百人一首ものがたり 19番
目次
難波潟 みじかき葦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや
百人一首ものがたり
- 百人一首ものがたり 100番 順徳院
- 百人一首ものがたり 10番 蝉丸
- 百人一首ものがたり 11番 参議篁
- 百人一首ものがたり 12番 僧正遍昭
- 百人一首ものがたり 13番 陽成院
- 百人一首ものがたり 14番 河原左大臣
- 百人一首ものがたり 15番 光孝天皇
- 百人一首ものがたり 16番 中納言行平
- 百人一首ものがたり 17番 在原業平朝臣
- 百人一首ものがたり 18番 藤原敏行朝臣
- 百人一首ものがたり 19番 伊勢
- 百人一首ものがたり 1番 天智天皇
- 百人一首ものがたり 20番 元吉親王
- 百人一首ものがたり 21番 素性法師
- 百人一首ものがたり 22番 文屋 康秀
- 百人一首ものがたり 23番 大江千里
- 百人一首ものがたり 24番 菅家
- 百人一首ものがたり 25番 三条右大臣
- 百人一首ものがたり 26番 貞信公
- 百人一首ものがたり 27番 中納言兼輔
- 百人一首ものがたり 28番 源宗于
- 百人一首ものがたり 29番 凡河内躬恒
- 百人一首ものがたり 30番 壬生忠岑
- 百人一首ものがたり 31番 坂上 是則
- 百人一首ものがたり 32番 春道列樹
- 百人一首ものがたり 33番 紀友則
- 百人一首ものがたり 34番 藤原興風
- 百人一首ものがたり 35番 紀貫之
- 百人一首ものがたり 36番 清原深養父
- 百人一首ものがたり 37番 文屋朝康
- 百人一首ものがたり 38番 右近
- 百人一首ものがたり 39番 参議等
- 百人一首ものがたり 40番 平兼盛
- 百人一首ものがたり 41番 壬生忠見
- 百人一首ものがたり 42番 清原元輔
- 百人一首ものがたり 43番 権中納言敦忠
- 百人一首ものがたり 44番 中納言朝忠
- 百人一首ものがたり 45番 謙徳公
- 百人一首ものがたり 46番 曽禰好忠
- 百人一首ものがたり 47番 恵慶法師
- 百人一首ものがたり 48番 源重之
- 百人一首ものがたり 49番 大中臣能宣朝臣
- 百人一首ものがたり 50番 藤原義孝
- 百人一首ものがたり 51番 藤原実方朝臣
- 百人一首ものがたり 52番 藤原道信朝臣
- 百人一首ものがたり 53番 右大将道綱母
- 百人一首ものがたり 54番 儀同三司母
- 百人一首ものがたり 55番 大納言(藤原)公任
- 百人一首ものがたり 56番 和泉式部
- 百人一首ものがたり 57番 紫式部
- 百人一首ものがたり 58番 大弐三位
- 百人一首ものがたり 59番 赤染衛門
- 百人一首ものがたり 60番 小式部内侍
- 百人一首ものがたり 61番 伊勢大輔
- 百人一首ものがたり 62番 清少納言
- 百人一首ものがたり 63番 左京大夫(藤原)道雅
- 百人一首ものがたり 64番 権中納言定頼
- 百人一首ものがたり 65番 相模
- 百人一首ものがたり 66番 大僧正行尊
- 百人一首ものがたり 67番 周防内侍
- 百人一首ものがたり 68番 三条院
- 百人一首ものがたり 69番 能因法師
- 百人一首ものがたり 70番 良暹法師
- 百人一首ものがたり 71番 大納言経信
- 百人一首ものがたり 72番 祐子内親王家紀伊
- 百人一首ものがたり 73番 権中納言匡房
- 百人一首ものがたり 74番 源俊頼朝臣
- 百人一首ものがたり 75番 藤原基俊
- 百人一首ものがたり 76番 法性寺入道前関白太政大臣
- 百人一首ものがたり 77番 崇徳院
- 百人一首ものがたり 78番 源兼昌
- 百人一首ものがたり 79番 左京大夫顕輔
- 百人一首ものがたり 80番 待賢門院堀河
- 百人一首ものがたり 81番 後徳大寺左大臣(藤原実定)
- 百人一首ものがたり 82番 道因法師
