百人一首ものがたり 21番 素性法師 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 一番目のものがたり「石上の庵」

今来むと 言ひしばかりに 長月の 有明の月を 待ちいでつるかな

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

素性法師という方は僧正遍昭の子ということですから、桓武天皇の曾孫に当たるわけですが、そのような方がなぜ出家させられたのでしょうか」心寂坊がこう訊ねると、

「さてそれが私にも分からないのです。出家前は吉嶺玄利(はるとし)という名で左近将監に任官して清和天皇のお側近くに仕えていたのですから出世は約束されていたようなものです。その玄利の父である遍昭が突然『僧侶の子は僧侶になるのが一番だ』と言って髪を剃ってしまった。何とも乱暴な話です」

「遍昭ともあろうお方が何故そのような理不尽をなさったのでしょうか」

「ある者は世の無常を感じた故だと申しております。当時、応天門の火災による大伴氏の滅亡がありましたし、また承和の変による紀逸勢の死や遍昭が仕えた仁明天皇の皇孫である惟喬親王の悲惨な生涯などを身近に見て、華やかな王宮が空しく感じられたとしても不思議はありません。しかし遍昭が無常を感じたとしても息子の玄利が同じだったとはとても思えません。遍昭は仁明天皇が薨じられて後幾年もの間行方不明となり、僧となって再び都に姿を見せた後にも元の妻や子の許を訪ねることもしませんでした。ですから息子の玄利は父親の顔も知らずに元服したと思われます。母親はそれが不憫で、一度なりと会わせたいと願って遍昭の許に息子を訪ねさせたところその場で『僧侶になれ』と髪を下ろさせたのですから、とても理解できぬ話です」

「まことに、そのような目に遭って玄利殿はどのようにお感じになられたのでしょうか」

「さて、それこそ想像も出来ぬことですが、当時は今とは天地ほども違う華やかな時代でしたから、そのような時に世捨て人になれと言われた者の気持ちは察することもできません。ご承知の通り、素性法師は都の花ざかりを見て、

  見わたせば柳桜をこきまぜて

都ぞ春の錦なりける

の名歌を詠んでいます。私も二十代の時に、

  見渡せば花も紅葉もなかりけり

浦の苫屋の秋の夕ぐれ

を詠みましたが、この頃は東大寺は焼かれ、源平合戦たけなわの頃でしたから、真実、世は荒れ果てて昔の栄華はどこにもなくなっていたのです。けれども『見わたせば柳桜をこきまぜて』の歌が詠まれた頃はこれから爛漫たる花盛りを迎えるという時でしたから無常を感じるような時代ではとてもなかった・・・ですから父に頭を剃られた時の驚きがどれほどのものであったか、私には分かりかねます。玄利が長らく遁世して身をくらましていたのもその怒りと衝撃のためであったのかも知れません・・・しかしその後は都に戻って在原業平様とも付き合っておりますから、諦めもつき、これも運命と受け入れたのでしょう」

「・・・素性法師は、業平様をご存知だったのですか」

「とても親しくしていたようです。この二人に文屋康秀が加わって、高子様がまだ春宮の御息所と呼ばれていた頃、高子様の求めに応じて屏風絵に歌を詠んでいますよ」

「しかし・・・業平様は高子様を奪った咎で東下りをなされたのでは」

「いかにも左様ですが時が経って、良房様もお亡くなりになり、高子様も皇后におなりになりましたので、業平様を呼び戻して、贔屓にしていたものと思われます」

「・・・お后になられた方が配流から戻ってきたお人を贔屓にするような事が出来たのでしょうか」

「もちろんすぐには思うように行かなかったようですよ・・・例の事件があったのは文徳天皇の頃で、ようやく罪を許されて都に戻ってから後も官位従五位下のままで、十三年間もの長きにわたって昇進することはなかったのです。ところが高子様が清和天皇に入内した貞観四年になりますと突然叙任して、従五位上に進みました。それから以後はめざましい出世ぶりで、左兵衛権佐から左兵衛佐になり、続いて右馬頭から右近衛権中将に就任、元慶三年には蔵人頭に任じられています。蔵人頭という役職は宮中のすべてにわたる重職ですから、余程の人物が後ろ盾になっていなければ就ける地位ではありません。しかし当時、業平公にはこれという頼りになる人物は誰一人いませんでした。それなのに、ここまで出世することが出来たのは、高子様の贔屓があったからこそとしか思えないのです」

