百人一首ものがたり 26番 貞信公 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 26番目のものがたり「時平」

小倉山峰のもみぢ葉心あらば 今ひとたびのみゆき待たなむ

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

 すっかり秋めいて、小倉山も紅葉の彩りが美しい。定家は心寂坊に灸を据えてもらうとすこぶる肩が軽くなったように感じて、『では、二十六番をお聞かせいたしましょう』と巻物を机に広げて早速に読み始めた。

第26番目のものがたり 「時平」 )

『・・・あの時の喜びと安らぎはどこへ消えてしまったのだろう、私の五十賀はまるで満開の桜の花が都を埋め尽くした時のような華やかさで、醍醐天皇はじめ宮廷の人々がこぞって祝いの言葉を降り注いでくれた・・その花の山に突然雹が降り注ぎ、天地が裂けて、不吉な出来事が果てしなく襲いかかってくる・・・いったい何の罪でこれほど辛い思いをしなければならないのか・・・』 左大臣忠平は議政官たちが待ち受ける陣座への廊下を歩きながら、足がもつれて今にも倒れそうな気持ちに襲われ、息をするのも苦しかった。 豪雨、洪水、嵐、飢饉、そればかりではない・・・台閣(内閣)に連なる公卿たちが次々と死に、皇太子の保明親王が他界、後を継いで皇太子になられた寛明親王までが急逝してしまった・・・人々はこれこそ兄・時平に追放された道真公の恨みだと恐れた・・・その恐れが百万倍も強くなったのは清涼殿に雷が落ちて死者が出た事である・・・今思い出しても膝が震える。 

 あの日、朝廷では雨乞いの儀式について話し合いが行われていた。天地は乾き、何ヶ月も一粒の雨も降らず、田畑が焼けてひび割れてこのままでは未曾有の旱魃となるであろう事は火を見るよりも明らかだった。そこで朝廷では請雨の儀式を執り行なう手筈を相談していたのだ・・・と、それまで晴れ渡っていた空に黒雲がわき上がり、一天にわかにかき曇ったかと見るや、愛宕山が黒雲に包まれた。これを見て公卿たちはこれは良い兆しである。やがて良い雨が降ってくるであろうとみなみな喜んだ。その時である。突然空がまばゆく光り、黒雲を真っ二つに切り裂いて大稲妻が走った。宮中に大閃光が走り、轟音が清涼殿を包み込んだ。大納言清貫の胸に目も眩む雷火が墜ちて即死、内蔵頭平希世は顔を焼かれて卒倒した。右兵衛美努忠包は頭髪が炎となってもだえ死にし、紀陰連は発狂、安曇宗仁は膝を焼かれて転げ回った。

 地獄さながらの恐ろしい光景に皆動転して腰が抜けたようになったが、稲光の中に鬼と化した道真公を見たという者が幾人もあり、鬼の叫び声を聞いたという者まで現れて、これは更に大きな不幸の前兆ではないかと恐れおののいたが、果たして醍醐天皇は道真公の怨霊に怯えて病の床につき、間もなく崩御なされた・・・道真公を太宰府に配流したのは先年急死した兄の時平だが、皇太子や帝のお命まで奪うとは・・・。

 しかし、今は亡くなられた方々の事を嘆いている時ではない・・・問題は、これからどうしたら良いのかということだ。東国では平将門が反乱の兵を挙げて国府を襲い、西海では藤原純友が瀬戸内海の海賊共を率いて千艘もの船で沿岸の国々を襲い手当たり次第に官物私物を略奪している。朝廷はこれを止める手だてがない・・・桓武天皇は正規軍を解体してしまわれたが、不穏の輩はいつの世にもいるものである。時には国家転覆の陰謀を抱く者も出てくるであろう。そうした時に備えて常備軍を置くべきであったのだ。大兵団とは言わずとも、せめて奈良の御代のように、五衛府を置いて藤原午合様のようなお方を左大将として変事に備えていれば、将門軍など数日にして壊滅できたであろうに・・・今更嘆いたとて、今直ちにこれを整えるといことなど出来ようはずもない・・・しかし反乱に手をこまねいていれば早晩都に騒乱が及ぶことは目に見えている。しかし、反乱軍を鎮圧する方策は思いつかぬ・・・私は太政官の最高責任者である左大臣の地位にあるというのに、陣座の公卿たちに示すべき方策が何一つ無いとは・・・ああ・・・このような時、兄の時平殿がいてくれたら・・・忠平は闇を仰いだ。

