百人一首ものがたり 30番 壬生忠岑 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 30番目のものがたり「鐘の音」

有明のつれなく見えし別れより 暁ばかりうきものはなし

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

 数日の間歯と肩の痛みに悩まされ腹の具合までが悪くなったので、家司の忠弘に言いつけて心寂坊に来て貰うと、さっそく薬を調合して飲ませてくれた。

「この薬はどのようなものですか」

竜胆(りゅうたん)と申すものにございます」

「竜の胆とは、大した薬名でござりますな」

「まさしく本物の竜の胆であったなら万金を積んでも手に入れることは出来ませんが、実はりんどうの根なのです」

「リンドウがこれほどに効くとは」

「中納言様に差し上げましたのは、りんどうの根に葵の根と伊吹産の芹を混ぜてお作りいたしました」

「なるほど・・・兎も角も有り難い限り。お礼に先日高尾山の明恵上人から頂いた茶の葉をご馳走いたしましょう」

 定家がそう述べて茶を進めると、心寂房は二口ほど呑んだがふと「先日のお聞かせいただきました凡河内躬恒の『白菊』は格別におもしろうございましたので、あれからというもの、その次のお方は誰なのだろうと気になりまして、夜も眠れぬほどでございます」

「それなら、次は誰と思われましたか」

「躬恒様は古今編者の一人でござりますから、次ぎは紀貫之殿。あるいは紀友則か壬生忠岑、このお三方に違いないと存じます」

「如何にも・・・その内の誰と?」

「私は壬生忠岑ではないかと思っております。『大和物語』で読んだ折り感嘆した憶えがございますので」

「なるほど、ご推察の通りです。しかし大和物語の中の話はあまりに短か過ぎると思いませんか」

「そういえばそのようにも思えますが」 「そうでしょうとも。そこで私はあの話に尾ヒレをつけて作ってみたのです」とこう言って、聞かせてくれたのだった。

第30番目のものがたり 「鐘の音」 )

 壬生忠岑は衛府の武官として右大将定國に仕えていたが主人の定國は大層な酒豪として知られていた。ある日定國は邸で酒宴を催し大いに飲んで良い機嫌になって、『忠岑、ついてまいれ』と命じてあちらこちらと酔い覚ましに歩いているうちに左大臣時平の邸の前に出た。忠岑は、

「もう夜が更けておりますのでお訪ねするのは如何かと存じますが」と忠告したが、忠國は酔った勢いでどんどん入って行く。左大臣家の者は右大将の突然の来訪に驚いて時平公に告げると、時平は怒って『酔って遊びついでに参るとは、許せぬ』と叱責したので定國はいっぺんに醒めてしまった。この時忠岑は定國の後ろに畏まっていたが、主人の窮地を悟ると次のように詠った。

 かささぎの渡せる橋の霜の上を

夜半に踏み分け殊更にこそ

〈左大臣様を右大将様がお訪ねいたしましたのは決して遊びついでではござりません。空高く、天の川の彼方においでになられる左大臣様をお訪ねするのにはかささぎが天の川に霜の橋を掛けてからでないと上ることができません。そこで夜半まで待っておりましたらようやく橋が架かりましたので、霜を踏み分けてこうして参った次第でございます〉

 これを聞くと左大臣時平は「何とも心憎い奴である」と機嫌を直して右大将と忠岑を屋敷に上げ、宴を催して二人を歓待した。こうして宴がたけなわとなった時、時平は忠岑をみつめていうには、

「そなたは先ほど右大将を助けようと即座に歌を詠った。だがあの和歌は大伴家持の、かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞふけにける を本歌としたものであろうが、家持は藤原種継暗殺の罪で除籍された罪人である。大罪人の歌を左大臣である私の前で詠うとは不届きではないか」と質したので、宴に酔っていた定國は震え上がった。しかし忠岑は少しも慌てず、居住まいをただして、

「大伴家持は確かに罪人でござりましたが、この世に万葉集という書物を遺した功績によってその罪は許されてしかるべきかと存じます。古き世にも死罪を歌によって免れました例もござりますので」

「そなたが申すのは、雄略天皇に三重の采女が盃を捧げたとき、百枝槻の木の葉が落ちて盃の酒の中に浮かんだが、それと気づかずに采女(うねめ)が盃を奉った。天皇は怒って采女を太刀で斬り殺そうとした。その時采女が見事な歌を詠んだので、天皇は采女に多くの褒美を取らせたという話であろう」

