百人一首ものがたり 2番 持統天皇

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 2番目のものがたり 「槌音(つちおと)

春過ぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすちょう 天の香具山

百人一首ものがたり

小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話

 山裾を巡ると目の前に小倉山が見える。六月も終わりだというのに、鴬が盛んに鳴いている。細道を騎馬の者が三人、木の葉を押し分けるように近づき、心寂坊を睥睨して通り過ぎた。道行く者は無骨な者ばかり、狩衣を纏った貴公子の姿など夢物語になってしまった。

 権中納言藤原定家様のご子息、為家様は宇都宮頼綱様の娘を妻としておられるが、頼綱様の妻は北条時政殿の娘なのだから、為家様の妻は北条時政殿の孫に当たる。後鳥羽上皇が権力の座にあった時は側近として新古今集の編纂をされていた定家様がいつの間に北条と近しくなったのか皆目分からぬが、天地が覆った世にあっても定家様がご活躍できるのは強運としか申しようがない。門をくぐり庭の踏み石を伝って南の庵に行くと、定家様は本を読んでいる。傍らの書物には『北史』とある。

「ホトトギスは鳴きましたかな」と定家は心寂坊を見た。

「はい、大井川のあたりから聞こえてまいりました」

「そうでしたか」定家は微笑したがすぐに真剣になって、

「中国と日本の王室の最も大きな違いは何だとお思いですか」といきなり訊いた。心寂坊は不意を突かれて「・・・私は『北史』のような古代中国の書物には無縁でございますので・・」

「医書には関心があっても史書には無縁ですか」

「お恥ずかしい限りですが、・・大陸には易姓革命の教えがあり、日本にはない・・それぐらいしか存じません」

「では、前漢の高祖劉邦の妻をご存じですか」

「それは・・・確か、呂でしたか・・・」

「いかにも呂后です。彼女の所行には権力者の欠点というものがよく出ています。彼女は劉邦が下っ端役人だった頃から献身的に仕え、ある時は自ら項羽の人質になって夫を助けたほどの賢婦でした。ところが劉邦が皇帝に就き多くの美女を侍らせて呂后を顧みなくなると、彼女の恨みは恐るべき復讐心を生み出しました。その的となったのは戚夫人です」

「・・」

「呂后には盈という太子がありましたが戚夫人が如意という皇子を生むと、皇帝は太子を廃して如意を皇太子に立てようとしました。ところが皇帝が突如死んだのです。呂后は時を移さず如意を毒殺し、威夫人を捕縛させて両眼をくり抜き、燃える鉛を耳の中に注ぎ込ませました。こうして目と耳を奪ってから毒薬を作らせ、喉に流して声を出すことも出来なくしたのです」

「いくら憎いといって、人はそこまでするものでしょうか」

「話はまだこれからです。呂后は威夫人の両手両足を切断させ、糞だめに放り込みました。大陸の人々は人糞を豚に食わせて太らせますから、後宮の厠でも豚を飼っていました。皇帝に就いた呂后の息子盈は、ある日母から『この頃、人豚という世にも珍しい動物を厠で飼っています。ご案内しましょう』と誘われたのでついて行くと、「そこに見たのは変わり果てた戚夫人の姿だったのです」

「・・・」

「日本と中国の王室の相違は様々ですが、日本に呂后のような女帝が存在したという記録はありません。しかし中国には地獄の闇から生まれたような女性が数多く現れました。その象徴が則天武后です。この女帝は持統天皇の在位期間とほぼ重なる時期に皇帝の位を手に入れました」

「則天武后は太宗が存命の時は妃のひとりでしたが、亡くなると尼寺に入りました。しかし太宗の子、高祖はかねてよりこの妃に心を傾けていたので、自分が皇帝の座に就くと、彼女を尼寺から引き出して妃にしました。これが高祖と大唐国の悲劇の幕開けでした」

