百人一首ものがたり 14番
目次
陸奥の しのぶもぢずり たれゆえに 乱れそめにし 我ならなくに
百人一首ものがたり
- 百人一首ものがたり 100番 順徳院
- 百人一首ものがたり 10番 蝉丸
- 百人一首ものがたり 11番 参議篁
- 百人一首ものがたり 12番 僧正遍昭
- 百人一首ものがたり 13番 陽成院
- 百人一首ものがたり 14番 河原左大臣
- 百人一首ものがたり 15番 光孝天皇
- 百人一首ものがたり 16番 中納言行平
- 百人一首ものがたり 17番 在原業平朝臣
- 百人一首ものがたり 18番 藤原敏行朝臣
- 百人一首ものがたり 19番 伊勢
- 百人一首ものがたり 1番 天智天皇
- 百人一首ものがたり 20番 元吉親王
- 百人一首ものがたり 21番 素性法師
- 百人一首ものがたり 22番 文屋 康秀
- 百人一首ものがたり 23番 大江千里
- 百人一首ものがたり 24番 菅家
- 百人一首ものがたり 25番 三条右大臣
- 百人一首ものがたり 26番 貞信公
- 百人一首ものがたり 27番 中納言兼輔
- 百人一首ものがたり 28番 源宗于
- 百人一首ものがたり 29番 凡河内躬恒
- 百人一首ものがたり 30番 壬生忠岑
- 百人一首ものがたり 31番 坂上 是則
- 百人一首ものがたり 32番 春道列樹
- 百人一首ものがたり 33番 紀友則
- 百人一首ものがたり 34番 藤原興風
- 百人一首ものがたり 35番 紀貫之
- 百人一首ものがたり 36番 清原深養父
- 百人一首ものがたり 37番 文屋朝康
- 百人一首ものがたり 38番 右近
- 百人一首ものがたり 39番 参議等
- 百人一首ものがたり 40番 平兼盛
- 百人一首ものがたり 41番 壬生忠見
- 百人一首ものがたり 42番 清原元輔
- 百人一首ものがたり 43番 権中納言敦忠
- 百人一首ものがたり 44番 中納言朝忠
- 百人一首ものがたり 45番 謙徳公
- 百人一首ものがたり 46番 曽禰好忠
- 百人一首ものがたり 47番 恵慶法師
- 百人一首ものがたり 48番 源重之
- 百人一首ものがたり 49番 大中臣能宣朝臣
- 百人一首ものがたり 50番 藤原義孝
- 百人一首ものがたり 51番 藤原実方朝臣
- 百人一首ものがたり 52番 藤原道信朝臣
- 百人一首ものがたり 53番 右大将道綱母
- 百人一首ものがたり 54番 儀同三司母
- 百人一首ものがたり 55番 大納言(藤原)公任
- 百人一首ものがたり 56番 和泉式部
- 百人一首ものがたり 57番 紫式部
- 百人一首ものがたり 58番 大弐三位
- 百人一首ものがたり 59番 赤染衛門
- 百人一首ものがたり 60番 小式部内侍
- 百人一首ものがたり 61番 伊勢大輔
- 百人一首ものがたり 62番 清少納言
- 百人一首ものがたり 63番 左京大夫(藤原)道雅
- 百人一首ものがたり 64番 権中納言定頼
- 百人一首ものがたり 65番 相模
- 百人一首ものがたり 66番 大僧正行尊
- 百人一首ものがたり 67番 周防内侍
- 百人一首ものがたり 68番 三条院
- 百人一首ものがたり 69番 能因法師
- 百人一首ものがたり 70番 良暹法師
- 百人一首ものがたり 71番 大納言経信
- 百人一首ものがたり 72番 祐子内親王家紀伊
- 百人一首ものがたり 73番 権中納言匡房
- 百人一首ものがたり 74番 源俊頼朝臣
- 百人一首ものがたり 75番 藤原基俊
- 百人一首ものがたり 76番 法性寺入道前関白太政大臣
- 百人一首ものがたり 77番 崇徳院
- 百人一首ものがたり 78番 源兼昌
- 百人一首ものがたり 79番 左京大夫顕輔
- 百人一首ものがたり 80番 待賢門院堀河
- 百人一首ものがたり 81番 後徳大寺左大臣(藤原実定)
- 百人一首ものがたり 82番 道因法師
- 百人一首ものがたり 83番 皇太后宮大夫(藤原)俊成
