百人一首ものがたり 29番 凡河内躬恒 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 29番目のものがたり「白菊」

心あてに折らばや折らむ初霜の 置きまどはせる白菊の花

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「中納言様はあたかも昔の歌人の方々とお会いになったかのようにお話しなさいますが、実際に夢の中でお会いするようなことがあるのでござりましょうか」と心寂坊が訊ねるので、

「それは無論、夢の中、(うつつ)と限らずいつでも会いしています。実は昨夜も躬恒殿とお会いましたよ・・・躬恒殿は白雲のような大袿(おおうちき)を肩に掛けて得意げに私を見下ろしているのです。もともと躬恒殿は天津彦根の尊に連なる一族とは聞き及んでおりましたが神代のことはいざしらず、今の世になってからの凡河内家は地方の国造に過ぎず、躬恒自身は御厨子所に仕えていたのですから卑官の身分です。ところが目の前の躬恒殿は夜目にも鮮やかな大袿をまとっているので『もしや醍醐天皇から拝領された衣ではありますまいか』と訊ねると、何も答えずに通り過ぎようとしますので私は押しとどめて、

 色見えで春にうつろふ心かな

闇はあやなき梅のにほひに 

と詠いました。これを耳にすると躬恒殿は私を見つめて、

『それは私の、

春の夜の闇はあやなし梅の花

色こそみえね香やはかくるる 

この歌をを本歌にしたのでしょうが、いかにも妙な歌ですね』と言うので、

『どこがお気に召しませんか』

『あなたの歌はわけがわかりません』

『お分かりにならないとは?』

『私の歌は宵闇に咲く梅の花の香りを頼りにそぞろ楽しむ喜びを素直に詠っております。ところがあなたは〈色も見えず、心もうつろい、闇も無意味な無明である〉と述べている。これでは何のことか少しも分かりません』と言い捨てて、私を残して行ってしまったのです」

「躬恒様が中納言様の歌をそのように(そし)るとは・・・」 「なんとも口惜しい事ですがともかくも躬恒殿は難物ですよ」とそう言いながら巻物を広げて読み始めた。

第29番目のものがたり 「白菊」 )

 秋になったというのに新しい衣裳をそろえてやることもできなかったので、躬恒の足は自ずと女の家から足が遠のいてしまった。来年の除目(じもく)にはおろか、十年経ったとて殿上人になれる見込みは少しもない。定まった実入りもないのだから恋しい女に衣装を揃えてやるどころか、己の口に糊することさえままならぬ。このままではどうして生きて行けばよいのか、躬恒は思案に暮れる日々を送っていた。ところがある日思いがけなくも御殿からお召しを受けた。堤中納言(つつみちゆうなごん)様からの文によれば醍醐天皇が躬恒の和歌にご興味をお持ちになられて御殿にお召しになられたという。

 天にも昇る気持ちで清涼殿の(きざはし)の下にかしこまっていると、夕暮れ時になって蔵人や女房たちが回廊に集まって忙しく行き来し、管弦の用意が整えられた。舞姫たちは綺麗殿からお庭先の舞台に上って舞い始めた。ちょうど中秋の月が東山に上ってきたので、月の光を浴びて舞う乙女の姿は天女かと見まがうばかりの美しさだった。呆然と見とれていると、公卿たちが立派な直衣をまとって清涼殿に立ち現れ、あたりが静まりかえる中、醍醐の帝が御簾の内に御着座された。管弦が鳴り響き、月夜の空に雅な音が響き渡った。

 帝は大納言定国様をお呼びになって何事かお命じになられた。大納言は回廊の階に降りて来ると、躬恒を身近に呼んで帝のお言葉をお伝えになられた。

「月を弓張りというは、なにのこころぞ。そのよしつかまつれ(夜空の月を和歌の世界では弓張りと呼んでいるが、それはどのような心によっているものか、その由来を明らかにして申し上げよ)」

 躬恒はこれを聞くやひざまずいて、

照る月を弓張りとしもいふことは

山辺をさしていればなりけり

(照る月を弓張りと申しますのは、山の端あたりを目印にして矢を射るようにして入るからなのでございます。月は天の光を集めて矢に託し、矢は白銀の光となって地上の山々を照らします。その故、月の矢で射られると、山々はまばゆいばかりに輝くのでございます)とお答え申し上げた。

