百人一首ものがたり 18番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 一番目のものがたり「阿衡(あこう)

住之江の 岸に寄る波 よるさへや 夢のかよひ路 人目よくらむ

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

 定家は心寂坊に灸を据えてもらいながら

黙っていた。心寂坊も口を利かなかった。夏の終わりの雨が庭の木々をぬらしている。心寂坊は先程まで定家が教えてくれたさまざまな話しを灸の煙を見つめながら思い出していた。

「もしも私が藤原敏行というお方と同じ時代に生まれていたらずいぶん嫉妬をしたでしょうね」

「嫉妬?」

「一番許せないのは美男だった事です。私は幼い頃に赤斑瘡に掛かってこのようにあばたのある醜男になってしまいましたが、敏行は業平と甲乙つけがたいほど良い男であったようです。いいえ、これは本当の話です・・・敏行が早死にしたのは、あまりにも多くの女と閨を共にしたからだと言われておりますよ。しかしそれだけ良い思いをしたと思えばあきらめもつくでしょう」

「どうも・・・中納言様のお言葉とも思えませぬ。人の命は何にも代え難いものでござります」

「心寂坊殿は医者だからそのように考えるのでしょう。しかし彼が独り占めにしていたのは女だけではありませんよ。能筆家としても天下に並びないほどの高名を得ていたのです・・・ご承知の通り私は生来の悪筆で、いくら努力しても少しも上達しません。ところが敏行は努力もせずに天下一の書家と評判をとったのですから神仏も依怙贔屓をするとしか思えませんね」

「何を申されますのやら・・・私は中納言様の文字は他の方には真似の出来ない良さがあると存じます」

「他の人に真似ができないのではなく、私の文字など誰も真似ようとしないというのが真実です。ところが敏行は正真正銘の天才でした。その証拠にある時村上天皇が小野道風を召し出して《古今の妙筆は誰をもって最上であると思うか》とお尋ねになられたところ、『筆頭は弘法大師空海、そして、いま一人挙げるとすれば藤原敏行殿でござりましょう』と答えたと伝えられています・・・いくらなんでも弘法大師と並ぶ能筆家などはどういう事かと思うばかりですが、その頃は法華経を写経して菩提寺に納めると極楽往生出来るという信仰があったので、敏行のもとには写経の依頼が殺到したのですから彼の筆名が如何に高かったかお分かりになりましょう・・・ところがそれが敏行の仇となって地獄に堕ちたのですから皮肉なものです」

「それはなぜでござりますか」

「本来写経というのは神聖な修行ですから、法華経を写経するときは精進潔斎し、身を慎み、心を改めて書かなければなりません。ところが敏行はあまりにも女に好かれたために法華経を写す間もその道を断つことができませんでした。敏行に写経を依頼した人々はそうとは知らず〈天下一の敏行殿が写経した法華経を奉ったのだから当然極楽に行けるであろう〉と信じ、安心して往生したのですが、気がつくと地獄に堕ちている。それで依頼人たちは激怒し、敏行を地獄に引きずり込んで、閻魔大王に『藤原敏行という男は私共を騙し、法華経を穢しました。どうかこの者が冒した罪に相応しい極刑を言い渡して下さい』と願い出たところ大王は『このふとどきな男の体を二百に切り刻んでしまえ』と言い渡したのです。二百という数は、敏行が書写した法華経の数字です・・・しかし考えて見ればおかしな話しですよ。敏行にも非はありますが、依頼人は自分で書きもせず人任せにしていたのですから敏行を責める資格はありません。しかしやはりこのような伝説も、元を正せば嫉妬から生まれたのでしょう・・・」

「それほどに人の嫉妬を・・・」

「考えてもみなされ。まず第一に生まれが良い。敏行は業平と義兄弟です」

「・・・」

「紀有常という人には二人の娘がありましたが、業平は姉を、敏行は妹を妻としたのです。しかも紀有常の妹・静子は文徳天皇の妃になり、惟喬親王を生みましたから、敏行と業平は親王の義理の従兄弟ということになる・・・ま、それはさておくとして、敏行は美男・能筆家の上に歌人としても優れた才能を示したのですから嫉妬されても当然です。私も敏行の歌には嫉妬しているほどですから」

