百人一首ものがたり 20番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 一番目のものがたり「見合わせ」

わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

「心寂坊殿は右大臣藤原忠平と元良親王が和泉式部の娘の小式部内侍に言い寄った話をご存じですか、しかも同じ晩に」と訊くので、

「・・・いいえも少しも・・・」と答えると定家は「小式部という女性はよほど魅力のある方だったと見えて、こんな事があったのです。ある夜のこと、元良親王が小式部内侍の局に忍んで行くと中から密かに語り合う声が微かに聞こえる。親王は気配を察して、これは間が悪い時に来てしまった、とそう思ったのでしたが、こそこそと引き返すのも面子にかかわる、そこで親王は法華経の方便品を高らかにしながら去って行ったのです。この時小式部内侍は右大臣忠平の胸に抱かれていたのですが、親王の読経の声を聞いて思わず袖を目に当てて涙をぬぐいました。この様子に忠平は『私はあらゆる点に於いて親王に優っていると思っていたが、あのように法華経を唱えることはできない。侮っていたのは不覚だった』と悟り、それからは法華経の読経に励んだと言い伝えられているのです」

「・・・それはそれは、何とも申しようもない逸話でござりますが、私が思いますには、小式部内侍というお方はよほどしたたかなお方であったと見えます・・・右大臣の胸に抱かれながら、親王の読経の声に涙するなどとはよほど恋の道に長けたお方でなければできない業であっと思われますが」

「・・・今となっては夢物語にも思いつかぬ話です。そこで私は『百人一首ものがたり』の第二十番に元良親王をと考えているのですよ」

 定家がこう述べると、心寂房はひどく驚いた顔をして、

「・・・お話をうかがっているうちにふと思い出したのですが、、確か元良親王というお方はとても名高い浮気者で、女と見ると誰彼の見境なく付け文をして、天下一の色好みと名高かったと聞いております。それに大した歌詠みであったとの噂もござりません・・・何故そうしたお方をお選びになられたのでしょうか」と訊くので定家は笑って、

「では、親王の代わりに光源氏を加えるというのはいかがですか」

「光源氏?・・・それは思いも寄らぬお名前でござります」

「思いも寄らぬとは」

「・・・なんと申しましても、光源氏は紫式部の筆先から生まれた方で、現実には存在しなかったことは明らでこざりますので」

「なるほど、謂われるまでもなく光源氏は物語の中の人物です。しかしもしも仮にそうではなく、実際に居られたとしたら、心寂坊殿は百人の一人に加えることには賛成なさいますか」定家が重ねてこう訊ねるので心寂坊は訝しんで、

「私は中納言様が何をお考えになっておいでなのか皆目分かりかねますが」と困惑すると、

「心寂房殿は元良親王を『天下一の色好み』と非難なさいましたが、もしそうであれば光源氏も同じように非難されねばなりません」

「・・・」

「光源氏はご承知の通りこれ以上恵まれたお方はないように描かれております。皇子でありながら、声は良し、姿をかいま見たものは身が震えて涙を流すほど美しく歌にも学問にも優れ、琴笛の音は雲居にも雲を響かせるほどであるし、舞を舞うと、その足拍子や面もちはこの世の人とは思われず、詠う声は仏の国の迦陵頻伽(かりようびんが)のようであった、と記されています。つまり、光源氏は理想の男性なのです。しかし、その光源氏の君は、この世にある間なにもしませんでした」

「・・・何もしなかったとは?」

「光源氏は誰よりも優れた才能を身につけておられた。しかも高貴な身分です。これほどに優れて生まれたお方は、何らかの大事業を成し遂げて然るべきでしょう。たとえば、聖徳太子は国内の乱れを抑え、憲法を定め、仏教を興し、遣隋使を派遣し、法制度を整えました。天智天皇は内憂外患を乗り越えて、律令制度を確立なさった。聖武天皇は、奈良の大仏を建立し、唐招提寺に鑑真を招き、学問芸術文化に力を注ぎ、日本国を隆盛に導かれた。光明皇后が施薬院を開いて民衆を病から救ったことは誰知らぬ者のない話です。この他にも優れた天皇、大臣の話は尽きません。従って、たとえ物語の中の人物であるにせよ、光源氏ほどの才能に恵まれたお方なら、何事か、歴史上に輝く事業を成し遂げることができたはずです。しかし、光源氏は何も成さなかった・・・紫式部はそうした人物として彼を描かなかった・・・これは不思議ではありませんか」

