百人一首ものがたり 11番  

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 一番目のものがたり「彗星の飛ぶ日」

わたのはら 八十島かけて 漕ぎいでぬと 人には告げよ 海人のつり船

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

  雷鳴を聞きながら、定家は名月記に次のように書き記した。

「嘉禄元年六月。未後雷雨。早旦心寂坊来る。左手の苦痛更に止まず。遂日増が如し。三カ所に小灸を加える。午の刻前に灸了。手に十七カ所。左手首に二十一カ所」

 翌日、雷雨が鳴り響く中を心寂坊が定家の治療に見えた。

「中将為家様のお屋敷に鎌倉から早馬がしきりに往来しております。尼将軍北条政子が危篤になったとの噂が流れ、滋賀の浦の三井寺の浜の梨の大木に、羽根が青黒く、長さが三尺五寸、足が四本もある奇怪な鳥が現れ、これを取って食った者は即座に死んでしまったそうにござります。誰も彼もが不吉な事が起きる前兆ではないかと懼れております」心寂坊がこんなことを言うので定家は痛む目を押さえて、

「これまでさんざん厭な出来事を見てまいりましたから最早何が来ようとも恐れることはありますまい。それよりこの嵐の音を聞いておりますと、もしもこの私が海の上に居りましたらどれほど心細い気持ちであったろうと想像していたのです」

「はて・・・海の上とは・・・」

「小野篁の事です・・・藤原常嗣と争って遣唐使の使命を投げ出し、嵯峨上皇の勅勘に触れた篁でございますよ」

「小野篁・・・さては定家様は十一番目にその方を・・・」心寂坊が身を乗り出すので、定家はこんな事を話したのだった。

 

「記録によれば嵯峨上皇は承和五年、藤原常嗣を遣唐大使、小野篁を副使として博多港から送り出しましたが出航後間もなく大嵐に遭遇し、大使の船は破損してしまいました。おそらく今日のようなひどい嵐だったのでしょう・・・大使藤原常嗣は嵯峨上皇に『この船では遣唐大使の役目は果たし難いと存じます。幸い小野篁の船は無傷ですので、是非とも私の船と副使小野篁の船とを取り替えることをお許しいただきたいと存じます』

 上皇はやむを得ぬとして願いを入れ、船の交換を命じられました。ところが篁はこの処遇に異議を唱え下船してしまったのです。上皇は激怒し、篁の官位を剥奪して庶人となし、遠流の刑に処しました」

「・・・」

「遣唐使は国家挙げての大事です。それを、如何なる理由があったにせよ、副使の大役を投げ出すとは前代未聞、死罪も免れがたい大罪です。ところがその罪を覚悟してまで副使の役を放棄した理由はどこにあるのか・・・私はあれこれと考えてみました。そしてその最も大きな理由は、彼が小野妹子の子孫であることによるのではないか、と思い至ったのです」

「篁は妹子の子孫でございますか」

「篁は小野妹子の五代目の末裔に当たります。妹子は聖徳太子から全権を委任され、日本最初の遣隋使として大陸に渡り見事大役を果たした偉大な人物であったことは誰もが知るところですが、実は小野妹子は大きな事件を引き起こしたのです。彼は裴世清ほか十二人の隋の客を伴っての帰途についたのですが、帰国の途次、隋の煬帝から日本の朝廷に宛てた国書を焼いてしまったのです」

「随の煬帝の国書を焼く・・そんなことはあり得ない事です」

「確かにあり得ない話です。しかし妹子は真実、国書を焼いたのです・・・帰国後、妹子は煬帝からの国書を紛失した旨聖徳太子に一部始終を報告しました。群臣は驚き怒って、小野妹子を流刑にすべきであると異口同音に述べましたが、太子は、

「妹子の罪を問うてはならない。裴世清ら随の使節が来訪している時に妹子を罪に問えば隋の国は今後、何かにつけ、我が国への干渉を強めようとするであろう。また、我が国に関してあらぬ風聞を流し、重罪を冒した者は死罪、軽い者でも流罪あるいは杖打ちの罪にするとして、我が国に細目を規定した刑法が存在しないことあざけり、他国にその噂を流すであろう。」と申され、妹子を罪に問うどころか、再び遣隋大使に命じました。その時伴って行った留学生に高向玄理、南淵請安、学問僧日文など八人がおりました。大化改新の際に中大兄王子や中臣鎌足に大陸の情報を伝え、大化改新の発端を作ったのは彼らなのです」

「・・・」 「篁は己の祖先が聖徳太子にそれほどまでに深く信頼されていたことに大きな誇りを抱いていたでしょう。ところが、その末裔である篁自身はとみれば、小野妹子との相違は歴然です。正使は藤原常嗣。自分は副使の役に過ぎず、しかも船を理不尽にも奪われてしまった。これほどの屈辱に甘んじるぐらいなら、死を選んだ方がましだと考えたのかも知れません」