「・・・はい」

「お前の申す通り、采女は確かに死罪を免れるだけの才知はあった。後世に残るほどの長歌を即興で歌ったのだからな。それほど優れた者を罰することは出来まい」

「・・・」

「そこでそなたに申しつけたき事がある。朝廷から除籍され、その骨を流罪にされた家持の歌を誉めるからには、そなたは家持という者の事をよくよく知っているのであろう。故に、家持が死んだ後どのようになったのかも存じておろう。ここでその事につき詳らかに話して聞かせよ」

 左大臣時平がこのように命じると右大将忠國はいよいよ恐れて顔面蒼白になった。もしも忠岑がしくじれば自分は右大将の地位を追われるであろう。あるいは太宰府へ左遷されるかも知れぬ、そう思うと全身から冷や汗が吹き出して息が詰まるような気がした。ところが当の忠岑は少しも臆せず、次のような話を物語って聞かせたのである。

「左大臣様のご命令でござりますので、お話申し上げさせていただきます。

 家持はかの万葉集にも見えます通りさまざまな女と語り合い、殊に紀郎女とは合い想う中でございましたが、家持を恋しく思う女はこの世のものばかりではござりませんでした。あの世、すなわち地獄の女の中にも家持を恋する者があったのでござります。その女と申しますのは、地獄で罪人を見張る番人の娘でござりました。娘は家持が死んで自分の元に堕ちてくるのを今か今かと待ち焦がれておりました。ですからその思いがかなって家持が地獄に堕ちて閻魔大王の前に引き立てられてくる姿を見ると驚喜いたしました。いよいよ大王が家持を八大地獄送りの判決を下そうとした時、女は閻魔庁に集う鬼達の前に進み出て次のように申したのでございます。

「閻魔大王様に申し上げます。この男は確かに罪深い男でございますが、ただひとつ良いことを致しました。それは和歌を詠んだ事でございます。それゆえに、その功績に免じ、この者の口だけは助けていただきたく存じます」

 大王はこれを聞いて愉快そうに笑いました。というのも、大王は娘が以前から家持に想いを寄せていたことを知っていたからなのです。そこで大王は「男の罪は許しがたいが、お前に免じてこの口だけは助けることにしよう。この者の口を取り除け」

 大王の声が閻魔庁に響き渡りますと、鬼たちは家持を押さえつけて顔から口だけを引き裂こうといたしました。これを見て娘が言いました。

「大王様に尋ねいたします。あらゆる罪人に裁きを下される大王様のお口は、ただ口だけがあるのでしょうか。それとも口を支える顔や首が必要なのでございましょうか」

 娘の必死の形相を見て大王はにやりとして、

「閻魔庁の大王であるわしの口がいかに大きく赤かろうと、顔と頭がなければ口だけで存在することは叶うまい」

「では、この罪人の顔と頭も残してくださいますようお願い申し上げます」

「よろしい。首から上は助けることにしよう。だが、お前がどれほど巧みこの者の助命を願おうと、それより先を聞くわけには行かぬ。この者は天皇の側近を暗殺し、長岡京建設計画を頓挫させた張本人である。それ故、首だけはお前にやるが、残された胴体と四肢は八大地獄送りだ。異存はあるまいな」

「首だけあれば結構でございます」

 これを聞いて鬼どもは大きな包丁で家持の首をすっぱりと切り落としたので、娘は家持の首を胸に抱きしめて洞窟に走り帰ると片時も離さず時を過ごしました。横になる時は己の顔と並べ、起きると腕に抱いてあちらこちらの地獄廻りをするのでした。けれども娘は次第に満足できなくなってまいりました。と申しますのも、首だけになった家持は固く口を閉ざしたまま何も語ろうとせず、詠うこともなかったからでございます。

 ある日娘は首に向かってこう申しました。

「あなたは私が八大地獄から救ってやったのにただの一度も歌を詠ってくれません。なぜ詠ってくれないのですか」

 家持の首は娘に言いました。

「私はあなたに恩義を感じていますが愛してはおりません。私は、どんな時でも愛してくれるもののためだけにしか詠うことができないのです」

「あなたが私を愛せないのは、私が醜いからですか」

「いいえ、愛は美醜とは無縁です」

「それなら私を愛して下さい。何故といって、私より他にあなたを愛しているものは最早どこにもいないのですから」

「おりますとも。あの方は今も私を愛しています」

「あの方とは・・・紀郎女の事ですか」

「そのお方です」

「あなたが生きている時、二人が恋仲にあった事は承知しています。しかし死んでから長い年月が経っているのですよ。それなのにあの女がまだ忘れずにいるとでも思っているのですか」