 帝は大いにお喜びになられ、褒美にとて、夜目にも白い大袿(おおうちき)を下し賜わった。躬恒は喜びの余り大袿を肩に掛けて月の光をあびながらめぐり巡って詠った。

 白雲のこのかたにしもおりゐるは

天津風こそ吹きてきつらし

(うつくしい白雲のような大袿が私の肩に降りてまいりましたのは、天つ風の如き御心がこの世に吹いてきたからでござりましょう)

 躬恒は大いに面目をほどこし、御殿を退出する時さまざまなご褒美を賜った。躬恒はうれしさのあまり女に品々を見せて、

『今度こそ官位を得られるかも知れませぬ。今日は醍醐天皇がお褒め下さり、先日は上皇があのようにお喜びになられたのですからきっと良い事が起こりそうな気がするのです』。

 先日の出来事とは次のような事だった。躬恒はかねてより自らの和歌の力を御所の方々に認めていただきたいと願っていたが、堤中納言(つつみちゆうなごん)兼輔は『それほどまでに思い詰めているのなら願いを叶えてやらねば』と、宇田上皇が御殿のお庭を散策する時刻に躬恒がつつじの陰に隠れているように取りはからった。躬恒が忍んでお待ちしていると、夕暮れ時になつて亭子院(ていじいん)(宇多上皇)がお出ましになられたので、躬恒はつつじの陰からいざり出て和歌を詠った。その和歌というのは、

立ち寄らむ木のもともなき蔦の身は

常葉(とこは)ながらに秋ぞかなしき

(蔦は立木に取りすがって弦をのばしますが、私には頼りにすべき寄辺もありません。蔦は季節が来れば紅葉して五位の殿上人とおなじ緋色に衣を替えますが、私は季節に関わりなく、六位の者が着る常緑の衣を纏っていなければならないのです。このような身にありますので、蔦が紅葉する秋になるといっそうわが身が悲しく思われるのです)

 亭子院(ていじいん)は面白く思われ、醍醐天皇の御殿を訪れて躬恒の歌のお話をなさったので、朝廷中で評判となった。

「天皇と上皇のお二人が私をこれほどに評価下さっておられるのですから、これまでのように惨めな思いをせずともすみましょう」と躬恒が大袿を広げて見せると女は、「あなた様がこの国でもっとも優れた歌人であることは間違いありませんが、和歌に優れた方々が官吏として重用されたという話を聞いた事はありません。人麻呂や赤人などの方々も卑官に過ぎませんでしたし、業平様とて高子さまの贔屓がなければ蔵人頭などにはなれなかったと存じます」などと言うので躬恒は気色ばんで、

「もしも業平様が和歌に優れていなかったら高子様に目をかけられる事は無かったでしょう。私とて宇多上皇と醍醐天皇のお二人の帝がお認め下さったのですから、どうして夢が叶わぬことがありましょうか」

「そうであれば良いのですが」

「あなたは、私という人間をお分かりではない・・・あなたが歌人や和歌を心の底で軽んじておいでなのは、あなたの父が漢詩文に優れ、文章(もんじょう)博士(はかせ)・三善清行殿が叔父であるという事も関係しているのでしょう。それでなくても今の世の人々は、官職を得るためには漢詩漢文に優れていなければならないと思いこんでおります。しかしそうした考えは誤りです。和歌に優れた者こそ最も高い評価が得られるときがやがてまいりましょう」とむきになって述べると女は、

「私は漢詩が和歌より優れているのか、そうでないのかなどという事はどうでも良いのです。それよりあなた様が官職を得られず、築地も崩れたままになっているのを見るのは何より悲しい思いです」と言うので躬恒は、