- 百人一首ものがたり 83番 皇太后宮大夫(藤原)俊成
- 百人一首ものがたり 84番 藤原清輔朝臣
- 百人一首ものがたり 85番 俊恵法師
- 百人一首ものがたり 86番 西行法師
- 百人一首ものがたり 87番 寂蓮法師
- 百人一首ものがたり 88番 皇嘉門院別当
- 百人一首ものがたり 89番 式子内親王
- 百人一首ものがたり 90番 殷富門院大輔
- 百人一首ものがたり 91番 後京極摂政前太政大臣
- 百人一首ものがたり 92番 二条院讃岐
- 百人一首ものがたり 93番 鎌倉右大臣
- 百人一首ものがたり 94番 参議雅経
- 百人一首ものがたり 95番 前大僧正慈円
- 百人一首ものがたり 96番 入道前太政大臣
- 百人一首ものがたり 97番 権中納言定家
- 百人一首ものがたり 98番 従二位家隆
- 百人一首ものがたり 99番 後鳥羽院
- 百人一首ものがたり 2番 持統天皇
- 百人一首ものがたり 3番 柿本人麻呂
- 百人一首ものがたり 4番 山部赤人
- 百人一首ものがたり 5番 猿丸太夫
- 百人一首ものがたり 6番 大伴家持
- 百人一首ものがたり 7番 阿倍仲麻呂
- 百人一首ものがたり 8番 喜撰法師
- 百人一首ものがたり 9番 小野小町
小倉庵にて 権中納言藤原定家と主治医・心寂坊の対話
「心寂坊殿は歴史上最も美しい女性はどなただったとお考えですか」
夕暮れの軒先に雨が降り注いでいる。心寂坊はこれはどうも「雨夜の品定め」のようだなあと思いながら、「私がすぐに思いますのは衣通姫とか小野小町の名でございますが、延喜の御代にご活躍された伊勢殿などは、実際に居られた方でございますし、お二人の帝の寵愛を受けたほどですから、おそらくは楊貴妃よりも優れた美女ではなかったかと存知ます」と答えると、定家は「楊貴妃よりも優れているとは、どのような意味でしょうか」と訊ねる。そこで心寂坊は、
「楊貴妃の美しさは白楽天が長恨歌に詠って居りますからどれほどのものかおおよその想像はつきますが、伊勢殿はただ美しかっただけでなく、見事な歌をご自身で詠んでおられますから、その意味では伊勢殿のほうが優れた女性ではなかったかと思っておるのです」
これを聞いて定家は日頃の体の痛みもすっかり忘れたように上機嫌になって、
「さすがは心寂坊殿、私も全く同感なのです。楊貴妃がいかに美しかろうとも、纏足をされて両肩を支えられねば歩けないような女性に魅力を感じるというのは唐の国では当たり前だったのでしょうが、我が国の美女には相応しくない。ところが伊勢殿は宮中を天女が舞を舞うように優雅に振る舞っておられたのですからね、この点では他のどなたも遠く及ばぬところでしょう」
定家はこう述べながら、書写した書物を棚から取りだしてきた。
「これをごらん下さい」
「・・・・・・源氏物語・・・桐壺でございますか・・・」
「いかにも」定家がそう言いながら頁をめくって指さすところを見ると次のように記されている。
『このごろ明け暮れご覧ずる長恨歌の御絵、亭子院の描かせたまいて、伊勢貫之に詠ませたまへる大和とこの葉をも、唐土の詩をも、ただその筋をぞ、枕言にせさせたまふ』
「ここに・・・伊勢・・・貫之と記されておりまするな」
「そうなのです」
「・・・私は源氏物語を拝借して大急ぎで目を通したことがありますが、このような部分がありましたことなど、少しも覚えてはおりませんでした」
「この部分は、桐壺の更衣が帝の寵愛を一身に受けて光源氏を生むのですが、弘徽殿の女御たちの嫉妬と迫害に耐えきれずこの世を去ってしまわれる、悲嘆暮れた帝は明けてもくれても桐壺の面影を思い出してぼんやりと時をお過ごしになっておられた、そのつれづれの日々、眺めておられたのが伊勢と貫之の歌を記した屏風絵だった、その場面なのです」
「・・・」
「ご承知の通り、源氏物語という読み物は紫式部が想像で描いた王朝絵巻のようなものですから、光源氏や薫の君が誰であったのか、いろいろと想像をかき立てますけれど、これ断定することは到底できないことです。ところが、この物語五十四帖の中にただ二人だけ現実に存在した人間の名が登場する、それが伊勢と貫之なのです」
