府の大典に任じられて、その後に壱岐守となりましたが、赴任する時に突然亡くなった・・・それぐらしか分からないのです。ですから、名はあっても、詠み人知らずと同様なのです」

「・・・まさしく、そうお聞きすればその通りです」  心寂坊がようやく納得したので、定家は物語を読み始めた。

第32番目のものがたり 「壱岐」 )

 人妻を恋い慕って密かに逢っていたが、不意に壱岐守に任じられて赴任することになった。遣唐使も廃絶し、新羅の海賊が荒れ回っている玄海の小島に追いやられるとは、あの方の夫が手を回して私を島流しにしてしまおうとしたのだろうか。あまりの出来事にどうしてよいやらわからず、それでもひと目だけでも逢いたいと忍んでゆくと、女はさめざめと泣いて、

「あなた様がどこへおいでになられようと、私は何年でもお帰りをお待ちしております」という。けれども私は海の果ての小島に流されてゆくのだし、あなたは都に夫と共に暮らしているのだから、やがては忘れてしまうのでしょう、と男が頼りなげにそう思うと、女は髪に刺していた櫛をとって、

「これを二つに割ってください」と差し出すので、男は手の中で二つに割った。

「ではあなたさまの櫛も割ってください」

 女が言うので、男は袖の中から櫛を取り出し二つに割って枕に載せた。女は半分に割れた自分の櫛と、男が今まで頭に刺していた櫛の片割れを会わせて、胸に抱きしめるとさめざめと泣いた。

「この二組の櫛があるかぎり、私たちはいつもいっしょです。どうか決して私をお忘れになりませぬように」女が言うので、男は涙を流して、「このようにお互いに形見を交わしていれば見るたびに思い出すこともあるだろうけれど、私はあなたを都に残して自分一人で壱岐という見も知らぬ遠い島に行くのが不安でなりません。また再びお会いすることができるのでしょうか」

 これを聞くと女は男を見つめて、

「あなた様と私の櫛をそれぞれに半分に折って誓いを交わしましたけれど、私とてお互いに離ればなれになる苦しさに耐えられるだろうかと思うと生きた心地もいたしません。風が吹くと、海を渡るあなた様の船がご無事に壱岐の島に着くだろかと思い、雨が降ると船が難破せぬかと胸が痛むでしょう。でも私の頼りになるのはこの櫛ばかり。この形見を見ても心が慰まないほどの辛さがあるとしたら、私はどのようにして堪え忍べばよいのでしょうか」と言って歌を詠んだ。

 逢ふまでのかたみも我はなにせむに

見ても心の慰まなくに

 男は引き裂かれるような辛い思いをして都を離れ壱岐へと旅立った。秋の盛りで、備中の山中に差し掛かかると、山々は谷も嶺もいちめんの紅葉に彩られ、風が吹くと色とりどりの葉が小鳥のように群れをなして空に舞い上がった。一行は紅葉の道を踏み分けてどこまでも進んでいった。ところが備後の国に差し掛かる頃、男は突然熱病に冒され倒れた。供の者たちが街道の宿を探し薬師を呼んだが熱は一向に下がらない。これはと危ぶんでいると、男の容態はますます悪化して、明日をも知れぬ身となった。供の者や家司たちは、

「このままでは命が危ない。都に戻って養生できるように取りはからうべきではないか」

「いや、都に連れ戻すことなどできるものではない。せめてあのお方においで願い、最後のひと目でもお会いしていただけるようには出来ぬであろうか」

 あれこれと相談していたが、何しろ備後の国の山中なので、どうにもならない。付き人たちは途方にくれておろおろするばかりだった。

 男は熱に浮かされながら夢を見ていた。真っ白い浜辺が続いている。青い海がざわざわと波打つ。ここはもう壱岐の島だろうか。それとも常世の国の島なのだろうか。汀をあてもなく歩いてゆくと、遠い渚に誰がしゃがみ込んでいる。近寄って見ると、何と、それは、片時も忘れることのないあの方ではないか。

 女は汀に膝をついて貝殻を拾い、その貝殻に女の櫛と男の櫛の歯を一本ずつ欠いて、髪の毛でしっかりとしばって貝の中に乗せ、それをもう一枚の貝殻で蓋をして、藁しべでしばると波間に流している。一つの貝を流すと、またもう一枚の貝を拾って、舟のようにして貝を流す。流しながら女は歌を歌っている。