「私にはそれが信じられませぬ」

「ではこれをご覧下さい。

  ふる雪のみのしろ衣うちきつつ

春きにけりとおどろかれぬる

 これは後撰集の歌ですが、詠めば詠むほど心憎い・・・〈宮殿の庭先に真っ白い雪が降り積もっている、その雪のように汚れのない衣を着ておりますと、あたたかくて、いつの間に春が来たのだろうと驚いてしまいます〉、という意味なのですが、但し書きを見ると《正月一日、二条の后の宮にて、しろき大袿(おほうちき)をたまはりて》とある。ですから敏行はこの衣を二条の后から戴いたのです」

「二条の后と申されますと、業平様の恋人の」

「左様、高子様です。彼女の歌は古今集に〈雪のうちに春は来にけり鶯の氷れる涙いまやとくらむ〉が見えますが、敏行は高子様と同じ雪を見て詠んだとも考えられます」

「それは何とも・・・」

「高子様は〈私は業平様を心配する余り、身が凍えてしまいました。その私を見て、鶯も涙は涙を流してくれましたが、寒さに鶯の涙が凍ってしまったのです。でも、やがて春がくれば、鶯の涙も解ける時がくるでしょう〉と歌ったのですが、敏行は〈私は業平の兄弟であるという幸運のおこぼれによってあなた様からこんなに美しいは大袿をいただいきました。お陰で私は春のようにあたたかな気持ちです。あなた様にももうすぐ春が訪れて凍った涙もきっと溶けるでしょう〉と、このような意味を内に秘めて詠ったのですから憎い男というべきです」

 定家は黙ったまま物思いに耽っている。心寂坊も遠慮して黙っている。二十カ所も灸を据えたのだからさぞ熱いだろうに、定家は身じろぎもせずに考え込んでいる。そうして長い時間が過ぎたが、心寂坊が灸が冷えたところを清拭しようとすると、定家は突然身を起こして、「敏行はやはり大変な幸運児ですよ」と声高に言うので何事かと瞠目すると、定家は、

「何しろ敏行は大鬼の頭目の死を見たのですからね」と言う。

「大鬼?」 「そうですとも、太政大臣・基経、彼は長い間国家を意のままに裁量しましたが、橘広相の怨霊に取り殺されました。基経の死によって宇多・醍醐の寛平・延喜の華やかな御代が始まったのですから、こうした時代に生まれ合わせた敏行という男は大した幸運児と申すべきですよ」と上機嫌に微笑したのだった。

第18番目のものがたり 「阿衡(あこう)」 )

 清涼殿の殿上の間は浮き立つような笑い声が充ち満ちていた。早春の宵に会わせた女官たちの衣装の色目の取り合わせも常とはひときわ違って見え、それぞれにこころ配りをした直衣姿の公卿たちも声高に話し合いながら、数え切れないほど並べられた高坏の料理を楽しみ、朱塗りの酒杯で酒を酌み交わしている。台盤どころの女房たちは干物や焼き物、和え物、汁膾、蒸し鮑など、数限りない品を運び込むけれどたちまち無くなるので大忙し。こんな気分になったのはいつ以来か・・・今宵の宴はなぜこれほど心が浮き立つのか・・・誰もがその理由を知ってはいたが、敢えて口にする者は一人もいなかった。

 左大臣源融様は蔵人頭になったばかりの菅原道真を呼び、

「この酒壺を后宮の御方にお持ちするように」と命じた。道真は藤原温子様付きの女蔵人を呼んで、

「この酒瓶をお后にお運びして、御神酒おろしをいただけますように取りはからっていただきたい」と伝えると、女蔵人は酒瓶を後涼殿に運んでいったが、それきり何の音沙汰もない。「お后の御神酒おろしはまだか」と公卿たちが催促するので道真は、

「皇后様の御神酒おろしをみなさまがお待ちになっておられるとお伝え下さい」と女蔵人に言い伝えたが、彼女たちはただ笑うばかりで応じてくれようともしない。道真は困り果てて、