- 百人一首ものがたり 84番 藤原清輔朝臣
- 百人一首ものがたり 85番 俊恵法師
- 百人一首ものがたり 86番 西行法師
- 百人一首ものがたり 87番 寂蓮法師
- 百人一首ものがたり 88番 皇嘉門院別当
- 百人一首ものがたり 89番 式子内親王
- 百人一首ものがたり 90番 殷富門院大輔
- 百人一首ものがたり 91番 後京極摂政前太政大臣
- 百人一首ものがたり 92番 二条院讃岐
- 百人一首ものがたり 93番 鎌倉右大臣
- 百人一首ものがたり 94番 参議雅経
- 百人一首ものがたり 95番 前大僧正慈円
- 百人一首ものがたり 96番 入道前太政大臣
- 百人一首ものがたり 97番 権中納言定家
- 百人一首ものがたり 98番 従二位家隆
- 百人一首ものがたり 99番 後鳥羽院
- 百人一首ものがたり 2番 持統天皇
- 百人一首ものがたり 3番 柿本人麻呂
- 百人一首ものがたり 4番 山部赤人
- 百人一首ものがたり 5番 猿丸太夫
- 百人一首ものがたり 6番 大伴家持
- 百人一首ものがたり 7番 阿倍仲麻呂
- 百人一首ものがたり 8番 喜撰法師
- 百人一首ものがたり 9番 小野小町
小倉庵にて 権中納言藤原定家と主治医・心寂坊の対話
とうとう鎌倉の尼将軍が死んだ。七月十一日の夕刻であったそうだが死の床ではずいぶんと苦しみもがいて恐ろしい声で叫び続けたので侍医たちは恐れて近づくのをためらったとも聞く。何とも浅ましい。我が姉は死の床についた時、まるで花見に出る時のように嬉しげな表情を浮かべて、いよいよ水も喉を通らなくなって医師たちが心配すると「そのほうたちは何をそのように眉に皺を寄せているのです。私は苦しいことなど何一つないのですから、心配なさることはありません」と言い、周りの者がすすり泣くと「そのように泣く者は私の真実の心がおわかりではないのでしょう。泣き顔をしている方々は近くに寄ってはなりませんよ」とこのようにおっしゃって、さまざまな品を一人一人に選び与えて、最後に私の手を取って「あなたはまだまだ大切なお方です。何としても生き延びるのですよ」と諭された。あのような人物こそ、真の善人と申すべきであろう。尼将軍の死を思うとき、姉の九條尼がどれほど幸せなお方だったか、改めて思わざるを得ない。
昼過ぎに心寂坊殿が顔を見せてくれた。手足がむくみ、腹も痛むので家人を使わしたのだが、心寂坊殿の顔を見たとたんに気分が晴れて、少しも腹が痛まないのはどうしたことかと思う。
心寂坊殿は私の体もいろいろと心配してくれるが、自分が運んで植えた木々が気になっておいでのようで、私の診察がすむとさっそく庭に出て葉や枝の具合を調べていたが、みな元気な様子に安心してもどってきた。私は待ち兼ねて巻物を広げて見せた。
「・・これは、源融・・・嵯峨天皇の皇子でござりまするな」心寂坊殿は目を皿のようにして見つめている。
「さようですとも」
「・・しかし、あのお方の歌は古今集に一、二首しか見えず、それもしかとは記憶にございませぬ・・」
「古今集に二首、後撰集に二首、取られています」
「・・・中納言様が百人をお選びになるに際して勅撰集に収録されている歌の数には少しも顧慮しておられない事は承知しておりますが、何故目をとめられたのか、不思議でございます」と心寂坊が如何にも不可解だというような顔をするので、定家は少し挑発してみようという気持ちになって、
「私が思うに、源融というお方ぐらい自らの身の不運を嘆き暮らしたお方は他にいないように思えるのですよ。歌にもその気配が良く出ていると思います」とこう述べると、果たして心寂坊殿は〈それは心外でござります〉というように口を尖らせて、
「お言葉を返すようですがあのお方は太政官の最高位である左大臣となり、洛中に広大な屋敷を構え、塩竃の塩焼きをさせたという伝説があるほどですから、そうした贅沢をした人が不運というのであれば、幸運と呼べる人はこの世には五本の指よりも少ないということになりましょう」と言うので
