百人一首ものがたり 12番 

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 一番目のものがたり「南海に散った親王」

天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ 乙女のすがた しばしとどめむ

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

しきりに山鳥が鳴く。けたたましい声に心が落ち着かない。鎌倉の尼将軍はまだ生きているという。あのように恐ろしい女は地獄からも受け入れを拒まれて、死にたくとも死ねぬのだろう。噂では「不食の病」だそうだが、山海の珍味に囲まれながら悪業故に一口も食えぬとは如何にも滑稽、『あっち死』した清盛の姿が重なってならない。

夜、為家から使いが来た。何百という在京の武士が鎌倉へ下向したという。さてはいよいよ尼将軍が死んだかと思ったが、そうではなく大江広元入道が亡くなられたという。広元殿は大江匡房殿の曾孫にあたり、学問法律万端に通じ、頼朝公に招かれて鎌倉幕府の政務を一手に処理しておられたようだが、心中は如何なるものであったろうか。

翌日、心寂坊が姿を見せた。

「関白殿はいかがでしたか」

「鎌倉の混乱にお困りのご様子でござりましたが、私は一刻も早く戻らねばとそればかりでございました」

「何か気がかりでも」

「小野篁殿が十一番でしたから、次はどなたかと」

「そうでしたか・・・それほど気になっておいでならお尋ねしますが十二番にはどなたが相応しいとお考えですか」

「はい・・・六歌仙のうちすでに小野小町、喜撰法師が選ばれておりますので次は大友黒主ではなかろうかと」

「六歌仙にはちがいありませんが、私が選びましたのは僧正遍昭です」

「僧正遍昭・・・黒主ではいけませんか」

「遍昭は黒主とほぼ同じ時代の方でしたが古今集の序にあるごとく、似たところは少しもありません。遍昭は桓武天皇の孫にあたり、蔵人頭として仁明天皇の側近く仕え、小野小町とも親しかったと伝えられていますが、五条の女とは深い縁があったようです」

「五条の女・・・」

「『大和物語』にも記されているお方のですが、とても良い話ですよ。遍昭は出家する前は左近少将吉岑(よしみね)宗貞(のむねさだ)と呼ばれておりましたが、ある日五条大橋にさしかかると雨が降ってきた。雨宿りをしようと門の中に入ると鶯が啼いている。更に行くと寂しげな家の御簾の中から独り言のように詠う声がする。

 よもぎ生ひて荒れたる宿を鶯の

人来と鳴くや誰とか待たん

(よもぎが生い茂って荒れている宿なのに鶯が『人が来る』と啼いている・・・来るあてもないのに、誰が来るとお待ちしていたらよいのでしょうか)

  宗貞は心打たれて、

 (きた)れどもいひし馴れねば鶯の

君に告げよと教えてぞ鳴く

(私はここに来ているのですが、女の人に語りかけるのに馴れてないので迷っておりましたら、鶯が心を察して、『ここに来ているぞ』と告げなさい、と教えて鳴くのです)

 思いもよらぬ返し歌に女は驚いて口もきけなくなっているのが気配でそれとしれる。そっと縁に上がって見ると雨漏りはするし御簾は蝙蝠に食われて、調度や畳もみすぼらく見る影もない。女は憐れな様子を見られたのが悔しくて打ち伏していると母親が出てきて、庭の菜を摘んで蒸し物にして長椀に盛り、箸は梅の枝を折って、梅の花びらに、

 君がため衣のすそを濡らしつつ

春の野にいででつめる若菜ぞ

 と書き記してお出ししたので、宗貞は菜飯を食べながら、これほどうまいものをこれまで食べたことがないと思って、お付きの小童にいいつけて車にいっぱいのさまざまな道具を運ばせて『これから後はしばしば参ります』と言って、それから生涯通うようになったのですよ」

「まるで『夕顔』を見るような風情でございます」

「ところが思いがけない事が起こりました。仁明天皇が突然崩御なされたのですが側近の宗貞も行方知れずになったのです。人々は『もしや鴨川に身を投げたのではないか』と四方八方捜索しましたが何としても見つからずに数年が経ちました。そうしたある年の正月、小野小町が清水寺に参詣すると陀羅尼を読経する声がする。その声を聞いて、もしやと思い供の者に『声の主を確かめて下さい』と頼むと、戻って来て『簑ひとつ着て腰に火打ち筒をつけた法師がおられました』というので小町は筆を取り出して、