「たった二人なのですか」
「はい。しかも、この物語で帝がごらんになっておられる屏風がどのようにして創られたのか、そのいきさつとも見える記録が残されているのです」
「まことでございますか」
心寂坊がいかにも驚いた顔をしているので、定家は微笑んで次のような話をした。
亭子院(宇多上皇)の後を継いで醍醐天皇が即位なされましたが、天皇は皇子が生長されると御袴着の際に使う屏風を創らせてようとお考えになられました。もちろんただの屏風ではありません。絵描きの名人には四季折々の絵を描かせ、当代一の歌人たちにそれらの絵に相応しい歌を詠ませ、その歌を小野道風に命じて、色紙形の紙に書かせて屏風を仕上げるという趣向にしたのです」
「それはお話をお聞きするだけで胸が高鳴りまする・・・そこに歌を詠まれたのが・・」
「左様、貫之、凡河内躬恒といった錚々たる方々でした。小野道風はそれらの歌を次々に書き記しておりましたが、ふと春の帖見ると、桜の花が咲き誇っている山道に女車が通りかかっている絵がある。ところがこれにふさわしい歌が見あたらない。貫之等がこの絵を見落としたというわけでもなかろうが、さて、どうしたものかと考えた末に、道風は、
「これはいかがいたしましょうや」と醍醐帝に申し上げた。すると帝はあれこれと叡慮をめぐらせておられたが、伊衡(これひら)少将を召し出して、
「そなたはこれから伊勢の御息女のもとにまいってことの次第を説明し、歌を詠進するようにと申してまいれ」とお命じになられた。つまり、帝は春の山道の絵に相応しい歌を詠めるのは伊勢だけであろうとお考えになられたのです。そこで伊衡少将はさっそく伊勢殿のもとを訪れました。と申しますのは、伊勢殿はそのころ太政大臣の次男で後に左大臣となった藤原仲平との恋に破れて宮中を離れ、逼塞していたのです」
「仲平と申しますと、あの、悪名高い時平の弟」
「そうなのです。伊勢殿の、難波潟の歌は、実はこの歌は仲平との恋の辛い思いを詠ったものなのです。仲平は太政大臣藤原基経の次男で、兄は時平。時平はご指摘の通り、菅原道真を太宰府に左遷して悪名を馳せた人物です。
伊勢殿は宇多帝が天皇の地位にあった頃、中宮温子(おんし)につかえておりましたが、やがて仲平と密かに言い交わすようになった。しかし仲平は別の女と結婚し、伊勢との仲も人に知られるようになって破局が訪れた。その時伊勢が詠んだ歌。
人知れず絶えなましかばわびつつも無き名ぞとだに言はましものを 古今集・810
(あなた様との仲がせめて人の口にのぼらないうちに自然に切れてしまったのでしたら、どんなに辛かろうとも、あれは最初から何にもなかったことなのですよ、と言いたかったものを)
しかし仲平からすれば弁解の余地はあったようで、大鏡・左大臣仲平の項に、
花すすきわれこそしたに思ひしか穂に出でて人にむすばれにけり
(あなたは花すすきをそのように結んで何か心に願い事をしているようですが、私こそ心のうちに深く思っていたのです。それなのに、あなたは他の人とおおっぴらにむすばれてしまったのはなんとしたことでしょうか) 古今集748
このような恋の果てに、伊勢殿は身を隠してしまったのです。ですから宮中では伊勢殿が雲隠れしてどこにいるのか分からない。しかし帝のご命令ですから、伊衡少将はあれこれと手を尽くして探し、五条のあたりに隠れ住んでいるということを突き止めて、さっそく屋敷を訪ね、取り次ぎの女房に、
「春の山道にふさわしい歌をお詠み頂いてまいれと延喜の帝の仰せでございますので、是非ともお願い申し上げます。小野道風は屏風の前で歌が届くのを待っておりますので、私は歌をお詠み頂くまで、この場でお待ち申し上げます」。
これを聞いて取り次ぎの女房はあまりの急な仰せなのに驚いて言ったがお゛、その屋敷はさほど大きくはないので、伊勢の声がほのかに聞こえる。少将はその声を漏れ聞いて、『けはい気高く愛嬌づきて故あり、世の中にはこのようにすばらしいお方もいるものなのだろうか」とすっかり感嘆してしまいました。やがて少将は屋敷の中に案内されて行きますと、弥生の頃で、桜が庭一面に咲き乱れて香りがただよっている。女童や女房たちが酒杯を取りそろえて奨めるので杯を重ねているうちに、ここはもしや天女の住処ではなかろうかと思いはじめました」