 大和へに風吹き上げて雲放れ

退き居りともよ吾を忘らすな

(あなたが住んでおいでの日本の国のあたりにはいつも風が吹き上げて、遠い常世の国から私の想いを乗せてあなたに吹き送っている雲はばらばらに乱れて消えてしまいます。ですから私は二人の櫛を結んで名がして、離れないようにしているのです。ああどうか、私の思いがとどかなくても、私のことを決してお忘れにならないで下さいね)

「なんと、常世の国とは、あなたは、常世の国にいるのですか。」

「はい、私はあなた様がおでかけになられてから、何も食べられず、床に伏しているうちに、死んで、常世に参りました。」

 これを聞いて男はあまりの事に打ちのめされて言葉を失い、ただ涙を流していたが、ようやく気を取り直して、

 子らに恋ひ壱岐の渚に吾居れば

 常世の浜の波の音きこゆ

(あなたさまを恋い慕って今日こそは今日こそはと、ただひたすらお会いできることを祈りながら過ごしているうちにこの壱岐の浜辺に来てしまいましたが、この渚には常世の波が打ち寄せているようです。この音を聞いていると、あなた様が私を呼んでいるのがはっきりと聞こえます)

 女はこれを聞くとうれしそうに微笑んだ。そして着物が濡れるのもかまわずあちらこちらと探し回って、大きな貝殻を見つけると、その中に歯の欠けた自分の櫛と男の櫛を髪の毛でしっかりとしばり、蓋をして、波間に浮かべた。小さな舟のような貝殻は青い波間に漂っていたが、やがて波が音もなく砕けると、もう女の姿はどこにも見えなかった。真っ白な渚をどこまで走っているうちに、男は不目を覚ました。

「ここはどこなのですか」と彼は周りの者に尋ねた。

「備後の国の山中でございます」

「何と、備後、壱岐の島ではないのですか」

「はい、壱岐の島など、遙か遠く、このお身体ではとても先には参れませぬ。都に使いを出して、戻る手筈を整えているところでございます」

「何を言う、私は壱岐に行かねばならないのです」

 男は周りの者が制止するのを振り払って立ち上がった。けれどもすぐに倒れてしまった。身体が火のように熱い。「壱岐の渚で、あの方と共に海の水を浴びたらどれほど気持ちがよかろうか」男はそう呟いた。

 男は近くの家に担ぎ込まれた。そしてまた夢を見た。ひっそりと静かな山を上ってゆくと、紅葉がさらさらと降ってくる。足音が落ち葉を降らせている。男はあえぎながら山道を上った。目の前に誰かが歩いている足音がした。男が歩みを止めると、その足音も止まる。歩きはじめると足音も再び歩き出す。

「あなたなのですね」男は紅葉の山を歩きながら囁いた。

「ええ」

「私はあなたが壱岐の浜辺においでになると聞きましたのでどうしてもお会いしたいと山を越えてここまで来たのですが、なかなかはかどらなくてようやくここまでたどりついたのです。それがあなた様はいつの間に私と共に山道を歩いている。ああ、あなた様は、私を追って来てくれたのですね」

「どうしてもお会いしたくて・・・」

 女はいつの間に男と並んでひっそりと歩いている。遠い山で鳥が鳴き交わしている。紅葉はさらさらと降ってくる。大きな岩の間を通り過ぎると、渓流があった。美しい流れにいくつもの落ち葉の舟が流れている。

 男は懐から割れた二つの櫛を取りだし、紅葉の舟を作ってその中に寝かせて、歌を詠んだ。

 山川に風のかけたるしがらみは

流れもあへぬ紅葉なりけり

「あなたと私とは、この世ではさまざまなしがらみに遮られて逢うこともできなかった。でも、紅葉のしがらみの下には、きれいな水が流れている。私たちの想いを乗せた舟は、この水にのってどこまでも流れてゆくのでしょう」

 二人は二つの櫛を乗せた紅葉の舟を渓流に流して、山の中を密やかに歩いて行った。  列樹が亡くなったのはそれから間もなくのことである。彼は壱岐にも行き着かぬ間に死んだので、都の人々はあまりにも若い秀才の死をいつまでも惜しんだのだった。