 岩のうへに旅寝をすればいと寒し

苔の衣をわれにかさなむ

(岩の上で旅寝をしておりますので寒くてたまりません。どうぞあなたさまの苔むした衣をお貸しくださいませ)と詠んで供の者に届けさせると法師はすぐに、

 世をそむく苔の衣はただひとへ

   かさねばうとしいざふたり寝む

(世をそむいた私の衣はただ一枚しかありませんがお貸ししないとなればいかにも薄情なことです。いっそのこと、一枚の衣に二人でくるまって寝ましょうか)と返して来たので急いで行ってみると、姿は見えなかったのです」

定家はこのような話を前置きして読み始めたのだった。

第12番目のものがたり 「南海に散った親王」)

「涙をお流しになられて、どうかなさりましたか」五条の女はそう尋ねたが、遍昭は目を閉じて黙っている。

「どうかお教えください」と問い詰めると、

「大切な友を失いました」

「友とはどなたの事でございますか」

「昔の友ですよ。私がそなたと鶯の歌を詠ってから数年して知り合ったお方です」遍昭はそう述べて涙を流した。

            *

「遍昭、遍昭、どこですか」法親王が叫んでいる。

「法親王様、何事ですか」

「説明している暇はありません、来て下さい」法親王は僧衣を翻して飛ぶように走り出した。遍昭が追いかけると法親王は松の生い茂る闇を走って大仏殿の中に飛び込んだ。淡い紙燭が点っている。仏殿の奥から僧侶が出てきて、

「どうかなさいましたか」

「何か、変わったことが起きたのでは」

「何もござりませぬが」僧侶は深更も丑三つ時に何の騒ぎだと言いたげに目をこすった。

「先ほど何か大きな声がしたでしょう」

「大きな音・・・いいえ」

「そんなはずはありません」

 法親王は大仏の連弁の前に座って合掌すると陀羅尼を唱え始めた。異様な気配がその首筋に漂っている。遍昭は気押されて後ろに座り、陀羅尼を唱えた。

 法親王と遍昭は共に桓武天皇の孫にあたる従兄弟同士だが、法親王の父は桓武天皇の後を継いで帝位につかれた平城天皇である。法親王は僧籍に入る前、高岳親王と呼ばれ皇太子の地位にあったが『薬子の乱』によって平城上皇が隠棲なされると皇太子を廃され、剃髪して空海の弟子となり真如と名を改めた。遍昭は法親王より十七歳年下だが仁明天皇御崩御の後、世を儚んで出家し叡山に上ったが飽きたらず、今は法親王と共に東大寺で学んでいるのである。

 法親王の唱える陀羅尼は嵐のように激しく、果てしない波のようにいつ終わるともなく続いている。皇太子であられた方が粗末な僧衣に身を包んで陀羅尼を唱えている様は遍昭の目にも恐ろしく、狂気に取り憑かれた者のようにも思われた。

 仏殿の僧侶は迷惑気にあくびして宿舎に戻ろうとした。その時異様な音が響いたかと思う間もなく大仏殿が激しく揺れた。柱や天井がギシギシと音を立てている。揺れはますます大きくなり、無数の柱は今にも折れそうにきしんでいる。遍昭はただ恐ろしく、喉が詰まって息が出来なかった。

「そら、聞こえませんか」と法親王は大声で言った。

「何でござりますか」

毘盧遮那仏(びるしやなぶつ)の悲鳴です」 

 法親王がこう言い終えた瞬間地面がまた一層激しく揺れ、頭上で大きな音が響いた。天の一角にひびが入り、裂け目から雷神が叫んでいるかのように大音響は互いにぶつかり合い、火花を散らして、轟然と鳴り響いた。

 耳をつんざく破裂音が二三度続いた。遍昭は我を忘れて陀羅尼を唱えていた。突然、静寂が訪れた。

 法親王は連弁の灯明に明かりを灯し、闇の中を指さした。巨大な岩のようなものが転がっていた。恐る恐る近寄ると、何と、それは・・・毘盧遮那仏の首だった。大仏様のお首がもげて落下したのだ。毘盧遮那仏の首は悲しげに目を開いて、虚空を見ていた。

 駆けつけた僧侶たちは眼前の光景に呆然自失して為す術もなかった。文徳天皇の御代斎衡二年五月二三日(855年)に起きた前代未聞の大事件だった。

 