「それは、いかにも、少将ならずとも、そのような気持ちになりますでしょう」
「すっかり良い心地になっていると、御簾の奥に人の気配がしたので、ふと頭を上げると、薄紫の装束をかぶり物にしたお方がおいでになられて、紫の紙に書き記した歌を御簾の下からそっと押し出した。
「なんとあざやかな色であることか」と伊衡は歌を書き付けた色紙に感嘆して、御簾の内を見ると、もう姿は見えない。少将はしきりに気になったが、内裏の人々が待ちかねておられるだうと思うと気が気ではないので、牛車に乗って道を急いだのです」
「いかにも名残惜しいことでございまするな」
「果たして、内裏では『伊衡はまだ戻らないのか』と大勢で待ちかねて、殿上口のあたりまで先駆けの物見まで立てていたのでしたが、ようやく帰って来たので『少将様がお戻りになられました、お戻りになられました』と大声で触れ回りました。
伊衡は大急ぎで清涼殿に入り、伊勢殿からお預かりした歌を帝に奉りますと、いかにもすばらしい文字で歌が記してある。
「この文字は小野道風よりも優れた手の者のようではないか」帝が賛嘆なされて、書き記されいる歌をお詠みになられた。
散り散らず聞かまほしきを故郷の
花見て帰る人も逢はなん
道風はこの歌を幾度も口ずさんでから筆をとって屏風に書き付けました。するとこの歌が大評判となり、『伊勢殿は貫之・躬恒にも劣らぬ歌人である』と噂されて、宇多上皇のお耳にも入って、御傍にはべるようになった。そして行明親王がお生まれになりましたので、伊勢殿はそれから「伊勢の御」と呼ばれるようになったのです」
「なんとも、物語そのものの人生をお送りになられたのですね」
「これだけではありませんよ。宇多上皇は落飾して仏門に入り、伊勢殿が生んだ親王も幼くして亡くなられた。こうなると伊勢殿の周りに仕えていた女房たちも飛び立つ鳥のようにいなくなって、伊勢は「舟ながしたるここち」になりました。歌と美貌だけで上皇の寵愛を受けておりましたが、家柄が取り分けてと良いというわけではなかったので、付き従う人々も頼りなく思って離れてしまったのです」
「・・・」
「けれどもそのような境遇にあっても彼女の魅力はますます妖艶さをましたのでしょうか、宇多天皇の第四皇子敦慶親王の愛を受け入れることになったのです。けれどもそれも長続きせず、晩年は孤独の内に日々を送り、やがて屋敷を売らなければならない境遇に落ちて、やがて行方知れずになったということです」
「・・なんと、それほどのお方が・・で、最後はどのように」 「・・それは・・ともかく、こうした人生を送られた伊勢殿の物語にまつわるお話を書いてみましたので、ご覧下さい」と定家は文箱から巻物を取りだした。
第19番目のものがたり 「飛鳥川」
左大臣仲平は動転していました。天慶二年十一月、東国の武将平将門が反乱の兵を起こし、常陸国の国衙軍三千をうち破り、国府を占領、勢力を関東八カ国に拡大して自ら親皇と称し、反乱軍の根拠地下総に帝都を築こうとしていると言う知らせが届いたからです。朝廷は慌てふためいて、すぐさま鎮圧軍を派遣しようとしましたが、兵が集まらずに時が過ぎ、東海道・東山道追捕使の体制が整ったのは年が明けた天慶三年の一月になってからでした。続いて二月、全軍を指揮する征夷大将軍として藤原忠文を任命、同月八日、官軍はようやく都を進発しました。馬蹄の響きが築地に反響して都の空に重く響き、真冬の風に馬糞が舞って、異様な雰囲気が内裏にも漂っていたのです。そんなある日、仲平のもとに一通の文が届きました。差出人はとみると、名は記されておらず、文の後ろに歌が書き付けてあるのです。
南無薬師憐れみ給え世の中に
ありわづらふも同じ病ぞ