「悲劇の」

「この女がどれほど恐ろしい化け物であったか、とても語り尽くせるものではありません。太宗の后、呂后の行為は個人的な復讐に留まっていましたが、則天武后の行為は全く異質でした。王国を根こそぎ破壊したのです」

「・・・」

「ご承知の通り、古代中国は孔子や老子などの大思想家、に代表される偉人・大思想家を輩出した大文明国です。また陶淵明・白居易・李白などの大詩人を生み、琴棋書画に代表される文化芸術を育み、インド文明と盛んに交流して、インドから伝えられた仏教を、儒教と並ぶ大宗教として尊びました。日本を始めとする周辺諸国が中国に果てしない憧れを抱いたのは、中国という国が汲めども尽きぬ知識と美の井戸のような魅力を備えていたからです。日本は聖徳太子の時代からその井戸の水を分けてもらおうと幾十度も使節を送りました。ですから私たちは中国を深く尊敬していますし、感謝もしているのです。ところが、無限と思われた美しい井戸に腐った屍を投げ込み、腐敗させ、根こそぎ破壊しようとした者が現れました。さきほどからお話ししている則天武后です」

 定家は口が渇いたのか二三度空咳をした。心寂坊が急いで白湯を手渡すと定家は一口啜ったがすぐに後を続けた。

「数千年間の中国文明をこれこれと説明するのは困難ですが、秦・漢に続いて後漢が滅びると、数百年の間戦乱の時代が続きました。魏・蜀・呉の三国が鼎立して〈三国志〉の舞台となりその後も乱世が続きましたが、そこから八柱国大将軍・十二大将軍などと呼ばれる大勢力が生まれました。

随王朝を建てた楊氏は十二大将軍の一つですし、李世民の先祖は八柱大将軍家でした。皇帝だけでなく将軍や高官たちもそうした名家から出たのです。ところが、即天武后はこれらの名族をことごとく根絶やしにしました。記録によれば、唐の王室外戚で殺されたもの数百人、大臣家も数百家族犠牲になっています。

 彼女は『告密の門』を造り、密告を奨励して邪魔者を徹底的に殺しました。優秀な官僚がどれほど殺されたか数えることも出来ません。古代中国を支えてきた頭脳と知識、豊かな感情を持つ人材をこの世から消してしまったのです。しかし人が居なければ国政を維持できません。そこで則天武后は大量の官僚を科挙によって登用しました。科挙は前漢の武帝の頃、地方から有能な人物を官僚として任用するために作られた制度で、隋の煬帝が大帝国を築いた時大規模に復活したと伝えられていますが、則天武后も自分が殺した人間の穴埋めをさせるために科挙を利用したのです」

「・・・」

「則天武后は唐の国号を破棄し、周と改めました。しかし内乱陰謀が多発し、八十二才で武后が死ぬと周の国号は改められ唐が再興されました。しかし国力の低下は如何ともしがたいものでした。即天武后の悪行が日本で起きていたらどういうことになっていたのか、想像すると身の毛がよだちますが、孔子や老子、仏陀などが二度とこの世に現れないように、人というものは雨後の竹の子のように簡単に代わりが出来るものではありません。一度虐殺が起きると、その国は数百年の間回復する事ができなくなるのです。不運にも古代中国ではそのような悲劇が幾度か起こりました。噂に寄れば広い世界には中国や天竺の他にも大文明があったそうですが、それらはみな砂漠に埋もれ、消滅したと聞いています。ですから文明は一度破壊されると再生しないのです。その点日本は幸運でした。スサノオのような独裁者も居りましたが、それは神話の話であって、歴史が始まってから後はそうした出来事は起きなかったのです。しかしだからといって日本が平穏無事だったというわけではありません。百人一首・第一番の天智天皇の時代も、第二番の持統天皇の時代も、波乱続きだったのです」