 兄の時平は国政に明るかっただけでなくその剛胆不敵さは朝廷の誰もが認めるところだった。ある時、清涼殿の夜空に稲妻が走り、今にも雷火が落ちかかろうという気配がして、みなみなこれは道真公の怨霊が台閣の者を焼き殺そうとしているに違いないと震え上がっていると、兄は清涼殿の庭に飛び降りて太刀を抜き放ち、その切っ先を稲妻の方に真っ直ぐに向けて『御身、道真公は、存命中、この国の政を預かる台閣の右大臣として、この私の次席においでになった。今、亡くなられて神となり、雷神となったとしても、私がこの世にある限り、ご遠慮なされて当然であろう。御身がその稲妻の矛を収めぬ限り、この私も太刀をさやには収めませぬぞ』と大音声で叫んだ。公卿たちは、今にも道真公の怒りの雷火が時平を焼き貫くのではないかと肝を潰したが左大臣の威令にさすがの道真公もおそれを為したのか、黒雲はたちまち山の端に姿を消してしまった。

 あれほどの勇気と知恵がこの私にもあったなら現下の困難にも臆せず立ち向かうことができたものを・・・忠平がため息をついて立ちすくんだその時だった。

 不意に「忠平!」と暗がりから声が聞こえた。あたりを見回しても誰もいない。・・・忠平は震える手で刀の柄に手を掛けて、

「これから陣座に罷ろうとするこの私を呼びつける者は何者か」と闇に向かって叫んだ。目の前に朧に赤い火に包まれて烏帽子を被った男が現れた。男は紫色の唇を開いて「忠平!」とまたそう叫んだ。忠平は腰が抜けて気が失せるほど驚いたが、左大臣ともあろう者がここで怨霊に取り殺されてなるものかと気を取り直すと、

「道真公・・・どうかお迷いあるな・・・公の恨みは分からぬではありませぬが、亡き醍醐帝は詔を発して道真公の官位を本官に復し、また、公の追善のために正二位を追贈なされた・・・各地には公を祀る社を建て、欠かさず供養を行っておりまする。にもかかわらず、公は天変地異を引き起こして民を塗炭の苦しみに陥らせ、またこの私の命まで奪うとなされている・・・しかしもし道真公が私の命と引き替えにこの国の安寧をお図り下さるというのであれば、私は喜んでこの命を差し上げましょう・・・がしかし、今この場でこの命を差し上げるわけには行きませぬ。と申しますのは、神である道真公は重重ご承知の事でしょうが、今、東国では将門が反乱の兵を挙げ、西国では純友が瀬戸内海を我が者にせんとして荒らし回り、今にも都に攻め上って来る気配です。我が国は桓武天皇の治世以来、国家に正規軍を置かず、戦のない国である事を誇りに思ってまいりました。従って反乱軍に対してこれを鎮圧すべき兵が都にはおりません。その事を良いことに、反乱軍は東西から都に迫り、この国を乗っ取ろうとしているのです。そうした国家存亡の時に、如何に道真公の望みであるにせよ、台閣の長の地位にある私が死ぬわけにはまいりませぬ。どうか、一時、その矛をお収めいただき、この国を救うための知恵と力をお貸し下さりますように・・・もしもこの国が安寧を取り戻した暁には、潔く私の命を道真公にお預けいたします」

 これを聞くと亡霊は青い顔に笑みを浮かべて、

「忠平、よくぞ申した・・・台閣を預かる者は常にその心がけを忘れてはならぬ・・・がしかし、私はそなたの命を取りに来たのではない・・・忠平、よく見ろ、私は道真ではない・・・そなたの兄、時平だ」

 これを聞いて忠平は胸を押しつぶされそうになりながらよくよく暗がりの中を見ると、まさしくそれは亡くなった兄、時平にまぎれもなかった。

「・・・あ・・・あ・・・兄者・・・」

「忠平、そのように驚いてばかりいては話にもならぬ。お前は昔から優しい男であったが、肝が細いところは今も変わらぬようだ・・・お前は私が亡霊となってまで、なぜここに出てきたか、その訳を知りたいであろう」