「御神酒はどこかに迷い込んでしまいました」と報告すると、左大臣はお笑いになって、

「右近少将、不思議なことに酒壺が行方不明になってしまったようだから、これを歌に詠んでみなさい」と申される。そこで敏行は傍らの文箱を取り寄せて歌を書きつけた。

玉垂れのこがめやいづらこよろぎの

磯の波わけおきにいでにけり

(おいしいお酒がたっぷりと入った玉垂れの酒瓶は、どこに消えたのか・・・もしかすると都から遠く離れたこよろぎの磯にでも迷っていって、子亀となって、磯にうち寄せる波をかき分けて、竜宮城へでも帰ってしまったのだろうか、それにしても、亀(酒瓶)を返してくれないとは悔しい事だなあ)

 これを聞いて公卿たちはみんなやんやと感嘆した。

 敏行が源能有と酒を酌み交わしていると、女蔵人が「どうぞこちらへ」と促すので能有は「私にはどなたからもお呼びがかからぬのか」と尋ねたが女は振り向きもしない。敏行が後からついてゆくと、遣り水の音が聞こえる反り渡殿を越えてしばらく歩き、いくつもの廊下を曲がって、蔀戸を下げた部屋に導かれた。

 痩せ細った老人が紙燭のゆらめく中にひっそりと座っていた。老人は今にも朽ち果てそうな腕に幣束を頼りなげに持ち、烏帽子を白髪に載せている。敏行が畏まって平伏すると、老人は細い目で彼を凝視した。紙燭の光が老人の息の乱れでかすかにゆらめく。

「お顔を上げなされ。よくぞお渡り下さいました」老人は二三度痰の絡まった咳をした。敏行は恐る恐る顔を上げて老人を見たが驚きの余り思わず声を漏らしそうになった。

 信じられなかった。先年亡くなった橘広相(たちばなのひろみ)そっくりなのだ。老人は敏行の驚く顔を見て、まぶしげに目を瞬かせた。

「私はこの世の者ではなくなりましたが、春の名残に、是非ともそなたさまにお目にかかり、お礼を申し上げたいと存じ、迷惑を承知でお呼びいたした次第です」

 老人が床に一枚の紙を広げるとそこには敏行の歌が記されていた。

 住之江の岸に寄る波よるさへや

夢のかよひ路人目よくらむ

「右近少将藤原敏行殿、私は冥土のみやげにこの歌の真実を持って行くつもりです・・・世に名高いこの歌は、恋歌として喧伝されておりまする。何も知らぬ私は、これを初めて見た時、腹立しい思いがしたものです。世が乱れ、帝でさえ御心のままに政を行えぬ世にあって、このような歌に現を抜かしている殿上人がいるのかと思うと、情けない気持ちであったのです。私を育ててきたのは詩経五経、漢詩の素養です。そうした固い頭ではあなたの歌は分からなかった。そうしている内に《阿衡》の事件によって私は基経と対立し、失脚して死にました。しかし死にきれない。朝廷が基経に盤踞されているのを知りながらあの世に行くことはできない。私は亡霊になって朝廷をさまよいました。と突然あなたの歌の謎が分かったのです」

「・・・」

 敏行は緊張で体が震えるのを感じた。太政大臣藤原基経と真っ向から対決して破れ、昨年(寛平二年)の六月にこの世を去った人物が・・・亡霊となって私の目の前にいる・・敏行は息をつくのも忘れ、その場に釘付けになっていた。

 参議・橘広相は朝廷の権威を古に戻そうとして一人奮戦した勇者だった。学問を菅原是善(道真の父)に学び、陽成・光孝に仕え、宇多天皇が即位すると左大弁・中務・式部・治部など民部四省の長となったが最終権限はなく、全ては基経の裁量を待たねばならなかった。ところが仁和三年(887)定省親王が光孝天皇の後を嗣いで即位し宇多天皇となられると、好機が訪れた。宇多天皇は基経の独裁を嫌い、その力を排除して新たな時代を作ろうという強い意志を抱いていた。しかし現状を変えることは至難の業である。どうしたら基経の権限を押さえ込む事ができるか。天皇は密かに橘広相に相談した。橘広相は一つの考えを申し上げた。