「私も自分の邸の築地が崩れて野犬の通り道になっているのを見過さねばならぬのは辛いものです。しかし私の夢が叶えられる時はそう遠くありません。これをご覧下さい」

 躬恒は半紙に一つの漢詩を書き付けた。

 (わかち)()たりて年事晩(ねんじおそ)し 刀気夜風威(とうきよるのかぜはげし) (ねん)ずること得たり 

 (あき)(おもひ)多き(おおき)ことを 心王(しんのう)我が為に非なり

「これを誰の作と思いますか」

「存じませぬ」

文章生(もんじょうせい)であった頃の道真公が創った漢詩です」

「・・・」

「貞観八年秋、応天門が焼けた時に道真公はこの漢詩を詠みました。というのも、応天門の火災は大事件でしたが、犯人は伴大納言の仕業と判明し、伴善雄とその一族が遠流の刑に処せられ、伴氏(大伴)は滅びました。道真公の母君は大伴の血筋を引いておりますから、大伴ほどの名族の滅亡を目の当たりに見て深く物思うところがあったのでしょう。しかし如何に当時の道真公が若かったにせよ、刀気夜風威(夜の風はまるで刀で身を刺すように厳しく激しい)とか、心王我が為に非なり(この世を支配する偉大な力を持つ王は私のためにはよろしくない)などという詩を詠むのはいかがでしょうか。このような漢詩があるからこそ、事ある毎に道真公の怨霊のせいだという風評が立つのです。しかし今、私が言わんとしているのはそうした事ではありません。道真公という人物が時代というものを知るのに最も相応しいお方だからです」

「・・・」

「右大臣様は言うまでもなく漢詩文の天才でした。渤海国の使節は右大臣様の漢詩は白楽天にも優ると感嘆したほどです。ところが太宰府に左遷された後はほとんど漢詩を詠まず、和歌を詠んでおられる。配流される時に宇多上皇にすがる思いで詠んだ歌は、

ながれゆく我は水屑となりはてぬ

君しがらみとなりてとどめよ

 太宰府で絶望し、死を覚悟して詠んだ歌は、

道の辺の朽ち木の柳春くれば

あはれ昔と偲ばれぞする

 道真公ほどのお方でも、最後には漢詩ではなく、和歌に心を託したのです。何故だとお思いですか・・・人間の心を伝えるには、漢詩漢文よりも、和歌のほうがはるかに優れた力を発揮するからです。たった三十一文字で全てを表す事ができる。人の心の精妙な動きから森羅万象天地宇宙までもくまなく伝えることができるのです。ですから神代の時代から帝も臣民も和歌を詠んだのです。万葉集をご存じでしょう。あれは漢字で書かれてはいるものの、漢詩集ではありません。当て字で書かれているのです。つまり漢字で記された和歌集なのです」

「・・・」

「奈良時代以前、我が国では漢詩より和歌のほうが盛んでした。柿本人麻呂、山辺赤人、高橋虫麻呂などが活躍していた時代、漢詩はさして重要とは見なされなかったのです。ところが都が平安京に移ると、和歌と漢詩が逆転しました。桓武、嵯峨の御代には天皇自らが漢詩をお好みになり、空海、小野岑守、滋野貞主などの傑出した人物がもっぱら漢詩漢文を用いたので、和歌の道は半ば忘れられ、勅撰集も全て漢詩集となりました。しかしこうした傾向が強まると、欠点も露わになりました。その最たるものは、漢詩を作るのは極めて難しいという事です。漢詩は漢字で記されていますから、すぐには読めません。よほど才能があり、勉学に励んだ者でも自在に漢詩を作る事は不可能です。それについてはあなたのお父上がしばしば嘆いておられたのでよくお分かりでしょう」

「・・・」

「では、漢詩文の欠点を最も良く知っていたのは誰だったでしょうか・・・他ならぬ、右大臣道真公です。道真公は寛平六年、遣唐大使に任じられながら、我が国と唐との関係を断絶すべきことを建議し、遣唐使派遣を中止いたしました。その理由は唐国が衰亡し、使節派遣は無益となったからに他なりませんが、同時に、漢詩文による文化は、それ自体、欠点を宿していると分かっていたからです。大唐国の滅亡の原因は他でもない、漢詩文にあります。前漢・後漢、その他の帝国も同様です。漢字に依る国家はもともと危ういのです。なぜなら漢字は、国家を脆弱にする元凶だからです」