「は・・・はい・・・」

「教えてやろう・・・それは、お前の望みを叶えるためだ・・・お前に、知恵と力を授けるためだ」

「・・・では、この危急から国を救う手だてが兄者にはおありになるのですか」

「無論だ・・・私は道真公の怨霊に取り殺されたが、国を思う心は死んでの後も一時も失ったことはない。しかし死んだ者の悔しさ、お前に知恵を貸そうにも声が出ず、地獄の獄卒の鎖を解いてもらうことも叶わなかった。しかし将門、純友の乱が起きるに及び、閻魔大王はこの私の心中を察して、お前に知恵を貸すために一時の猶予を与え、地獄から解きはなって下さったのだ・・・だが、時間はわずかしか与えられておらぬ。故に、よく聞くのだ・・・。

 よいか、この国の者は長い間戦というものを知らずに太平を貪ってきた。大将・中将の地位にある者も、衛府の役人たちも位はあるが刀を抜いたことはない。故に、戦をしかけて来た者にどのように対処したら良いのか分からず、途方に暮れている。だが、古今の書物には戦に関しても全てを書き記してある。私は()類聚三代格(るいじゆうさんだいかく)』三十巻を編纂する時、日本の書物のみならず、我が国に伝えられた中国のあらゆる書物にも目を通した。その時に読んだ書物に、戦に不可欠な知恵は、敵の全てを知るということにあると記してある。台閣の者たちは東西に現れた反逆者にあわてふためき、ただひたすら恐れ、何を為すべきか、何一つ考えつかぬ有り様だが、敵は天から降ってきたのでもなければ地からわいたのでもない。まして鬼神であるはずがない。では敵は何者か・・・

 桓武天皇の曾孫高望王には国香、良将など七人の息子があったが、みな平の姓を得て常陸、陸奥の国の受領となり、莫大な富を蓄え、多くの郎党を養って大勢力を誇るに至った。その一人が平将門だが、おまえはその将門を知って居ろう」

「将門は平国香の子、貞盛が私の従者となった折、その従兄弟である将門も従者として仕えていた事は記録に明らかです。しかし私は直にあったことはありません」

「記憶にないのも当然である。将門はお前の従者になったが、学問に疎く粗暴な振る舞いがあったためお前の目に止まることもなく、地位に就くこともできなかった。しかし従兄弟の貞盛は知恵もあり振る舞いにもそれなりのものがあった故、左馬允の地位を得た。従兄弟の昇進に腹を立てた将門は太政官の許可を得ずに勝手に国に戻り、、浮浪の伴類を配下に従えて国府を襲い、平国香らを殺した。父・国香を殺された左馬允貞盛は弟・良兼と共に都を下り、三千の郎党を集めて兵と為し、将門を攻撃したが逆に敗れた。窮地に陥った貞盛は将門の反乱を台閣に訴え出た。これを知った将門は弁明書を携えて朝廷に馳せ参じ、しきりに己の行動について釈明した・・・」

「関東で争乱につきましては、双方ともに訴状・陳情書を携えて検非違使庁に出頭いたしてまいりましたので、検非違使庁にその裁断を委ねました」

「お前がそのように他人まかせにしたがために事態は悪化したのだ。とはいえ、関東はあまりにも遠い故、朝廷も検非違使庁も事態の重大性を把握できなかったのも詮無いことだ。検非違使庁はこの度の出来事は一族内の内紛であり、国家への反逆などとはほどとおい微罪であると判断した。更に、この翌年は朱雀天皇が十五才になられ、元服式が執り行われることになっていた為、将門は恩赦に浴し、罪を免れた。こうして将門は都から関東に戻るとあたかも英雄の如くに迎えられ、多くの部下を従え、良兼、貞盛と数度に及び合戦を繰り広げ、終に大勝利して彼らを再起不能にまで敗走させた。しかし都にはその様子は十分には伝わらなかった。というのも、その頃私の後を継いだ大納言保忠が重い病に掛かり、間もなく息を引きとったので、これはまたしても道真公の怨霊の祟りであると恐れおののいている最中、大地震が起こって都には土埃が舞い、そればかりか富士山が大爆発するという驚天動地の出来事が起きたので誰も彼もがこれらの変事に魂魄が失せ、関東の出来事になど目を向ける者はいなかった。将門はこの間にますます勢力を増大し、その勢力は関東五カ国に及ぶに至った。ここから先はお前もよく存じているであろうから申すまでもあるまい。将門は『刹帝の苗裔、三世の末葉なり』と称し、板東の支配者として君臨しようと軍を起こし、ついに『新皇』を僭称するに至った。しかし、これこそが将門の大きな過ちである」