 夜が明けると大勢の人々がやってきた。朝廷からも役人が派遣され、公卿たちも輿や牛車を連ねてきたがみな一様に仰天して言葉もなかった。

 法親王と遍昭は、検分役の参議・藤原氏宗様に伴われて大極殿へと赴いた。そこには右大臣藤原良房と大納言伴善雄、大勢の公卿たちが待ちかまえていた。

 まず伴大納言が詰問した。

「法親王様、並びに遍昭、二人をお呼びしたのはほかでもない。大仏のおん首が落ちるその時に、その場に駆けつけたのにはいかなるわけがあったのか。しかも法親王様はお首が落ちる前に『毘盧遮那仏の悲鳴が聞こえる』と申されたそうではありませんか。堂内にいた僧が聞いておりますぞ。あなたは大仏のおん首が落ちるのを知っておられた。であるとすれば、落下の理由もまた知っていたのではありませぬか」

大納言の顔は赤不動のように真っ赤に上気している。遍昭は自分たちがまるで首を落とした犯人であるかのように扱われているのに憤慨した。

 けれども地震の最中、遍昭は法親王が「大仏が悲鳴を上げておられる」とつぶやかれたのを聞いたのは確かだった。自分の耳には地震の音しか聞こえないのに、法親王様なぜ大仏の悲鳴だなどというのか・・遍昭はその時いぶかしく思ったのだが、あるいは法親王はほんとうに悲鳴をお聞きになったのかも知れぬ。大仏様は世の醜さを嘆いて悲鳴を上げておられたのかも知れぬ・・・聞けば右大臣藤原良房と大納言伴善雄は事ごとに対立し、いがみあっているという。またこの頃神聖な鹿が何百となく殺され、その死骸が鴨川に流れて上・下の賀茂神社が禊ぎすることも出来ず、地方では疫病が蔓延し、東国では不穏な気配が見えるという。

 法親王が黙っているので、伴大納言は立腹してますます顔が赤くなった。右大臣良房は大納言を横目に見て、

「大仏の首落下の理由を探している暇はありません。まず朝廷が第一に為すべきことは、大仏の迅速な修復です。これは国家の大事であり、処置は昼夜を徹して行わねばなりません」と厳しい声で次のように述べた。「誰もが承知していることですが、大仏開眼は今から百年あまり前の天平勝宝四年(七五二)四月九日でした。天竺の高僧・菩提僊那(ぼだいせんな)が導師となり、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇がお持ちになられたお筆で御目が入れられた。招待客は一万余人、唐の国からも大勢の僧侶役人が参列し、多くの国々から使節が訪れたが、大仏の偉大さにひたすら驚嘆するばかりであった。ところが今、大仏の首が百三年目にして地に落ちた。もしもこうした大事を前にして手をこまねいていれば、その噂は流言となって国の隅々まで広がり、果ては国外にまで伝えられて、我が国の弱体と無能を他国にあざけられることにもなりましょう。従って、朝廷が直ちに為すべきは、迅速な修復です。そこで私は次のような手順を考案いたしましました。これからそれを申し上げます」

 右大臣の声が響くと並み居る公卿たちはその声に聞き入り、大納言は不快そうに横を向いた。

「まず大仏の修復には法親王様に先頭に立っていただかねばなりませぬ。第一の理由は、法親王様は大仏の御首が落ちる前にそれと知り、大仏殿においでになられたというその事でございます。このような大事を予知される方は、余程深い因縁があろうかと存じます。第二は、東大寺との関わりです。法親王様と遍昭のお二人は桓武天皇のご皇孫であられるが、法親王様は『薬子の乱』の後東大寺にお入られ、高僧・道詮につかれて三論を学ばれた。また更に空海の弟子となり真言密教の奥義を究められ、壱演の他大勢の弟子を育てておられる。このことからしても、法親王様を措いてこの大事の先頭に立てる者は居りませぬ。朝廷はあらゆる手だてを尽くして親王様をご支援いたします。どうかお引き受け下さいまように」