 これまでの例では天皇が即位すると天皇の全権を太政大臣に委譲する旨の詔勅を下す。太政大臣は形式上、《そのような大権の委譲を受けるのは身に余る大役に過ぎますのでお受けし兼ねます》と辞退する。辞退を受けて天皇は再度同じ詔勅を下すと、それならばお受けしましょう、ということになって、天皇の権力は太政大臣に移されるのである。今回も同様の形式を踏むことになるが、その時附帯文を付けることによって基経の権力を奪い取ることが出来るのではないか、と橘広相は提案し、宇多天皇はこれを良しとして実行に移したのである。

 儀式の当日、大極殿で宇多天皇の詔勅が読み上げられた。

「万機巨細、百官惣己、みな太政大臣に関白(あずかりもうし)、然してのちに奏下せよ」

 基経はこの詔に満足し、小外記紀長谷雄に命じて、形式的な辞退の上表文を宇多天皇に提出した。もちろん基経には辞退の意志など毛頭ないが形式上そうしたのである。すると宇多天皇から再度、同文の詔勅が下った。ところがよく見ると末尾に次のような附帯文が添えてある。

「宜しく阿衡の任をもって卿が任と為すべし」

これによれば、基経は阿衡の役に任じられたことになる。基経は疑義を抱き、「阿衡の任とは何か」と学者たちに質した。紀伝博士藤原佐世(すけよ)は次のように述べた。

「阿衡の任とは、古代殷の王朝の官職であり、最高の名誉職でありまするが、権限はこれなく、具体的な職掌はもたない官位であります。恐らく、宇多天皇はこれまでの天皇のように太政大臣に全てを委ねることを潔しとせず、ご自分で親政をお執りになるお積もりなのでございましょう。橘広相は天皇の意を汲んで文面を作成したものと心得ます」

 基経は激怒し、「天皇がその気なれば、わしは阿衡となろう。本日からは宮廷に出仕せず」と宣言して自らの屋敷に籠もってしまった。基経に呼応して藤原一族のものはすべて宮廷に姿を見せなくなった。宇多天皇はこの状況を予測していたので平然として自ら政治に関与する姿勢を示したが、左大臣源融は動揺し、学者たちを急遽召し出して、阿衡の任について論議させた。これには善淵愛成(よしぶちのちかなり)・中原月雄・藤原佐世・紀長谷雄・三善清行など当代一流の者が顔をそろえていた。彼らは橘広相を召喚して「このような文面を付け加えるとは何事か。直ちに撤回すべし」と迫った。これに対して橘広相は決然として反論した。

「都を平城京から平安京に遷都してから後、桓武・嵯峨・淳和・仁明天皇の御代は万機に於いて帝の意が奏下された。ところが清和の帝の御時ほどから何事も臣下にまかせられるようになった。無論、これは帝が幼いなどの理由から止むを得ないことでもあった。しかし、宇多天皇は二十歳におなりになられ、この上なく聡明にして博学、帝王の気質は総身に備えておいでになられる。そのような帝が即位されたからには、桓武、嵯峨の帝にお仕えしたと同様、臣下はその分をわきまえるべきである。藤原基経殿とて臣下であるからには、帝の勅命に従うべきである。速やかに阿衡の任に甘んじるべきであろう」

 橘広相は一歩も譲らなかった。こうして太政大臣不在のまま半年が過ぎた。左大臣源融は帝と太政大臣の間に立たされて辛労の余り見る影もなく痩せ細ってしまった。仁和四年六月一日議政官は橘広相を呼び出し、公開の場で激論を交わしたが、藤原佐世・紀長谷雄・三善清行ら多くは橘広相を非難し、擁護する者は若輩の菅原道真と元慶の乱を治めるのに大功を挙げた藤原保則二人だけだった。論議は双方譲らず、決着がつかなかった。議政官は鳩首のすえ、宇多天皇に奏上した。