「・・・」

「自ら天皇の末裔である高望王の子孫である事を誇っていた者が、都の朱雀帝を差し置いて『新皇』を名乗る事は、都の帝を弑逆するにも等しい。仮にもし将門軍が都に攻め上り、天皇以下公卿たちを殺すことに成功したとしたとしても、『新皇』たる将門は天下に先の朝廷よりも優れた政治を行う事を宣言しなければならぬ。如何なる国家にするべきか、その理念と申すべきものを部下のみならず、諸国の国守・受領・民たちに明らかにせねばならぬ。更に国というものは古来から伝わる知恵を蓄えて学問芸術と為し、後世に伝え、しきたり伝統を大切にし、勤勉を尊び、更に民の心を豊かにするための歌の道を広めねばならぬ。ところが、将門にはそのような素養もなければ、思想もない。将門を支える優れた学者・官僚は皆無である。何よりその証拠となるものの第一は、彼が『新皇』を称するに決意したその発端が、長い国家構想を練り上げた後の瞑想からでもなく、優れた知恵者たちの合議の後の発意でもなく、また抜きん出た左右の臣の勧めによるものでもない事が明らかだからである。おまえは知っているか・・・将門に『新皇』となる決意を促したのは、ある日突然将門の前に現れた遊女なのだ」

「・・まさか・・国家の重大事を遊び女が・・・」

「その遊女は将門の前に出ると衣を脱ぎ捨ててあたかも神に取り憑かれたかのように狂い踊って語るには、『我は八幡大菩薩の使いなり。そなたに朕の位を授け奉る。蔭子平将門に授け奉る。その位記は右大臣正二位菅原朝臣の霊魂表すらく、右八幡大菩薩の軍を起こし、朕が位を授け奉らん。今、すべからく三十二相の音楽を以て早く之を迎え奉るべし』

 女がこのように叫ぶと将門は女の前に平伏し、将門の兵もまたみな兜を地面において叩頭したという・・・」

「この国の天皇になろうという野望を抱いた者が、遊女の前に平伏したのですか」

「そうだ。笑止千万であろう。将門の正体はここに明白だ。もし彼自身が冷徹な支配者となるだけの資質があり用意周到な準備があったなら、このような芝居がかった事をする必要など更にない。自らの信念をどこまでも貫き通す揺るぎない意思と覚悟こそが指導者に求められる。各地の諸将をまとめてゆくためには新生する国家を統治するための法律を定めねばならぬ。だが将門は何をしたのか・・・将門は蛮勇の他は何も持ち合わせぬ故に、遊女が如き者の言葉にすがりついたのだ。こうした者は烏合の輩の統領にはなれたとしても、国家の将とは到底成り得ぬ。故に、放置しておいてもやがては自滅するであろう。しかしそれではあまりにも手ぬるい故、将門を破る手だてをお前に教えてやろう」

「・・・」

「まず、諸国の受領たちが将門に反旗を翻すような方策を取らねばならぬ。その最も良い方策は恩賞にあらず。官位である」

「官位」

「如何にも。諸国の受領たちは地方にあって財を蓄え、四囲の名声を得てはいるが、決して満足してはいない。彼らは所詮、自分が井の中の蛙であることを自覚しているからだ。彼らが最も欲しいものは領地にあらず。朝廷に認められた名誉ある地位、都人にも尊敬される身分なのだ。故に、関八州の全ての受領、押領使、土豪に対して、『平将門の首を挙げた者には、速やかに五位の位を与える』と広く伝えるのだ。五位の身分は殿上人である。諸国の者にとって、殿上人は雲の上にいる。それが将門の首さえ取れば手に入るとなれば、我も我もと血眼になるであろう。将門の部下であった者も裏切るであろう・・・そなたは優しい心の持ち主である故、こうした手段は好まぬかも知れぬが、将門は敵の砦を焼き討ちするだけでなく、民家にも火をかけ、すでに数万の民が家を失って怨嗟の声を挙げている。将門を討つに手段の是非を問うている場合ではない」