いったい、誰の文か、考えても思い当たらなかったので、後で読もうと思って文箱に入れ置いたのですが、東国の戦況が気になってならず、いつの間にか忘れてしまったのでした。万が一反乱軍が藤原忠文の朝廷軍を破り、都に迫ってきたらどうしたらよいのか、そのことを考えると、仲平は居ても立ってもいられなくなり、夜も眠れぬ日々が続いていたのです。
と、ある日突然、吉報が届きました。藤原忠文の軍勢が到着する前に、下野国押領使・藤原秀郷が平貞盛と同盟して反乱軍をうち破り、将門の首を討ち取ったというのです。いったい、これは本当なか、と、仲平は小躍りしたい気持ちを抑えて、正式な報告を心待ちにしていると、征夷大将軍藤原忠文から「平将門は既に討ち取られ、我軍は反乱軍を各地で誅滅しつつあり」という知らせが届いたので、仲平は一時に重苦しい不安から解き放たれて、何十日かぶりで屋敷に戻るとほっと安堵のため息をついて床に腰を下ろしました。そして何気なしに文箱を見ると、蓋の上に文が載っている。これはいつぞや届いた文ではないか。あの時確か、文箱の中に入れたはずだが、と不審に思って開いてみると、歌が一首書き付けてありました。
飛鳥川淵にもあらぬ我が宿も
せに変わりゆくものにぞありける
これはどういう歌か。仲平はあれこれと考えみましたが、少しも分かりません。そこで翌朝使いを出して紀貫之を呼ぶことにしました。
貫之はすぐさまやってきて、ひと目見ると、
「これはどなたか、左大臣様にゆかりのある女人が生活に窮して、屋敷を売りに出し、銭に換えたという歌でござります」
「屋敷を売って銭に換えたとな」
「いかにも・・・歌の意は次のようなものでござります。さてもこの世はいつも飛鳥川の流れに翻弄されて、瀬が淵になり、淵が瀬になるという憂き目を見ておりますが、私も世の移りのままに流されて、住み慣れた宿も気がつくと瀬(銭)になってしまい、私は棲む宿もなく流されてゆく、なんとわびしいことでしょうか、とこのようでごさりましょう。このような歌を左大臣様に届けになられるとは、よほど未練のあるお方なのでござりましょう」
いったい誰だろう。仲平は筆の跡をつくづくと眺めたが、見ているうちに、この数週間、将門の乱のために横になる間もなかったので疲れがどっと出たのだろうか、突然睡魔に襲われて、貫之がいとまを告げて帰ったのも気付かず、深い眠りに落ちてしまったのでした。
*
仲平は松原を一人で歩いていました。すると美しい琴の響きにのって、歌が聞こえてきたのです。
わたつみとあれにし床を今更に
はらはば袖や泡とうきなん
(大海原に翻弄されるように、私とあなた様の間は離ればなれになってしまいました。私たちが慣れ親しんだ床には塵がつもってしまい、その塵を払おうとすると、涙に濡れた袖は憂き悲しみから生まれた涙の泡で浮いてしまいそうな気配がいたします)
琴の音がする方に急いで歩いてゆくと、女童が松の根方に立っています。そこで彼は急いで歌を書き付けると、「これをお前のご主人に届けなさい」と手渡しました。その歌というのは、
よひの間にはや慰めよいその神
ふりにし床もうちはらふべく
(あなたと私との間はさまざまな出来事に妨げられて逢うこともできませんでしたが、やはり私はあなたと以前のように物語りしてお逢いしたいと思います。ですから私たちの寝床につもった塵を払ってお待ちになって下さい)
女童は文を受け取ると松の林をどこまでも歩いてゆきます。仲平がこっそりと後をつけると、不意にその姿が消えて、松の枝に文が結びつけてあるのでした。
知るといえば枕だにせで寝しものを
塵ならぬ名のそらに立つらむ
(寝室の枕というものは恋の秘密を何もかも知ってしまって、誰かに二人の睦言をおしゃべりするということですから、私はあなた様と共に寝るときには、枕をせずにお待ちしておりました。そんな私をあなた様は幾度も抱擁してくださり、気の遠くなるような恍惚の時を幾度も過ごしましたが、せっかく枕もせずにふたりだけの夜を過ごしましたのに、いつの間にか二人の噂が空に立ち上って、都に漂ったことがありましたわね。今思えば、なんと懐かしい思い出でしょうか。)