「・・・なるほど。とすると、高子様はお后になられてから後も、業平様を想い続けておられたということでしょうか」

「まさしくその通りでしょう。だからこそ、自らの屋敷に恋人の業平様と康秀、それに素性法師の三人を呼んで大切な屏風を飾る歌を詠ませたのでしょう」

「その時に業平様が詠んだ歌は分かっているのですか」

「それがあの、

ちはやふる神世も聞かず竜田川

からくれなひに水くくるとは

の歌ですよ」

「何と、あの歌は高子様の屏風に書き記した歌だったのですか」

「いかにも」

「それをお聞きして、何とも言えぬ気持ちになりました・・・ところでその時、肝心の素性法師は何と詠まれたのでしょう」

「もみじ葉の流れてとまる湊には

紅ひ深き波や立つらむ」

「・・・」

「素性法師はこれまでのお二人のなにもかも知った上でこの歌を詠んだのです。業平様の竜田川の歌をふまえて、お二人の心を紅葉にたとえ、渓流に荒々しく流されながらも最後には紅い波の立つ深い淵にたどりつく有り様を歌っている・・・これほどに美しい余情に彩られた歌を詠える人こそが真実の歌人と申すべきでしょう」  定家がそう述べると心寂坊は深々とため息をついたのだった。

第21番目のものがたり 「石上の庵」 )

 女から届いた文を見ると『いつもいつも今宵こそはとお待ちしておりましたものを、あなた様は何の頼りも下さらない。このような私の心をあなた様は少しでもおわかりになって下さっているのでしょうか』とあり、歌が書き付けてある。

  今こむと言ひて別れし朝より

思ひくらしの音をのみぞなく

(今すぐに戻ってきますからと約束したのに、いつまで待ってもおいでにならない。いつしか夏も終わりになって、ヒグラシが朝な夕な、悲しい声で鳴いている。そのように私は泣き暮らしておりますものを、なぜおいでになってくださらないのでしょうか)

『これは父遍昭の歌・・・あの人は父の歌にかこつけて私をなじっている・・・しかし、私をこんな姿にしたのは父ではないか・・・父は無理矢理私の髪を切ると歌を詠んで私に差し出した。

 わび人の分きてたちよる木のもとは

頼む陰なくもみぢ散りけり

(この世は空しいものとかねてより知っていたが、頼りとしていた木陰のある木は紅葉も散り果て、陰もなくなってしまった。そのように、私たちの頼りとする仁明の帝が亡くなってしまったからには、頼りとするお方はこの世にはないものと知りなさい)

 父は仁明天皇の寵臣だったのだからそのお気持ちは歌の通りなのだろう・・・しかし私はようやく右近衛将監になったばかり、父の顔も見ずに母と共に生きてきた。それを、物心ついてから後始めて出会った私を捕まえていきなり頭を剃り、みじめな黒衣をまとって生きよとは、余りにもひどい・・・目の前は桜の花盛りだ。霞のように桜の花が甍にかかり、雲か霞と続く中に、緑の葉が優雅な糸のようにしなだれている。この景色の中についさきごろまで浮かれていたものを、今は髪もなく、僧衣を着て彷徨う見になろうとは・・・。

 どこへ行くべきか分からなかった。何をしたら気持ちが落ち着くのか・・・素性はあてどなく歩いた。

『父は、比叡の山に登って修行せよと申されたが、そのような気には到底なれぬ。坊主になんぞなるものか!』・・・素性は恋しい女を思い、変わり果てた我が身に涙して松の根方に腰を下ろすと衣の裾を切って歌を書き付け、人に託して女のもとに届けた。

 今こむといいしばかりに長月の

有明の月をまちいでつるかな

(今来るから、待っていてくださいと、こう言い置いて別れたのに約束を守らないまま時が過ぎて行くので、あなたは長月の月を眺めながら私をきっと恨むでしょう・・・でも・・・私は訳あってあなたの元に戻ることはできないのです)

 何ヶ月も彷徨い歩いた。父を恨んだ。父が憎かった・・・父も私を憎いからこそ、こんな惨めな姿にしてしまったのだろう・・・そう思うと都を遠く離れ、誰も知らないところに行ってしまいたかった。谷の水を飲み、木の陰に宿りして、幾月かが過ぎた。気がつくと、神さびた森の中に迷い込んでいた。千年をも経たと見える大木が鬱蒼と生い茂り、目の前に山のように盛り上がっているのは古代の建物の跡だろうか、大きな礎石を蔦がびっしりと厚く覆っている。いったい、ここはどこなのだろう。疲れ果てて薄暗い杉の木立の下にたたずんでぼんやりしていると、ホトトギスが鳴きながらこう歌った。

  石上ふるの山なる杉群れの

思ひ過ぐべき君ならなくに

(万葉集 第三巻・422 丹生王の歌)