「・・・」

「次に、将門の乱に驚いて常備軍を置こうなどとはゆめゆめ考えてはならぬ。将門は遠からず、五位を望む受領たちの部下に取り巻かれて四面楚歌となり、やがて壊滅するであろう。従って、将門討伐のために朝廷が正規軍を組織する必要はみじんも無い。しかし将門が地方豪族らに討ち取られるまで朝廷が何もしなかったというのでは歴史に禍根を残す。故に形だけでも征討軍を送らねばならぬが、兵は正規のものにしてはならぬ。兵は諸刃の剣であることを心得、臨時の兵以外は用いぬべきである。また兵を率いる征夷大将軍の役目に就く者は有能な者であってはならぬ。この戦いは勝利すると決まっているのだが、それでも征夷大将軍と都に凱旋すれば、それなりの恩賞と地位が必要であろうし、また内乱から国を救った英雄として人望が集まるであろう。こうなると人というものは更に大きな力を望み、軍を更に大きくしようとするであろう。故に、大将に任じる者は、若く力ある公卿は禁物である。優れた将軍は害悪をもたらすのみである。中国を見よ。軍を率いて皇帝となった者は、軍によって滅亡している。秦の始皇帝、隋の皇帝、唐の太宗、みな同じ運命をたどっている。何故か・・・それは兵という存在そのものが戦を望むからだ。兵は戦によってのみ、自らの生きる誇りを見いだし、地位の昇進が可能となる。兵にとって平安は悪である。故に、平安の世を望むものは、兵を養ってはならぬ。兵を率いる大将は無能な者こそ相応しい」

「・・・兄者のお言葉・・・身にしみて感じ入りました・・・さすればこの度の大将には誰を命ずべきでしょうか」

「その者は、これまでさしたる功もなく、老いて、兵役とは全く関係のない者が適任である。鎧が重くて馬に乗るのも苦しいと見えるような者が最もよいであろう。こうした役に適任の者の心当たりはないか・・・」

 時平の亡霊がこのように訊くので、

「それなれば、参議に修理大夫忠文がおります。彼は見るからに兵を率いるなどまっぴらごめんというような者でござります」「忠文か・・・それはよい。忠文に右衛門督を兼ねさせて将軍に命じればよいであろう」

 時平の亡霊がこう述べたので忠平は、

「ただちに手配を致します、しかし、瀬戸内海の藤原純友に対してはどのようにすればよろしいでしょうか。純友は海賊共を率いて太宰府を襲い、財宝をことごとく持ち去り、楼閣を焼き払い、民家も襲って焼き討ちしております」

「それこそ純友が墓穴を掘っているというものだ。もしも大望ある者であれば、古代からの要害であり政庁でもある太宰府の焼き討ちなど万が一にもすることはあるまい。

まして民家を焼き払って民の心を離反させるが如き愚かな振る舞いは狂気の沙汰である。そうした蛮行が繰り返されれば、純友は民の怒りを招き、部下にも見捨てられるであろう。そなたは既に小野篁の孫・小野好古を純友討伐軍の大将に送っているが、好古は小野妹子を祖先に持つ名族の末裔。心は清く、政治に野心を抱かず、朝廷に対する忠心に篤い。たとえ彼が純友を破ったとしても、英雄顔をして都を闊歩することなどすまい。弟の道風には及ばぬが、書を愛し、歌もよく詠む。やがて参議となり、国を支える力持ちとなるであろう」

 時平の亡霊はこう述べると、忠平の目の前から忽然と姿を消した。

「左大臣様・・・」後ろから声がするので振り返ると、三条右大臣定方が真っ青な顔をしてこちらを見ていた。

「定方殿、そのように妙なお顔をされて、どうなされた」

「左大臣様が鬼と向かい合っていたように見えましたので」

「いや・・・考え事をしていただけでござります」

「いいえ確かに、左大臣様の声に怯えて、鬼が逃げたように」

「そのような事はござりませぬ」

 忠平は定方を従えて陣座に加わったが、議政官の面々は忠平の態度が夕暮れ時までとは打って変わって自信に満ちあふれているのに驚いた。その夜、反乱軍に対する方策は忠平の建議によって速やかに定まり、程なくして東西の賊徒はことごとく鎮圧された。

 秋のよく晴れた日、忠平は右大臣定方、大納言仲平を伴って大井川に紅葉見物に出た。

「宇多上皇がここにお出でになられたのは延長七年の事でございましたからもう三十七八年も前になりましょうか」と定方が言ったので忠平はその折りに作った歌を思い出した。

 小倉山峰のもみじ葉心あらば

今ひとたびの御幸またなむ  あの時の紅葉は目にまばゆいばかりだった。上皇は目を細めて「この景色を醍醐天皇にも見せたいものだ」と仰せになられたので、帝の思いを歌にしたのだったが・・・しかし今は、この紅葉を兄・時平に捧げたい。冥府においでの兄がもう一度この小倉山の美しい彩りを目にされたら、どれほどお喜びになったであろう・・・忠平は目にいっぱいの涙を浮かべて、紅葉の山をいつまでも眺めていた。