「ではこれをごらんなさい」と今朝ほど書き記した一枚の紙を差し出した。
「これを見るとおわかりの通り、源融は祖父を桓武天皇、父を嵯峨天皇として生まれましたが、嵯峨天皇の二人の兄弟、つまり融の叔父たちは平城・淳和天皇となっています。また、源融の兄は仁明天皇であり、仁明天皇の皇子は、文徳、その皇子は清和、その皇子が陽成天皇です。つまり、源融の周囲の男子のほとんどは外孫、曾孫に至るまで天皇に即位している。それなのに、源融だけはなれなかった」
「・・・」
「ところが陽成天皇が太政大臣基経と不和になり、無理矢理退位させられた時、源融にも機会が訪れました。というのも、源融は誰が見ても皇位に就くべき最もふさわしい人物とみなして良かったからです。しかし太政大臣基経はこれに反対した。というのも、もし源融が皇位に就けば、自分が思うように政治を操ることができなくなる。源融はこの時五八才、政治的な手腕もあるし我こそはという野心も十分にある。そのことは『大鏡』にも詳しく記されています。基経としてはこうした人物に天皇になられてはたまらないというので、白羽の矢を立てたのが時康親王です。時康親王は五十五才でしたが性格は温厚で政治的野望は少しもない。しかも親王の母と基経の母は姉妹の間柄にある。これほど都合の良い人物はいない。基経は親王を即位させることに決め、光孝天皇が誕生したのです」
「基経というお方は、それほど思うがままに操っていたのですか」
「そのようです」
「では源融は黙って身を引いたのですか」
「いや、源融は基経に対して『私の方が皇胤としては最も近い者である』と主張したようです。すると基経は『それはそうではございますが、あなた様は一度源氏の姓を賜って臣下として仕えている。ひとたび臣下になった人物が、皇位に就くということは前例がありませぬ』と言い放ったので、源融は沈黙するより他になかったのです。ところが・・」
「ところが・・」
「光孝天皇が崩御されると、その後を嗣いだのは、源定省(さだみ)でした。源定省は光孝天皇の第七皇子でしたが、源氏姓を賜り、臣下となったのです。ところが天皇の跡継ぎ候補になったので急遽源姓を削って親王に復し、宇多天皇となったのです」
「では、源融は基経に騙されたのですか」
「してやられたのでしょう。ですから世に知られている『陸奥のしのぶもじずり・・』の歌も、恋歌とばかりは思えないのです」
「と申しますと・・」
「当時は今の時代とは比べようもない平和な時でしたが、それでも飢饉、盗賊の横行などに悩まされていました。しかし最も大きな問題は陸奥の俘囚の反乱です。元慶二年の記録を見ますと、出羽の国では俘囚が大反乱を起こして、五千の兵で固めた秋田城を襲い、城を奪いました。基経はこれを押さえるために藤原保則を派遣して徹底的に鎮撫するように命じましたが、保則は俘囚たちの困窮を見て武力で殲滅するより、援助の手をさしのべて懐柔すべきであるとして、基経に陸奥の実情を訴え、困窮している民に救助の手をさしのべることこそが和平の道であると説いたのです。果たして、保則の戦略は功を奏して、反乱は収まりました。源融はこの出来事が起きた時左大臣でしたから、事の成り行きを逐一見ていたのです。ですから、陸奥のしのぶもじずり・・の歌は、通常の解釈の裏に、『陸奥の反乱はしのぶもじずりのように乱れに乱れておりますが、その原因は誰にあるのでしょう、それは私であるはずはない、太政大臣であるあなたこそ、その種を蒔いた張本人というべきでしょうね』というような意味も隠されていると思いますね」 定家はあれこれと説明しながら箱の中の巻紙を取り出すと、小声で読み始めたのだった。
第14番目のものがたり 「塩竃の宴」