「・・・第二番?・・・」

「妙な顔をなさっていますが、どうかされましたか?」

「ハッ・・・いいえ・・・私は中納言様のお話につられて古代中国に浸り込んでおりましたので・・・突然話が百人一首に戻りまして、戸惑ってしまいました」

「そうでしたか、あまりに饒舌に語り過ぎましたかな・・・しかし第二番は持統天皇と決めているのです」

「・・・」

「最初にお話しましたように、持統天皇は則天武后とほとんど同時代に天皇の座にあったお方ですが、二人は正反対の女性でした。則天武后は夫・高宗が頭痛に苦しむとその頭に穴を二つ開けて死に至らしめましたが、持統天皇は天武天皇を生涯愛し続け、天皇が身罷ると壮大な薬師寺を建造して深く天皇を弔い、彼が念願しながらやり遂げられなかった古事記・日本書紀編纂事業を受け継ごうと努力しました。けれども彼女の悲劇はその体内に拭い去り難い過去を宿していたことです。彼女の父は天智天皇ですが、母方の祖父は蘇我山田石川麻呂、大化の改新を成し遂げた人物のひとりです。石川麻呂は二人の娘を天智天皇に差し上げておりましたが、持統天皇の母は石川麻呂の長女・遠智娘(おちのいらつめ)です。しかし石川麻呂は陰謀罪で天智天皇に殺され、遠智娘も絶望して死んだのですから、持統天皇は祖父と母を同時に失ったことになります。しかも更なる悲劇が彼女の身近に迫っていました」

「・・・」

「彼女が産んだ草壁皇子はひ弱でしたが歌や勉学に励み、母親にとってひたすら可愛い息子でした。これに対して亡くなった姉が遺した大津皇子は容姿も良く文武に秀出、群臣たちの人望はすこぶる高かったのです。持統天皇は密かに恐れました・・・やがて二人の皇子が対立し、壬申の乱の再来を見るのではないか・・・」

「・・・」

「持統天皇は苦悩の果て、ついに、大津皇子を陰謀罪によって刑場へ送りました・・・彼女は則天武后とは違います。犠牲者は一人でした・・・しかし、重大な出来事でした。大津皇子の歌は万葉集にも残されていますし、彼を慕う人々は大勢いたのですから・・・それだけに天皇の苦悩は深かったと思われます」  定家は初夏の日差しを避け、巻物を持って木々の間にしつらえた小庵に腰を下ろした。ホトトギスの声が鋭く響く。定家は腫れぼったい目を開き、低い声で読み始めた。

二番目のものがたり 「槌音つちおと)

 彼女は(しとね)に身を横たえて物思いに浸っていた。同じ思いがぐるぐると輪を描いて頭の中を飛び回る。脂汗が額から頬に流れ、汗は火ぶくれのように額に盛り上がって流れ落ちる。天井の波板が外の光の陰影の反射でゆらゆらと揺れ動く。その揺らめきの中に妃や皇子たちの顔が陽炎のように見える。

 夫は何を考えているのだろう。壬申の乱に勝利し、天皇に即位して八年が過ぎた。それなのに私の息子、草壁皇子を皇太子に立てようとしない・・・姉の子、大津皇子を立てる気なのか・・・誰もが大津皇子を誉め称える、すべての点に於いてぬきんでていると万人が認めている・・・だが、彼の母は死んだのだ。もしも姉の大田皇女が生きていたら、姉が皇后なり、大津皇子は皇太子になっていただろう・・・けれど今は私が・・・夫はもう私を必要としていないのだろうか・・・夫が大海人皇子であった時、私は十三歳で妃となった。姉の太田皇女も同時に夫の妃となった・・・そればかりではない・・・三番目の妹の大江皇女も、末の妹・新居田部皇女も・・・私の父が天智天皇で、その弟が私の夫であり、私を含む四人の姉妹が夫の妃というのは・・・思うだに息苦しい。父がそこまでして自分の弟に娘たちを妃に出したのは、夫の能力がずば抜けていたからだ。それにあの頃は兄弟の絆を揺るがぬものにしなければ、国が立ちゆかない時だった。