 そうか、ここは大和の石上だったのか。その昔、石上には安康天皇の石上穴穂宮と、賢仁天皇の石上広高宮があったと話を聞いた覚えがあるが、目の前の大きな石は宮殿の跡かも知れぬ。だが、この荒れた様はどうだ。笹と太い蔦に覆われて、誰一人訪れる者の気配はない。聞こえるのは杜鵑の声ばかりだ。

 この世はうたかたのようなものだとはよく聞くが、まことに、古き帝の都がこれほどに侘びしい山になろうとは・・・素性は思わず涙して歌を詠んだ。

  石上ふるき都のほととぎす

こゑばかりこそ昔なりけれ

 素性は杉木立の下に庵を編んで暮らすことにした。荘厳にそびえ立つ杉木立は天に届くほど高く、朝には深い霧がたちこめ、夕暮れには日の光を遮る木立が赤い空に壁のようにそびえ、やがて夜が来ると、古の時を宿す暗闇が素性を深々と飲み込むのだった。 そんなある夜、ふと目を覚ますと、どこからかにぎやかな歌声が聞こえてきた。『こんな山奥でいったい誰が・・・』、素性は声のするほうへおそるおそる忍んで行った・・・見慣れぬ姿をした大勢の男女が、清い小川の側の草地に集い、輪になって歌い踊っていた。

 大宮のをとつはたて隅かたぶけれ

(あなた様の宮殿の、あっちほうの軒は、隅が傾いてるよ)

 大勢の男たちが和して歌うと女たちがこれに呼応して、

 おおたくみ をぢなみこそ 隅かたぶけけれ

(匠の棟梁の腕が拙かったから 軒の隅が傾いてしまったよ)

 男たちは腰の剣を抜いて、大宮のをとつはたて隅かたぶけれ、と蛇のようにつながって追いかける。女たちは笑いながら逃げ、また歌う。

 大君の心をゆらみ おみのこの

 八重柴垣 いりたたずあり

(皇子さまの心が定まっておられないので、私の家の、八重にめぐらした柴垣の中に、入れずに、立っていらっしゃることよ、心が情けないほどゆらゆらしているから)

 男たちはどっと歓声を上げて、松明を高くかざす。松明の明かりが川の流れにまばゆく映えて輝く。松明のかがやくなかに、美しい男が現れて歌う。

 潮瀬の 波おりを見れば あそびくる しびがはたてに 妻立てりみゆ

(潮が渦巻いて流れる早瀬の 波が荒く折り重なってうち寄せる そのあたりを見ると、大きな魚が泳いでくる その魚の背びれに 私の恋しい妻が私を待ちこがれて立っているのが見える)

 素性は木陰に忍んでこの有様に見とれていた。なんとすばらしい集いだろう・・・遙かな昔、男と女の出会いを偲んで歌会を催したことはあったと聞く・・・柿本人麿が、 

  石上布留の神杉神さぶる

恋をも我は更にするかも 

と歌ったのも、このような事だったのだろう。

 

 やがて鋭い剣を佩いた男が、美しい若者の前にたちはだかって、歌い舞った。

 大君の 皇子の柴垣 八節結り 結りもとほし 切れむ柴垣 焼けむ柴垣

(お前は、天皇の皇子などといって、柴垣を立派に造って、宮殿に暮らしているつもりのようだが、そんなものが何の役にたつものか、この私の前では、その柴垣の結び目も、たちまち切れるだろう、臣下たちもみなばらばらに逃げるだろう、何もかも焼けるだろう、私は焼いてしまうだろう、気取っている皇子よ そなたの見ている前で)

 これを聞くと美しい若者は腰の剣の柄をしっかりと握りしめ、男の前に進み出て、高い声で歌った。

 大魚よし しび突くあまよ しがあれば うら(こほ)しけむ しびつくしび

(大きなマグロを見事な銛で突いて取るように、志毘臣(しびのおみ)よ、その鋭い銛でお前は沢山の獲物を手に入れるつもりだろう。だが、マグロの肌のように美しい乙女たちはお前を恐れて逃げて寄りつかないだろう、そうしたら悲しくはないか、柔らかい肌が恋しくはならないのか、マグロを銛で突き殺す志毘臣よ)

 若者がこう歌うと、志毘臣と呼ばれた男は剣を抜き放ち、黒々と立つ杉木立に向かって雄叫びを挙げた。その声に、大勢の兵士がなだれを打って篝火に押し寄せてきた。美しい皇子も剣を抜き、「いざほわけのすめらみこと(履中天皇)の末を守る者よ、いざ」と叫んだ。これに応えて、たちまち大勢の兵が躍り出た。剣が火の粉に舞い、杉木立は雄叫びにどよめき鳴り響いた。