「畏れ多いことでございますが、橘広相の説をこれ以上固持いたしますれば、朝廷のまつりごとは停滞し、混乱は民へも及び、やがては大乱の種となるやも知れませぬ。何とぞ、天下万民のため、阿衡の紛議を大御心によってお納めいただきまするよう、恐懼して、御願い奉ります」

 宇多天皇は大臣たちの悲痛な願いを聞き届け、「阿衡の詔」を撤回することを同意した。橘広相は失意のあまり床につき、寛平二年(890)五月、怨念を胸に抱いたまま亡くなった。

 

 真っ暗な中に、響く遣り水の音が、亡霊となった橘広相の鼓動のようにひそやかに聞こえる。

「私は、あの時、この老いぼれを見捨てて顧みない公卿たちを恨めしく思った。何故に基経一派をそれほどまで恐れるのだ。天皇を立てずして鬼共の跳梁跋扈を許せば、この国はやがて地獄となろう。私の心は煮える釜のようであった。その時だ。私の目にそなたの歌が見えたのは・・・。

 住之江の岸に寄る波よるさへや

夢のかよひ路人目よくらむ

 

 住之江には住吉大社がある。大社には古い神々が祀られている。イザナキの大神が産んだという底筒男神、中筒男神、表筒男神。これらの神々は、神功皇后が新羅との戦いに向かった折り、皇后の船をお守りしたと伝えられる。即ちこの神々は、この国の帝をお守りする神である。その住吉の神の足下に、波がうち寄せる。どうかこの国が安泰であり、帝の御代が太平でありますようにと、祈り、祈る、無数の臣下の思いが、波のようにうち寄せる。臣下の心が波となって神の社に打ち寄せているのだ。そうした心こそこの世に安寧と平和をもたらしてくれる。

 ところが、今の世を見よ。帝にわずかなことを申し上げるにも基経の目の色を伺わねばならぬ。夢のなかでさえ、自由に動くこともできぬ。住吉の神々波が打ち寄せるように、臣下が帝のもとに集うのはしごくあたりまえのことなのに、それすらも関白の目を気にせねばならぬ。なんと悲しいことであろうか。

 この歌は今の時代の歪んだ姿を正すべきである事を教えてくれている。神々はそれを望んでいる。青い海の景色同様、神々の思いは明白ではないか。

 私は決心した。《基経を除かねばならぬ》

こうして私は怨霊となり、基経にとりついた。すると、どうだ。信じられぬことが起こった。基経はたちまち病にとりつかれ、死んでしまった。あの厚顔な太政大臣が、新年早々にみまかったのだ。

 基経は私が殺したのではない。住之江の神々をはじめ、八百万の神々が帝を御守りしようとして基経を連れ去ったのだ。

 基経が居なくなり、宇多天皇の御代になると、桜の花がいちどきに蕾を開いたように文化の華が咲き乱れた。

 これを見て、私は後顧の憂い無く冥土へ旅立つことが出来ると安堵した。だか、その前にそなたに礼をしなければと思ったのじゃ・・・心から礼を申すぞ、右近少将殿。そなたの歌は古今無類の名歌じゃの。

 はっとあたりを見ると、誰も見えず、反り渡殿の柱の下の組石と草の間に遣り水がかすかな音をたてているばかりだった。

 暗闇を戻って行くと、「そこにおいでになられるのは右近少将敏行様でこざいまするか」と声がした。蔵人頭、菅原道真だった。

「こんなところでどうなされました」

「会えぬお方にお目に掛かりました」

「どなた様に」

「橘広相様」

「なんと!」

「橘広相様は、命をかけて帝を御守りになられた。この宵の慶びの宴をもたらしてくれたのは、だれあろう、橘広相様であったのです。この事を忘れてはなりませぬ」敏行がこう述べると、道真は黙然と頷いた。宴に興じる声が華やかに響く。敏行と道真は、思いをかみしめるように、遣り水の音に耳を傾けていた。

  住之江の岸に寄る波よるさへや 夢のかよひ路人目よくらむ