広い庭園の植え込みの蔭に、ひと群れの尾花が咲いている。夕風がそよと渡ってゆくと尾花はかすかになびいて、高い空を雁が飛んで行く。尾花の側の女郎花の咲く下に草筵を敷き延べて、二人の老爺が酒を酌み交わしている。一人は白髪頭に立派な冠を被り、派手な狩り衣を着て膝の前に紙と筆を用意している。もう一人はやや太り気味の恰幅の良い人物で、口ひげとあごひげをたくわえ、烏帽子をかぶり、藍染めの狩り衣を纏っている。だが、奇妙なことに、尾花が淡い夕日を浴びて長い影を引いているのに、二人の老爺には影がないのだ。よくよく見ると、尾花も草筵も、二人の身体を通してぼんやりと透けて見える。どうやら亡霊のようだ。亡霊の一人は在原業平、もう一人は源融のようである。遠い東山に秋雲が棚引き、夕日が風に吹かれる赤い旗のように雲を染めている。
「昔は、このような夕べには、あちらの松の影からも、こちらの岩の下からも、塩を焼く煙がうっすらと立ち上り、いかにも陸奥の国の海辺の気配が漂っていたものを、今は茫々たる山の有様じゃ、世の移りとはこのようなものであろうかの」源融の亡霊がため息をつくと在原業平の亡霊が歌を謳った。
塩竃にいつか来にけむ朝なぎに
釣りする船はここによらなむ
「おうおう、その歌じゃ、その歌じゃよ」源融の亡霊は立ち上がって扇子を取り出してうち広げて舞い踊った。
「業平殿、あなたが乞食のなりをして迷い込んで来た時、わしは菊の花の宴を開いていた。池には難波の海から毎日五百人の梃子を使って運ばせた塩水を満々と湛えて海と為し、あちらこちらの砂浜から塩焼きの煙が立っていた。誰も彼もが菊の花を襟に差し、さざ波の立つ浜辺を歩いて歌を謳い、舞を舞い、酒に酔って上機嫌であった。そこへ乞食が現れた。むさくるしく髭を生やし、ボロを背負い、よろよろと近づいてくる。その場には殿上人公卿ばかりか、親王方もおいでになられておったので、驚きあきれ、検非違使を呼ぼうとした。しかしわしはこのようなところに紛れ込むにはそれ相応のわけがあろうと思ったので、『これこれ、そなたがここに出たは故なくしてではなかろう。どこから来てどこぞへ参るつもりじゃ』とこう尋ねると乞食に身をやつした業平殿は
『私は故ありて都を離れ、伊勢尾張を過ぎて信濃では浅間の嶽の恐ろしき煙を眺め、三河の国にては蜘蛛手のように流れる八つ橋を渡って富士の高嶺を望み、武蔵の国までまどい歩きましたが、あまりに寂しくなりました故、京の友に歌を出しました。
忘るなよほどは雲居になりぬとも
空ゆく月のめぐりあうまで
(あなたは帝の寵愛を受け、后となってしまったのかもしれませんが、空行く月でさえ必ずまた戻ってくるのですから、きっと私は戻ります故、どうか私を忘れないでください)
しかし返事はなく、そのまま常陸の国を越え、陸奥にまでまいりました。はるかに眺めると海辺で塩を焼く煙が上がっている。白い煙が海風に流れている。そこで歌を詠みました。
塩竃にいつか来にけむ朝なぎに
釣りする船はここによらなむ
(いつか塩竃を訪れて見たいと思っていたが、とうとうやってきた・・・朝凪に釣りをする海士の船が寄ってきて欲しいものだ、ますます趣が深くなるでしょうからね)
あのような景色は生涯二度と見ることはあるまいと思っておりましたが、思いがけず、京の都の賀茂の河原で塩焼く煙が立ち上るのを見てどなたのお屋敷とも知らず、入り込むと見慣れた方々がお集まりになっていらっゃる。私は嬉しくて、こうして出て来た次第です。
乞食はこう述べると身に纏っていたボロを脱ぎ捨てた。するとその下から輝くばかりの貴公子が現れたので、一同あっと驚いた。その姿はどう見ても在原業平だ。しかし業平は疾うの昔に死んだのだからこの世にいるはずがない、さては業平の亡霊か・・・一同余り腰をぬかさんばかりの有様であった・・・しかしわしはさして驚きもしなかった。むしろ陸奥の塩竃の風趣が業平殿の亡霊を呼び寄せたのであろうと大いに喜んだものだ。
だが、そうした宴の時も過ぎ、程無くしてわし自身もこの世を去り、今はこうして二人とも亡き身となって、塩竃の跡で月待ちをしている。何もかもが夢のようじゃか」
二人は酒を飲みながら、苔むした船の残骸を眺めていた。その時あわただしい物音がして、大勢の雑色たちが走り込んできた。その人数は百数十もあろうか、ある者は大帳を運び込み、あるも者共は何十という高坏を運ぶ。牛車の列には大きな櫃、大小色とりどりの什器、おびただしいご馳走が山のように積み上げられ、後の牛車には畳が数十も積んである。雑色たちはそれらを庭にしきつめて、たちまち仮の御所のように設えた。