「・・・」

「私は何度も源氏物語を書写しておりますが、一文字ずつ写しながら、光源氏とは何者かという疑問をいつも頭から払拭できませんでした。と申しますのも、ありあまる才能に恵まれながら何一つめぼしい業績を上げなかったということが謎としか思えなかったのです。しかし光源氏はほんとうに何もしなかったかと謂えばさにあらず、彼が生涯を掛けて為そうとした行為があります。それは申すまでもなく、恋愛です。彼はあらゆる女性と関係を結んでいます。義理の母の藤壺、人妻、友人の恋人、少女、老婆・・。その多様さにはいつも驚かされます。つまり、光源氏という人物は、恋に生き、恋に日々を過ごすことが人生の目的だったのです」

「・・・」

「問題はなぜ紫式部が何故そのような男性を描くことに執着したのかということです。有り余る地位と権力と才能を他のことには何一つ使わず、ただひたすら、恋に注ぎ込む、そんな人物を何故に書かねばならなかったのでしょうか」

「・・・」 「その理由はただひとつ、彼のような人物こそ、あの時代の理想とされたからなのです。・・・今の世をごらんなさい。平清盛、源頼朝、義経、北条政子、北条時頼、どこに理想がありましょう・・・。これらの人間は餓鬼畜生道に落ち、地獄の獄門に掛けられて業火に焼かれてしかるべきですし、事実、地獄の底で生皮を剥がれ、血の池地獄に沈められているに相違ありません。彼らはすべてを奪い、すべてを破壊し、互いに殺し合い、そして、血だらけの阿鼻叫喚だけを残したのですからね・・・ところが紫式部が見ていた世界は私たちが今見ている光景と全く対照的でした・・・無論、権力争いはいつの世にもつきものですから道長を巡る人々を見ますとかなりの悲劇を味わっていることは否めませんが、今とは比べものになりません。刀や槍や軍馬でありとあらゆるものを破壊するような百鬼夜行の日々はどこにもなかった。宮中で最も大切な行事は歌合わせでしたから、誰もかもが良い歌を詠もうとしましたし、また、男と女は小町や伊勢などの歌にも見るように愛に生きるのが最も理想の人生でした。だからこそそうした時代の象徴として光源氏が登場したのです・・・しかし光源氏は単なる物語りの中だけの人物ではありません。もしや、あのお方が光源氏ではなかったのではないのか、と噂された人が幾人もいたのです。元良親王はその中の一人なのです。私が親王を『百人一首ものがたり』の一人に撰んだのもそうした事があるからなのですよ」

第20番目のものがたり 「見合わせ」 )

  高い築地を乗り越え、生け垣を伝って渡殿を飛び越えると、少年は遣り水に沿って縁先までたどりついた。几帳の陰に少女の姿が見える。少女の前に美しい貝が床いっぱいに敷き詰められている。少年は少しもためらわず中に上がり込んだ。

 少女は黙って若い侵入者を見上げている。ホトトギスの声が高い空から降ってきた。少年は少女の美しさにちょっとたじろぎながら、

「君か?時平が盗み取ったという大納言の北の方は」とぶしつけに言った。その言葉は十四五とはとても思えぬ横柄な口振りだったので、少女は豆鉄砲を食らった鳩のように眼をパチクリさせたがすぐに、いいえ、というように頭を振った。

「ほんとうに、君は、大納言の女ではないのか」

「そのようなこと、私は知りません」

「では、どこにいるのか、教えてくれ」

「存じませぬ」

 少女は怒ったように相手を睨んだので、少年はほんとうに知らぬのだなと悟って、さて、ではどうするかなというようにあたりを見回していたが、何を思ったか、急に少女の前に腰を下ろして、

「そなたがほんとうに知らぬとは意外だが、まあいい・・・しかし、そなたは美しいな。この屋敷にこれほどの女が居ようとは、ついぞ知らなかった」とませたくちぶりでいい、金蒔絵の貝殻を手のひらに載せて、「ここには天女のような女がこの貝のようにたくさん住んでいるものと見える。流石に左大臣、時平の権勢はすさまじいものよ」と大人びたまねをしてため息をついてみせた。

 少年が目当てにしていたのは、藤大納言国経の北の方だった。国経は年老いてはいたが、当代一の美人を北の方に迎えてうれしくてたまらず、一日中側においてその顔を眺めていた。ところが噂を聞いた左大臣時平は、好色家として名高い兵衛佐平中と謀って、国経を騙し、女を牛車に押し込め、連れてきてしまったのだ。

「あのような乱暴をしたのが左大臣ではなくて、他の者であったらどうであろうか・・・時平は菅原道真を太宰府に流しただけでは飽きたらず、己の叔父、大納言国経の女を盗むとは、大したうぬぼれようだ。しかし、私は、そんなことはどうでもよい。ただ好き者の平中が『あの女こそ天下一の美人』と指さした大納言の女とは、どれほどのものなのか、ひと目見たかった。何故と言うに、その女の父親は中納言在原棟梁、つまり在原業平の孫にあたるのだからな、さぞや美しかろう」