 

『これはいったいどうしたことだ・・・戦が始まったのか』

 素性が恐れていると剣の響きはたちまち止み、大勢の人々の中から輝く冠を被った若者が男女を従えて近づいてきた。

「よく参られた」と若者は素性に言った。「そなたの父遍昭は、我が末裔である仁明天皇に仕え、天皇が世を去ると、全てを捨てて山に籠もり僧侶となった。そしてそなたもまた遍昭のすすめによって頭を丸め、我が都まで来てくれた。その心に感じて、みなはこうして、遠い夢の昔を歌い偲んでいるのだ」

「では、あなたさまは」

「私は、仁徳天皇曾孫、そなたが見た石上の宮殿の主、意祁命(おけのみこと)にして、仁賢天皇である」

「仁賢天皇・・・」

「仁徳天皇の皇孫である我が父、市辺之忍歯王は、従兄弟・大長谷王に近江の蚊帳野で殺され、遺骸は馬桶に入れられて埋められた。我ら意祁命(おけのみこと)袁祁命(おけのみこと)の兄弟は野を越え、川を越えてどこまでも逃げ、牛飼い、馬飼いに使われて、隠れていた。やがて大長谷王は雄略天皇となったが、時が天皇の命を奪ったので、家臣たちは王の血筋を求めて国中を探し回った。その時、我ら兄弟を捜しに来たのが、山部連小盾であった。そなたが今見たのは、山部連小盾が私たち兄弟を捜してやって来た時に舞い詠っていた光景なのだ。そなたがこの大和の石上の森に迷い込んだのも遠い縁が導いたのであろう。故に、私はそなたのために、山部連がわし等を探しにきた時に舞った舞を見せてやろうぞ」

 意祁命は黄金の太刀を抜き、松明のはぜる音の中で舞い歌った。

 もののふの わがせこが 取りはける 太刀のたがみに 丹画きつけ その緒は

 皇子が剣をかざして舞い踊ると、群れ集う男女は松明を掲げながら足ふみならして舞い歌う。どっと歓声が上がると、火の粉がぱちぱちと夜空に飛び散る。舞はますます激しくなり、男女の声は森を揺るがして、天に響くかとも思うばかりに激しく響いていた。やがて、皇子が「我は市辺之忍歯王の奴末」と大声で叫び、松明を高く天に投げ挙げた。他の者共も一斉に松明を投げ上げた。火は夜空を焦がして激しく燃え、やがて弧を描いて地に落ちて火柱が立ち上った。が、その火が消えた時、あたりには誰も見えず、ただ、小さな残り火が、ちろちろと頼りなく燃えているばかりだった。

 素性は庵を良因院と名付けて日々を過ごし、時折深い杉林に分け入っては意祁命と出会った岩群あたりを訪れ、香華を手向けた。

 長い月日が過ぎた。やがていつともなしに都の人々の耳にその昔仁賢天皇が都を置いた大和の磐余の甕栗宮(いわれのみかくりのみや)あたりに素性法師が隠棲しているらしいという消息が伝わった。

 昌泰元年秋、宇多上皇は大和の国の紅葉に栄える滝をご覧になるという名目で、素性法師に会いに行幸になられた。

「このような山奥で、我が祖先を祀ってくれているとは・・・礼を申さねばならぬ」上皇がこう仰せになられので、素性は恐懼して万葉の歌を奉った。

 古へもかく聞きつつか忍びけむ

この古川の清き瀬の音を

「意祁命の幻を見たというのは、真実であるか」

「畏れ多くも、この森の奧で、古き伝えにあります如く」

「それは何とも羨ましいことである。しかし、そなたのような者がこのような人里離れたところに命を埋めるのはいかにも惜しい。意祁命もそなたがここで朽ち果てることを望んでいるとは到底考えられぬ。京の都に戻るが良い。そなたを待っている者もあるであろう」

 これを聞くと素性法師は再び筆を執って歌を奉った。

  秋山に惑ふ心を山河の

滝の白泡に消ちや果ててん

(秋の山は今も昔も変わりなく深閑として全てを包み込み、山河は変わりない姿を見せております。しかし私の心は、古い昔と今の世との間に惑い揺れて、どうしてよいか決めかねているのです。この惑いの心を、滝の泡が清めてくれればよいのですが)

 上皇は大いに心打たれ、木立のざわめきに耳を傾けながら素性と共に語り明かしたのだった。