 私が夫に嫁いだ頃、百済は唐・新羅の攻撃を受けて存亡の危機にあり、日本に助けを求めてきた。斉明天皇は百済に援軍を送ることを決し、大軍を軍船に乗せて筑紫に向かった。この時、女帝は六十八歳におなりになっていた。私も姉も同じ軍船に乗船し、日々先勝を祈願した。姉が大伯皇女を船中で生んだのは軍船が吉備の国の沖にさしかかった時だった。〈戦場へ向かう軍船で皇女が生まれるとは、神功皇后の再来ぞ〉、と全軍が歓呼したのでした。けれど筑紫で斉明天皇が突如身罷り、百済へ向かった一千艘の軍船と三万二千の大軍は白村江の戦いで壊滅した。筑紫からの帰途、軍船は寂として声無く、姉が生んだばかりの大津皇子の泣き声がむなしく波間に消えるばかりだった。あの頃は誰も彼もが唐・新羅軍が明日にも侵攻しているのではないかとおびえていた。私たち姉妹も肩を寄せ合い、励まし合って、その日その日を必死の思いで生きていた。

 しかし幸いにも唐が則天武后の悪行で弱体化し、内乱が各地で勃発すると遠征軍は統率の取れぬ烏合の衆となり、雪崩となって都に逃げ帰った。こうした大陸の状況が日本に伝わると、世の中は急速に落ち着きを取り戻した。天皇は都を飛鳥から近江に遷都し、天智六年(667年)大津近江宮で正式に即位した。、

遷宮の儀式がすべて滞りなく行われ、皇宮の全ての妃は近江宮に移り住んだ。しかし近江に移っても、心は落ち着かなかった。

夫は私たちだけでは満足できず額田王をも愛妾にしていた。彼女は王族の出ではないが、その美貌と抜きん出た歌の才で夫を虜にした。夫は彼女のために毎日のように園遊会を催した。

 私たちはこのような日々がいつまで耐えられるだろうかと夫を恨めしく思い、額田王を密かに憎んだ。しかし思いもよらない幸運が舞い込んだ。父・天智天皇が額田王を夫から略奪したのだ。私たちは救われた思いだった。ところが妙な噂が飛び交っていた。夫は愛人への執着が捨てきれず、父の目を盗んで額田王と密会を重ねているという。本当だろうか、疑心暗鬼している時に一つの歌が評判になった・・・

茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が手をふる

この歌が夫のものと聞いた時、あまりのことに、しばらく水も喉を通らなかった。

 しかし額田王の心も次第に父の方に傾き、夫もあきらめたので、私には平穏な日々が訪れた。

群臣は夫を天皇同様に尊敬していた。父も夫の実力を無視できず、太政大臣の地位を約束した。ところが突然平穏な日々は破られた。父は夫から太政大臣の地位を剥奪し、私の腹違いの弟、大友皇子にその地位を与えてしまった。琵琶湖を見下ろす高台の大宴会の真最中、夫は二間もある大槍を振り回して暴れ、穂先を床に突き立てた。もしも鎌足が命がけで取りなさなかったら父は夫を殺したろう。

 しかし鎌足が亡くなると父を制御できる人物はいなくなった。父は病床につくと、自分が生きているうちに夫を殺さねばなければならないと考えた。

ある日、夫は突然父から呼び出しを受けた。夫は「私は必ず生きて戻ってくる」と言い置いて宮中に出かけた。

戻ってきた時、夫は頭を丸め、僧侶の姿になっていた。「こうでもしなければ兄は私を殺しただろう。私は直ぐに吉野に入る。そなたが父を取るならここに残れ。だがもし私を取るなら、私には謀反の意志がないことを命がけで説得するのだ」これを聞いて私は一切を悟り、父の元に急いだ。