 少年はどこまでもませた口振りでものを言う。少女はますますあきれて「そう申されるあなた様は、いったいどなたなのです。左大臣の屋敷に盗人のように忍び込んで、人に見つかったらただではすみませぬ」と咎めた。少年はこれを聞くと「検非違使の役人を呼びたいならそうするがよい。私を捕まえられるものなど、誰もおらぬ」と不敵に笑うのだった。

 池の鯉がバシャと跳ね、柳の若葉が風にもつれて忙しく陰を水に落としている。少年は床に並んだ金色の貝をあれこれと見回していたが、不意に少女の襲の裾の間近の貝に手を伸ばすと、「これはね、私の祖父の歌だよ」とにっこりとした。その顔が急に幼くなったので、少女はまた驚いた。少年は彼女に貝を手渡した。そこには

 思ひあらばむぐらの宿に寝もしなむ とある。少年はもう一つの貝を取り上げて、目の覚めるように美しい声で、

 ひじきものには袖をしつつも  と読見上げた。

「この歌が、あなた様のおじいさまなのですか?」少女は目をまん丸にして少年を見つめた。

「そうさ、私は、在原業平の孫なんだ。つまり、盗まれた大納言の北の方と私とは、同じ血筋なのさ」

「まさか」

「そう。私の祖父は清和天皇。私の父は陽成院だ。だが、私の父陽成院はいつも私に言っているよ。『業平は私の父である清和の帝が九つで二条の后の高子と結婚する以前から、高子と恋仲にあった。あまりにもその恋が過ぎていたものだから、高子の兄たちが業平を東国へ追い払ってしまったが、子種は高子の腹に出来ていたのだ。だから、私の父は業平に違いない』とね。そして私もその話を信じる。だから私にとって時平は何ともいまいましい奴なのさ・・・しかし、まあ、そんなことより私の夢は、祖父のように、恋に命をかけて生きるということなんだ。ちょうどその貝の歌のようにね」

 金の貝に書かれた文字がきらきらと光っている。

 思いあらばむぐらの宿に寝もしなむ

ひじきものには袖をしつつも

(あなたが私を想ってくれさえくださるならば、どのようなところへでもまいりましょう。この国を追われ、雑草の生い茂る宿であっても、あなた様といっしょであれば、私は喜んでまいります。ひじき藻がたがいにからみあってはなれないように、あなたと互いに肌を合わせて、袖を重ね引いて、共寝をしたいと思います)

 少女が顔を赤らめて貝を見つめている間に、少年は人の気配を察して、音もなく姿を消してしまった。入れ違いに乳母が入ってきた。彼女は何かを察したのか、

「お気を付け遊ばされませ。褒子(ほうし)様、殿方はどこでお姿を垣間見ておいでかわかりませぬ故に」といいながら、蔀戸から外を一渡りながめ、それから思い直して貝殻をかたづけていたがふと「どうしたのかしら、ひとつ足りないけれど」とあちらこちらと探している。褒子は知らん振りして黙っていた。

 そんなことがあってから、数年が過ぎた。褒子は目の覚めるほどの美人に成長した。左大臣時平はこの娘こそ藤原家の隆盛の種よ、と意気込んで、準備万端整え、醍醐天皇の后にと入内させた。ところが驚いたことに、醍醐天皇の父、宇多上皇は褒子を一目見て美貌の虜になり「この天女は人の世に交わるにはふさわしからぬ。老い法師にこそふさわしけれ」と、天皇から褒子を横取りして、夜昼なく寵愛したので、その溺愛ぶりに殿上人はこれはどうにも、と言葉を失い、眉をひそめる者も少なくなかった。そんなある夜、褒子の手元に文が届いた。

 ふもとさへあつくぞありける富士の山嶺の思ひのもゆる時には

 歌の主はと見ると、元良親王と記してある。

『元良親王・・・陽成院の皇子、ああ、あの時の・・・』

 褒子の胸に過ぎ去った日の光景がまざまざと蘇った。挑むような少年の眼差し。歌を詠んだ時のあのつややかな声。今でもはっきりと耳に聞こえる。

 思いあらばむぐらの宿に寝もしなむひじきものには袖をしつつも

  褒子は歌を返した。

 忘れ草名をもゆゆしみかりにても

生ふてふ宿はゆきてだに見じ

(後選和歌集1050)

(あなた様はあちらこちらの姫君や中納言、大納言の娘と言い交わしているという噂。しかももそのお心には忘れ草が生い茂っていて、すぐにその方々を忘れてしまうということを聞いています。私はそのような忘れ草の生えるような宿には決してまいりますまい)

 と、その晩、どうして忍び込んだものか、気がつくと、暗闇の御簾の中に親王が腕を広げて立っていた。親王は狩衣の中に褒子を抱きしめると、「私の心には忘れ草など一本も生えていない。それをあなた様にお教えいたしましょう」と甘い声でささやいた。褒子は年老いた上皇の愛撫しか知らなかったので、若い男の胸に抱きしめられ、陶然として何もわからなくなってしまった。