「あの方は片時も忘れずに想っていてくれるでしょう」

「何と愚かな。誰があなたのことなど覚えているものですか」

「なぜそのように思うのですか」

「何故って、人間の心ほど弱いものはないからです。凡そ四大の中で、人間ほどか弱い生き物はありません。人間はどれほど互いに想い合っていても、相手が死ぬと一月もしないうちに別の者と恋仲になるのです。ましてあなたは国家の柱石を殺しました。そんな謀反人は思い出すのも忌々しいしい事でしょう」

「いいえ、彼女は他の者とは違います」

「あなたは馬鹿です。あなたを想っているのは私だけです」

「いいえ、あの方はきっと想っています」

「そこまで云うのなら、こうしましょう。もしもあの女があなたを忘れたということがはっきりしたら、あなたは私を愛する、そう約束してくれますか」

「・・・その時は、あなたの意のままになりましょう。しかしそのようにはならないでしょう」

「どうしてそんな事を言えるのですか」

「私はこの瓦に私の歌を書き付けましょう。そしてこれを届けてくれれば、あの方は返歌を下さいますが、その返歌はきっとこのような歌でしょう。この二つの歌が私たちの変わらぬ絆の証しです」

「では、これと違う歌を詠んだときには?」

「その時はあの方が心変わりしたとあきらめます」

「それを聞いて決心がつきました。私はこれから女の気持ちを確かめに参ります。少しの間待っていて下さい」

 地獄の番人の娘はこう言い残すと閻魔大王の元に走って、事の次第を説明申し上げました。大王は「面白い」と肯いて、「女がそれほどにあの男を思っているのなら、男が堕ちた地獄の鐘の音でも聞き逃すまいとするであろう。鐘を鳴らせ」と鬼に命じました。鬼は大撞木を抱え上げると釣り鐘を三度叩きました。

「地獄の鐘の音ほどよい音はない。血の池の釜が沸き立っておる。さあ、行け。行って顛末を確かめてまいれ」と命じました。

 娘は地獄を出ると紀郎女の隣人に化けて、こう尋ねました。

「先ほどどこからか妙な音が聞こえましたが、もしやあなた様も気付かれたでしょうか」

「確かに聞こえました」と郎女は答えました。「私は亡くなったお方のために写経をしておりましたが、どこからか三度鐘の音が聞こえてまいりました。それも、ただの鐘の音ではありません。まるであの方が『私を助けてください』と叫んでいるように聞こえたのです。それで胸騒ぎがしてならないのですが、もしやあなたさまは何かご存知なのではありませんか」

 地獄の娘は少し驚いて「あなたがそれほどに慕っているとは思いも寄りませんでした。実は歌をお預かりしています」

 

 見ると、焼けた瓦に歌が記されておりました。

 有明のつれなく見えし別れより

あかつきばかり憂きものはなし

(有明になると寺が鐘を鳴らします。その鐘の音が聞こえてくると私はあなたと別れて帰らなければなりません。その辛さが身に染みているので、有明は辛く憂いものなのです)

「ああ、あの方は私を忘れずに想ってくださっておいでです。すぐに返歌を書きますので、届けて下さい」

 女は筆をとって歌を書き付けました。

 恋ひわぶと聞きにだけ聞け鐘の音に

うち忘らるる時の間ぞなき

(あなたはこの世の人でなくなってしまったのですか。それともどこかに生きておいでになってどこかであの鐘の音をお聞きになったのでしょうか。私はさきほどの鐘の音を聞いてあなたがいっそう恋しくなって、心を慰めることができずにわびしい気持ちになってしまいます。私は今もあなたを片時も忘れることなく恋い慕っております)

 女が書き終えた時、地獄の娘の姿はもう見えませんでした。そして家持と紀郎女の二人がその後どうなったのか、分からぬままになってしまったのです」

 忠岑が語り終えると、その場の者はみな怪訝な面持ちで、『それで終わりなのか』と言いたげに忠岑を見つめた。

 時平はしばらく瞑目していたが、やがて忠岑を見て、

「一つだけそなたに聞きたい」

「何なりと」

「話の中の郎女と最後に詠み交わした歌は、家持のものではあるまい。万葉の頃の和歌にしてはあまりにも今めいている。おそらくあの歌はそなたの和歌を紛れ込ませたのであろう。しかし二首目はいまだ聞いたことのない調べである。あれは誰の歌なのか」そう申されたので、忠岑は、

「ご指摘の通り、一首目の有明の歌は私の歌に相違ありません。しかし二首目はまだこの世にあらざらん者の歌にて、地獄にも今の世にも見ることのできぬ和歌にござります」とこのように申しあげたので、時平は、 「そなたほどの語り手は世に二人と居ろうか」と大いに褒め、明け方まで酒盛りをしてもてなしてくれたのである。