 法親王はこれを聞くと無言で深々と肯かれた。

 右大臣藤原良房は以下は天皇のご意志であるとして様々な布告を為した。

第一、十年来の凶作から民を救うため、未納の調・庸を免除すべきこと。

第二・都内外の窮民を救済するため、塩、食料を大量に配布し、病人には医薬を与え、施療院で治療を行うべきこと。

第三・大極殿はじめ、奈良の七大寺、全国の大小の寺で、大般若経を昼夜転読し、仏をお慰めすべきこと。

第四・諸国の国分寺・国分尼寺で護摩を焚き、仁王教を絶え間なく輪読し、怨霊を払うため、陰陽諸法を行うべきこと。

 布告に従って、奈良・京都の諸寺では昼夜、さまざまなお経が読経され、あらゆる神社ではお祓いの行事が為された。

 法親王は修理の次第が決定されると、周到に人事、職人の手配を整え、同年秋の初め、九月二十八日を大修理の初日の日と定めて、以後はただひたすら修復に専念なされた。遍昭は叡山に上り修行の日々を送ったが、一月に一度は様子を見に山を下りて法親王をお見舞いした。

 修復が開始されてから三年目の天安二年の末、叡山の僧円珍が唐国での修行を終え、壱千巻の教典をみやげに都へ戻ってきた。円珍は遍昭より三歳年上、母は弘法大師空海の姪である。円珍は天台宗の開祖智顗が入滅した国清寺をはじめ華頂山・開元寺などで修行し、最澄が日本国修行僧のために建てた日本国大徳僧院を再建したという。四四一巻一千部にも上る教典を持ち帰った円珍の帰国は僧侶たちに大きな刺激を与え、法親王も深く決意することがあるようだった。

 修復が開始されてから五年後の貞観三年(861)の春三月、再建なった大仏の落慶法要が営まれることになった。その前の晩、法親王は遍昭を大仏殿に誘った。無数の灯明が大仏を光りで包んでいる。

 法親王は長い間陀羅尼を唱えておられたが、不意に、

「遍昭殿、私は唐を経て天竺に渡ろうと思う」と言った。遍昭が耳を疑っていると、法親王は、

「そなたと私はあの晩大仏の御首が落ちるのを見た。《なぜ大仏様のお首が落ちたのか》私はあの時から考え続けていた。そしてこう思った。《お首が落ちたのは、真実の仏道が日本に伝えられていないためではないか。その事を、御仏はその身を通じて教えて下さったのではないか》。そこで私は仏道を極めるために天竺に渡ろうと決めたのだ」

 遍昭は半信半疑だったが、開眼供養が終わると法親王は太政大臣藤原良房に入唐許可を願い出た。公卿の多くは反対した。廃太子とはいえ、親王が渡海なさった先例は神話の昔をのぞけば一度もない。万が一不測の事態が起きた時、日本国としてはどう対処したらよいのか。

 しかし太政大臣良房は法親王の決意がゆるぎなく固いことを知ると、この度の大修理の功績に鑑み、願いを許可すべきであると強く主張した。文徳天皇は法親王の請願をお許しになられた。法親王は貞観三年七月六十人の僧俗を引き連れてご出発になられた。         

           *

「あのお方が都を去った時のお姿は今でも忘れぬ」

「その後、親王様からのお便りは?」

「長安から二度いただいたが、二度目の書面には天竺に渡ると記されていた。しかしその後の消息は一度もない。ところが先日朝廷に在唐の留学僧からの知らせが届いた。それによると、法親王は十五年前、羅越国(注・現在のシンガポール付近)から天竺に向かう船の上で亡くなられたという。何というご最後か・・・皇太子であったお方が南海で客死し、十五年余りも、誰も知らずにおったとは・・・」 

 遍昭は目を閉じた。その瞼の裏には若かりし頃の親王のお姿が彷彿とした。爛漫と咲き乱れる花の下に座って親王は杯を傾けていた。歌声が降るように聞こえ、雲の間には天女が舞い踊っているようにすら思われた。

「どうなさりましたの」

「そなた、わしの願いを聞いてくれるか」

「改まって何事でしょうか」

「舞を舞ってもらいたい。親王様が若かった時、都の春を愛でながら美しい乙女の舞いご覧になられた、その華やかな舞をここで見せてもらいたい」

「何を申されます。私はもはや老女でございます」

「いいや、そなたはいつまでも若い。親王様のためじゃ、舞っておくれ」

 遍昭の目に涙が浮かんでいるのを見て女は立ち上がると舞い始めた。遍昭は目を細めて遠い彼方を見つめた・・・

晴れた空から桜、藤の花が降り柳の緑が揺れている。花の衣を身にまとって、天女が風にゆられて舞い降りてくる。親王様が舞いを楽しんでいるお姿が見える・・・

遍昭は涙をこらえながら、親王にお歌を捧げたのだった。

 天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ 乙女のすがたしばしとどめむ