 それからというもの親王は夜な夜な忍びこんで、褒子を抱きしめた。褒子はこのようなことが他に知られたらと思うと震えるような気持ちだったが、それでいて、親王の愛撫を思い出して、ふと赤らんだりするのだった。そんなある晩、忍んできた元良親王はどこかの角にひっかけたのだろうか、表袴の裳が切り裂けていた。褒子は女房を呼ばず、自分で縫って、親王に履かせ、こう歌を詠んだ。

 限りなく思ふ心は筑波嶺の

このもやいかがあらむとすらむ

(同1150)

(筑波の山の男女の神々が互いに抱き合っているように、私の心はただひたすらあなたさまをお慕いしています。でも、もし筑波の山の神々が互いに引き裂かれて、山が割れてしまい、この陰、あの陰がなくなってしまうようなことがあったら、私の縫ったこのも(陰・裳)はどうなってしまうのでしょうか)

 親王は褒子の心に打たれて涙を流しながら歌を返そうとしたが、ふと恐ろしげな足音がして近づいてくるので、歌を返すこともできぬまま逃れてきてしまった。

 それから数日後、密かな使いがきて、「先日の歌をどうかお返しいただきたい」との言付けだったので、彼は泣く泣く歌を詠んだ。

 やれば惜しやらねば人に見えぬべし

泣く泣くも猶返へすまされり(1143)

(あなたは返してほしいとおっしゃられるが、どうして大切な文をお返しすることができましょうか。返すぐらいなら、いっそのこと破ってしまいたい。でも、破るということは、自分の手であなた様と私の間を裂くようなものです。かといって、破らずにこのまま手元におけば、きっと誰かがこの歌を探し出して、あなた様と私との間を上皇に知らせるでしょう。こうなったら、やはりあなたさまのおっしゃるように、泣く泣くお返しするしか道がないのは何と悲しいことでしょうか)

 

 こうしたことがあって、二人はどうしても逢うことはできなくなってしまった。間もなく、褒子は病に落ちた。薬師に診せ、大勢の僧侶に護摩を焚いてもらっても効き目はなかった。病が次第に重くなってゆくのを見てある者が、

「近江の滋賀寺に朝観という高僧がおります。この僧侶に頼れば、いかなる病でもたちどころに治るとという噂です。今となっては朝観の力に頼るより法がないのではありますまいか」

 そこで朝廷から迎えの使者が立ったが、朝観は都に出向けば法力が滅するとして、『祈祷して欲しければ病人を近江へ送られよ』と言ってよこした。そこで宇多上皇は供をつけて志賀寺に褒子を送り出した。

 本堂の中は護摩と読経の声が絶え間なく続いている。朝観は褒子一人を促して廊下づたいに奧へ奧へと案内した。長い長い廊下で、いつ尽きるとも分からぬほどである。病の身の褒子には千里の道のように果てしなく思えた。褒子は息を切らして、

「もう一歩もあるけませぬ」と細い声で言った。朝観は彼女の顔を見つめて、懐からおもむろに一枚の美しい金の貝を取り出すと彼女の手のひらに載せた。

「あなたさまの病は、仏法の力のみでは治りませぬ。病を治すことの出来るお方は、ただ一人、その貝を私にお預け下されたお方の他にはおられませぬ。全ての責任は私にありまする故、ご案じなさいませぬように」

 褒子は手のひらの貝をつくづくと眺めた。それは、遠い昔、屋敷の床に並べたて貝合わせをした時に失った、あの一枚の貝だった。

 

 中に入ると、元良親王が青ざめた顔で立っていた。親王は褒子を無言で抱きしめ、白い手を握りしめると忍び声で歌った。

  初春の初子の今日の玉はばき

手にとるからにゆらぐ玉の緒

(万葉4493) 

(この世に初めて訪れた春のこの日に、宝玉をちりばめた神聖な箒のように美しいあなたの指をこうして握りしめると、私の心はどうしようもなくゆらぎゆらめく)

 褒子は歌い返した。

  極楽の玉の台(うてな)のはちす葉に

われを(いざな)へゆらぐ玉の緒

 朝観は二人が逢瀬を重ねるときにはいつも方丈の前に立って怪しげな経文を読んでいるので、人々は、「朝観殿は褒子さまの美貌に狂い、堕落してしまわれたのだ」と声高に罵ったが朝観は気にもとめなかった。

 数ヶ月後、褒子は回復し、都に連れ戻された。そして再び親王と逢うことは許されなかった。絶望した親王は、近江の湖のあたりを徘徊しながら、涙して歌うのだった。

 わびぬれば今はたおなじ難波なる みをつくしても逢はむとぞ思ふ