「この畳は、帝が着座するときにお使いになるものではないか・・・まさか、我が庭に帝が御幸なさるのであろうか」
訝っているうちに、直衣狩衣に身を飾った殿上人たちが数十人御座の周囲に着座し、やがて、藤原時平、菅原道真、紀長谷雄、三善清行などを先に立てて宇多の帝と京極御息所が着飾った女房達に付き添われて姿を見せた。満月が東山の山の端から上り、虫の音が夜の闇に震えている。宴が始まり、舞姫が月明かりに緩やかに踊ると、杯がつぎつぎと干されて、虫の音もかきけされるほどににぎやかになった。
「いったいこれはなんたることであろうか」と源融の亡霊は唇を噛んだ。「わしがこの世を去った後、宇多の帝がここを手に入れたのはやむを得ぬ事としても、帝は大井川や嵯峨野への遊楽を好み、この河原院は振り向きもせず苔蒸すままに打ち捨てた。わしがしつらえた松島の風情も、塩焼く景色も昔語りとなってしまった。しかしここはわしが生涯をかけて創り上げた庭じゃから死んだとて去ることができぬ。故に亡霊となってから後も秋には紅葉をめで、女郎花に月の光が落ちるのを眺めて楽しんでおる。まして今宵は業平殿もおいでになった故、話に歌に花を咲かせていた折も折、出し抜けに帝が殿上人や女房たちを引き連れて現れ、このわしの庭で、我が物顔に振る舞っている。もう我慢がならぬ」融の亡霊はこう言って今にも出ようとするので、業平は笑って
葎生いて荒れたる宿のうれたきは
仮りにも鬼のすだくなりけり
(八重葎が生い茂って荒れ果てた屋敷がすこしばかり薄気味が悪いのは、ひと時にもせよ、この世の鬼が集まってきて騒ぎ回るからでありましょうよ)
融はさすがに業平殿と感心して「誰もが鬼は地獄に居るものと決めつけているが、さにあらず、欲に捕らわれている者共のほうが余程恐ろしい鬼というべきであろう。左大臣時平と右大臣道真は赤鬼と青鬼のようにいがみあっている。道真は娘衍子を宇多帝に差し上げ、このため宇多帝の寵愛は道真に傾いている。時平が面白かろうはずはない。さてこの後はどのようになるものか」
融の亡霊がこのように述べると、あたかもその声が聞こえたかのように左大臣時平が立ち上がった。
「紀貫之、参れ。空には月がかかっている。御座の周りには秋草が繁り虫がすだいている。この景色を歌に詠んで見せよ」
左大臣に申しつけられて、貫之は即座に詠った。
君まさで煙絶えにし塩竃の
うら寂しくも見えわたるかな
(このお屋敷を愛しておられた源融左大臣様がもはやこの世にはおられないので、塩焼く煙も絶えてしまいました。その庭をこうして眺めていると、ただ寂しさが押し寄せてくるばかりです)
これを聞いて多くの殿上人は涙を流した。あれほど豪勢に遊び、この世の極楽を創り上げた源融様は鬼籍に入ってしまった・・・一同今更に過ぎし日々を思い出して涙にむせんだのだった。
ところが帝だけは眉を寄せ不快げに空を見ていた。何か心に棘のようなものが刺さった気配である。左大臣時平はそれを見て、
「貫之、『君まさで』とは、何の事だ。『君』とは、宇多の帝の他におらぬではないか。『大君』が目の前におられるのに『君まさで』とは愚かである。別の歌を奉るべし」
貫之はこれを聞いて顔色を変え「歌と申しますのは、あくまでもその場の興趣に応じて詠むものでございます。ここはその昔、左大臣源融様が塩竃の景色を楽しんだお庭跡。塩焼く煙がたなびいたのも今は昔、夜空の下に広がる荒れた景色を拝見しているうたに往事を偲び歌にしたばかりでこざいます」
こう貫之が申し上げると、時平は宇多帝の顔をちらりと見たが、やはりご不快は溶けぬようだと感じたのか、「ならぬ、今宵の宴に相応しい歌でなければならぬ。とく詠め」と催促した。
貫之は悔し涙をながしながらも観念して、一息に歌を詠もうと口を開いた。と、その貫之の目に源融の亡霊が映った。