 父がすぐさま追っ手を差し向けていたら、夫は間違いなく殺されていたろう。その期を逸したのは、私が夫に異心がないことを必死で説いたからだ。

 私は父を説得した後、密かに夫に追いつき、吉野の山の中を逃げ回った。従う者はわずか三十人、豪族の動向は皆目分からず、私は夫と共に生死の境をさまよっていた・・・程なくして父の死を伝える者があり、夫のもとには大伴連吹負ら有力豪族が陸続と集まった。やがて朝廷軍に大勝利して夫は天皇に即位した・・・

 私は夫が新しい国造りをして行くのをひたすら助けた。夫の今があるのは、私の力が大いに預かっているという事は誰もが認めている・・・だが、何という罪作りな夫だろう。私との間には草壁皇子があるが、死んだ姉には大津皇子があり、三番目の妹・大江皇女には弓削皇子、末の妹・新居田部皇女には舎人皇子がいる。その上、藤原鎌足の娘の五百重娘にも新居田部皇子を生ませ、蘇我赤兄の娘には穂積皇子を宍人臣大麻呂の娘には忍壁皇子と磯城皇子を生ませている。この中の誰が皇太子になるのだろう・・・仮に私の草壁皇子が立ったとしても、後の皇子のうち何人が味方してくれるだろう・・・。

 脂汗がしきりに額から頬に流れ落ちる。口が渇いて喉がひりひりする。暑い、空が燃えている。雷のような音が聞こえる。森の中を馬が駈けてゆく。一頭、二頭、三頭。まるで天馬が翔るようだ。先頭を行く若者の額は真っ青だ。つり上がった目、細い首、背には矢筒を負い、腰には立派な剣を下げ、馬には蔦漆の鞍をつけている。

 もしや、あの若者は・・・私の息子・草壁皇子・・・横に従っているのは鎌足の子新居田部皇子、そして妹の子の舎人皇子らしい。彼らの後ろから四人の貴公子が迫ってくる。先頭の若者は馬を疾走させながら大弓を構えている。あれは、大津皇子ではないか。その後に続くのは弓削、忍壁、穂積それに磯城皇子。彼らは私の息子を殺そうとしているのだ・・・先を行く二人の皇子は追っ手に気づいた・・・草壁の皇子は馬に鞭を入れた。と、突然、道が切れて深い谷が口を開けている・・・アア・・・恐れていたことが起きる・・・。

  はっと目を覚ますと雲が虹色に淡く光り、夫の顔がそこにあった。

「具合はどうだ」彼は優しく言った。「そなたのために寺を建立することにした。薬師如来を祀る薬師寺だ。百人の僧侶に日夜そなたの快癒を祈らせよう。万人が全快を待ちかねている。私も心から待っているのだ」

 彼女は目を閉じた。もしかしたら、夫は私の心を何もかも承知しているのではないか。私のために寺を建ててくれるということは、他の誰よりも私を愛してくれていると言いたいのではないだろうか。そして私をそれほどに愛して下さるということは、私の息子も・・・彼女は心がかすかに晴れるのを感じた。

 どこからか槌音が響いてきた。寺を建てている音。彼女はその音を子守歌に聞いて静かに眠った。

 空が青く澄み渡ったある日、彼女は寺を見に行こうと決心した。皇后を乗せた輿を中心に長い行列がつづく。のどかな飛鳥の野原に初夏の風が吹き渡る。美しい稲田が一斉に揺れ、山の端に干した衣が緑にまぶしい。彼女は細い声で歌った。

春過ぎて夏きにけらし白妙の 

     衣ほすちょう天の香具山

 胡蝶が皇后の輿の周りを群れ飛んでいる。はるかかなたに霞が漂っている。その向こうは目をこらしても何も見えない。彼女はその靄の中に未来が隠れていることを知らない。突然訪れる夫の死、大津皇子の刑死、息子・草壁皇子の急逝。そして彼女自身が夫の跡を継いで天皇の地位に就く、そんな未来が潜んでいることを彼女は何も知らない。

参考資料・ 日本書紀第二九巻 天武天皇九年