仲平は文を懐に抱きしめて、「ああ、そなたは伊勢・・どうか、私のもとにの戻ってくれ・・・私はおろかだった。国事に心を奪われて一番大切なことをすっかり忘れてしまっていた。どうか、許してくれ。私のもとに戻ってくれ」
すると今度はまるで地の底から響くように、かすかな声が聞こえてきたのです。
春ごとにながるる川を花と見て
折られぬ水に袖やぬれなむ
(春になると花が咲き、鳥が鳴いて心が華やぎ、春に見とれて、心が虚ろになりましょう。そして流れる川面に映る花に見とれ、ほんとうの花と見違えて、枝を手に取ろうとして手を伸ばすと、袖が水に濡れて、はっとして、それが花の影だと気がつくのです。そのように、時の流れに流されながらあなた様の目を奪った私を、咲きにおう花と見て、今私に手を伸ばそうとなさっておられますけれど、ほんとうの私はとうの昔に流れに流されて、あなたさまの手に届かぬところに行ってしまっているのです)
「いいやそんなことはない。そんなことはない。私は今度こそ心に決めたのだ。私はそなたに逢いたい、ただそののぞみの他はなにもない、どうか、分かってほしい」
仲平はそう行って足を踏み出しました。するとそこは深い川でした。月の光が川面を照らしてます。この川はどこから流れているのだ、仲平が呆然としていると、月の川面を文が流れてきたのです。
思ひ河絶えず流るる水の泡の
うたがた人にあはで消えめや
(この川は私が絶えずあなた様を想って流れている思い河なのです。この川に浮かぶ泡沫のようにはかない私ですけれど、私はあなた様に何としてもお逢いしたい、逢わずにこのまま消えてしまうことは絶えられないと、思い続けておりました。でも川の流れは激しくて、私は堪えきれず、とうとう押し流されてしまいました。ああ、このままお逢いできずに消えるのは何と心残りのことでしょうか)
仲平はこれを聞くと胸が張り裂けそうになり、そのままざんぶと川に身を投げて女の後を追いました。月の光が水底に沈んだ仲平の姿をかすかに照らしているばかりです
*
「左大臣様、左大臣様」
立ち騒ぐ声がするので、目を覚ますと、大勢の家人が心配そうにのぞき込んでいるのです。
「何を騒いでおるのじゃ」
「どうなされました。うなされておられましたが」
「何と・・・夢だったのか」
「そのように青い顔をなされて、悪夢でもごらんになられましたか」
家人を振り払い、仲平が馬をとばして五条の伊勢の屋敷にやってくると、門は閉じられ、まるで人気がありません。門を押し開けて中に入ると、庭には八重葎が生い茂り、屋根には忍ぶが風に吹かれています。蜘蛛の巣の張った屋敷には盗人が入ったのでしょうか、調度は何一つ見えず、床板が至るところで破れているのです。
「まるで狐でも棲んでいそうな荒れようですな」供人がつぶやきました。
仲平は無言で奧に入って行きました。すると、破れた御簾の奧に老婆が美しい錦の襲を着てこちらを見ていたのです。
「左大臣様、長らくお出でをお待ち申し上げておりました」
「そなたは・・・」
「伊勢の御息所にお仕えしていたものでございます。そなたさまがお出でになられましたら、これをお渡し下さいとのことでした」
老婆は組み紐で結んだ朱塗りの手箱を手渡した。急いで紐を解き、箱を開けると、歌が入っていた。
難波潟みじかき葦のふしの間も
逢はでこの世を過ぐしてよとや
(難波潟の短い葦の節の間も、あなた様と逢わずにはおられずに、ただひたすらあなたさまを恋い慕って生きてまいりました。あなた様が次第に遠ざかられ、お逢いできない時が重なっても、いつかまたあの夢の日々が戻ると信じて、私は生きていたのです。でも、あなた様は行って仕舞われた。葦の間も離れずにこうして抱き合っていようと私の耳に囁かれたのに、あなたは行ってしまわれた。でも、私は逢わずに生きてゆかれない。あなた様にお会いできずにこの世を過ごすことは出来ないのです。ですから私は、あなた様がお戻りになるのを、何年も何年もお待ちしておりました。でも、とうとう) 仲平はあたりを見回した。誰もいない。破れた御簾が風にふらふらと靡いている。仲平は文を握りしめて、いつまでもその場に立ちつくしていたのです。