「漢字が元凶とは?それはどういう意味ですか」

「身近な漢詩文を思いだして下さい。それらの文章を書くのには数千、時には一万ほどの漢字を知らなければなりません。詔勅の下書きをするほどの弁官になるためには数万の漢字を自在に駆使する能力が要求されます。しかもそれぞれに謂われがあり、前例があります。過去の事例名文筆跡全てに通暁していなければ有能な官吏とは見なされません。しかも、楷書だけではなく行書草書にも通じていなければならないのです」

「・・・」

「ご存じの通り、楷書と草書では同じ文字とは言い難いほど異質の形をしています。私は若い頃、この楷書文字がどうしてこの草書と同じ意味の文字なのかとしばしば訝しんだものです。官吏を志す者は困難な漢字を克服し、警句や諺を記憶し、古代から今日まで記された史書や漢詩をことごとく知り尽くしていることを要求されます。我が国の文章生の試験も、大陸の科挙も、こうした知識を身につけていなければ受験資格さえ与えられません。若者は過去の知識を習得するために膨大な時間を費やし、特別な能力のある者も、新たな創造ではなく、過去の糟粕を嘗めることのみを求められるのです。しかも難関を突破できるのはわずか数名に過ぎませんから、落ちた者は絶望し、時には世を恨む者となりましょう。反対に、撰ばれた者は特別な階級となった事を誇り、その特権を維持するために、ますます漢詩文を神秘的な領域に押し込めたがるようになるでしょう。彼らは漢詩文を己の権力を擁護する格別な武器として駆使し、国民とは全く関係のないところで国家を牛耳り、国家体制を傾けてゆくのです」

「・・・」

「こうした事実に、日本人は古くから気付いておりました。吉備真備は阿倍仲麻呂と共に遣唐留学生として十八年間、唐に滞在しました。真備は後に右大臣となった人物ですが留学生の頃から唐の国の学者でさえ驚嘆するほどでした。その天才ぶりは唐の宮廷でも難解で知られる『文選』三十巻を一度聞いただけで記憶してしまったとの伝説が生まれ、唐の官僚は吉備真備が日本国に戻り、国家の中枢となれば日本が強国になって唐を脅かすのではないかと恐れて暗殺しようとしたと伝えられています。それほどの人物でしたから、吉備真備は唐の文化をそのまま日本国に持ち込むことはしませんでした。真備は漢字文明の持つ欠点を補ない、平易にするため、送り仮名や返り点の開発に心血をそそぎました。そうした努力は次の時代にも受け継がれ、新たな工夫が積み重なり、やがていろは四十八文字が造られるに至りました。今、かな文字は『女文字』などと呼ばれて男子は用いてはおりませんが、かな文字こそ、漢字文明を凌駕するために生み出した大和文字(やまともじ)なのです。あなたはそれを用いているのですから、漢字よりはるかに優れているとご承知の筈です」

「かなの便利さは、よく承知しております」

「それはそうでしょうとも。なにより簡単な事が最もすばらしい。漢字なら何千、何万という複雑な組み合わせを知らねばならないのに、かな文字は四十八文字より他にはありません。しかも和歌は、三十一文字で良いのです。頭の固い官僚達は後の世まで漢詩文にすがりつこうとするでしょうが、やがて何もかも変わります。これからの世は、かな文字と和歌の時代になるのです」。

 添い寝して目を覚ますと、曙の光が東の雲に差し始めていた。一面に初霜が降りている。躬恒は庭に降りたって和歌を詠んだ。

 心あてに折らばや折らむ初霜の

置きまどはせる白菊の花

(私は白菊の花を採ろうと思うけれど初霜が降りてどこにあるのか分からない。それはちょうど漢詩に隠れて和歌がよく見えないように、日が当たって霜が溶けなければ見る事はできない。でも私はこの手で霜を分けて大切な白菊を折り取ろう)

   凡河内躬恒が紀貫之、壬生只岑、紀友則らと共に我が国最初の勅撰和歌集である古今和歌集の編纂を命じられたのは延喜五年のことであった。