「貫之殿。この通り、源融、感謝申し上げる。そなたこそ真実の歌詠み、さきほどの歌を聞いて長年の憂さが晴れたような気がした。だが時平の顔を見ているうちに、この世に言い残したことが塩煙のようにわき上がってきた。のう、左大臣時平、それから、宇多の帝、このわしを見忘れてはおるまい」
源融の亡霊は二人の前にすっくと立ちはだかった。宇多の帝と時平は呆然自失して言葉もない。公卿たちもうつけたように源融を見つめている。
「時平、そなたは太政大臣基経の子、わしは基経の策謀の故に、天皇の地位に就けなかった。そうであろう?」
時平は詰め寄られて、目を開いているのがやっとだ。
「陽成の帝を廃帝にと決めた時、帝の地位に最もふさわしい者は誰か。議論の余地はない。私こそ皇統を継ぐにふさわしい血筋であったのだ。ところが、基経はこう申した。
『左大臣源融殿は源氏の姓を賜り、臣下となりました。そのようなお方が皇位に就かれた例はありません。故に、陽成の帝の後は、仁明天皇の皇子、時康親王こそふさわしいと存じます』
光孝天皇はこのようにして誕生した。しかしわしは、確かに源の姓を名乗り臣下に列しているのだから、基経にも理屈があると考え黙認した。ところが、光孝天皇がわずか四年で亡くなると、跡を継いだのは何と、定貞親王、すなわち、そなた、宇多天皇だ。・・・そなたが一度臣下に下った事は誰も知らぬ者はない。そなたが十八の時だ。源氏の姓をもらい、天皇の侍従となって、下働きをしておった。殿上人たちと相撲をとって遊んだりしたこともある。それ、ここに業平がおる。業平と清涼殿で相撲をとり、さんざんに負けたであろう。」源融の亡霊は傍らの業平を振り返った。業平の亡霊はうっすらと笑って、
「確かにそのようなことがござりましたなあ。あの時は定貞様が力任せに組み付いてまいりましたので投げ捨てましたところ、清涼殿の南庇の下の御椅子に頭をぶつけて、御椅子の肘を壊してしまいました。あの時の悔しそうなお顔が忘れられませぬ」
業平と源融の二人の亡霊が話しているそばで、宇多天皇と左大臣時平はわなわなふるえている。
「それにそなたは陽成天皇が神社に御幸されるときには舞人などを務めたこともあった。ところが、光孝天皇が身罷ると、たちまち帝の地位に就いてしまった。これはいかなることか。どうなのだ。時平、そなたは基経に代わって答えて見よ」
源融は迫ったが時平は口が利けない。源融はこれを見て、
「これではいつまで談判しても仕方がない。返事は次の機会に聞く事にするが、今宵の話を反故にせぬためにも人質をもらわねばならぬ。・・・宇多の帝の後に隠れている京極御息所、こちらに参れ。今夜はこのように賑わっているが、いつもは人っ子一人尋ねては参らぬ。訪れるのは狐狸、ムササビばかりじゃ。寂しくてならぬ。末永くわしのともに止まって、夜伽をしてくれ」
源融の亡霊がこういって女の手を取り、連れて行こうとしたので、道真や紀長谷雄は驚いて御息所の身体に飛びつくとやるまいと決死の形相になった。源融はこちらに連れてこようとする、道真たちはやるまいとする。互いに引き合ううちに、女はアッと悲鳴をあげて悶絶してしまった。
「源融殿、お遊びはそれ程にしておきましょう」業平が笑いながら言ったので源融は「ではそういたすことにしよう」と女の手を放した。公卿たちは御息所の身体を担ぎ上げ、牛車に押し込め、帝もお乗せして、息急ききって逃げていった。
「静かになりましたなあ」業平は微笑した。
「今宵に懲りて今後寄りつくものはあるまいて。これからはゆっくりと過ごすことにしようぞ」と源融はほくそ笑んだ。
業平は月を見上げて、
おほかたは月をもめでじこれぞこの
つもれば人の老いとなるもの
(月はいつもこのように人の心を動かして美しいものだが、よほどのことがあってもやはり侘びしいものだ。月を愛でる晩が重なればそれだけ老いも積もるというもの、そして今は老いも果てて、この世のものでもなくなっているのだ)
河原左大臣源融はこれに応じて歌を詠んだ。
陸奥のしのぶもぢずりたれゆえに 乱れそめにし我ならなくに