第11番目のものがたり 「彗星の飛ぶ日」 )

 病気と称して屋敷に籠もってからひと月。朝廷からはまだ何の沙汰はないが巷には『どうやらこのままでは死罪もまぬがれまい』という噂が流れている。そうしたある日、篁の親しい友人で明法博士の讃岐永直が密かに屋敷を訪ねた。

「君の気持ちもわからぬではない、がしかし、いくらなんでも遣唐副使の役目を投げ出してしまうなど、二百余年の歴史に前例がない。嵯峨上皇は常々君の才知とまっすぐな性格をずいぶん愛しておられたが、このたびの事では激しく怒られて、極刑をもお考えになられているご様子。仁明上皇もひどく心を痛めておられる。即刻参内して、お詫びするがよろしかろう」

 しかしいくら説得しても、篁は応じない。永直は困り果て、ため息とともに帰って行った。永直の言葉通り朝廷では小野篁を死罪にすべしという意見が大勢を占めていた。左大臣藤原緒嗣は次のように非難した。

「日本国から唐の国へ遣わされる国家使節にはいかなる理由があろうとも、身勝手は許されぬ。もしも小野篁の暴挙がさしたる罪に問われないとなれば、今後荒海を越えて唐に渡ることに異を唱える者が続出し、遣唐使の存続そのものが危うくなりましょう。故に、後世へのいましめのためにも篁に死罪を申し付けねばなりませぬ」

 おおかたの意見は左大臣の意見に賛同している。反対するのは右大臣清原夏野と文章博士・菅原清公と永直ぐらいのものである。清原夏野は当代きっての法学者であり、篁を裁く立場にあったが、心情的には少なからず同情していた。

「小野篁の行為が重罪に値する事は明白です。しかしながら、死罪には承伏いたしかねます。公の役職にある者を死罪に処するからには相応の理由がなくてはなりません。死罪に値するのは、国家転覆の陰謀あるいは反乱軍に荷担した場合でありましょう。篁にはそのような企てとは全く関係がありませぬ。流罪が相当かと存じます」

 これを聞いて左大臣藤原緒嗣はにがにがしく清原夏野を見つめた。「清原殿は篁の行為が、反乱には相当せぬと申されるが、さてどうであろう。遣唐使船の分配の変更は上皇のご意志である。勅に従わぬということは、国家に対する謀反ではありますまいか。そもそもこの度の遣唐使節は桓武上皇の御代・延暦二十四年、空海、最澄を唐から帰国させた藤原葛野麿以後、三十一年目にしてようやく実現した大事業である。この度の遣唐大使は前回の遣唐使を成功に導いた藤原葛野麿の息子にして議政官に列する参議藤原常嗣であるから人物として申し分ない。彼に率いられて乗船する者、六百、比叡山からは大任を帯びて、最澄の弟子・円仁が加わっている。このような大事業の副使を仰せつかった高官が、勅命に反してその任から勝手に離れるとは、決して許されぬものではあるまい」左大臣が厳しく論難したので右大臣は静かにこれに応じた。

「左大臣様の申されること、ごもっともでござります。篁自身、死罪を覚悟の事と存じます。しかし・・・篁にも申し分がありましょう。篁は、最初から勅に背いたわけではござりませぬ。承知の通り、この度の遣唐使派遣は四年前の承和二年(834)一月十九日に任命式が執り行われ、承和四年七月二日に博多津を出立いたしました。篁はこの時、第二船に乗船しておりました。ところが悲運にも逆風激しく、第一、第二、第四は肥前の国まで流され、第三船は難破。一行は体制を立て直し、再び出向しましたが、又も逆風に押し戻され、第一・第四船は壱岐に、篁の第二船は値賀島に漂着いたしました。この際、最も堅固に造られていた筈の第一船太平竜は破損し、水漏れが生じました。そのため遣唐大使藤原常嗣殿は都に戻り、遣唐大使たる常嗣の船と副使篁の船を取り替えていただきたい旨、上皇に願い出ました。大使はあくまでその任務遂行のためを思って配船替えを希望したのでしょうが、このような重大な変更は朝廷に願い出る前に、副使である小野篁にも計るべきでありました。遣唐大使と副使とは何千里の陸海路を、生死を共にしてゆくべき朋友でありますから何事も相談しなければ事は成就いたしません。もし常嗣殿が誰よりもまず篁に理を尽くして配船の交換を申し入れたなら、篁もこれに応じたと思われます」

「右大臣の言い分は理解できませぬ。篁は勅命を受けて任についたのでありまするぞ。勅命をいただいたからにはどのような困難に遭ってもこれを克服せねばならないのは道理でありましょう。耐え難きを耐えずに、どうして遣唐副使の重責が務まりましょうか。そもそも遣唐使の船団の全権は正使にあることは右大臣も異議はないはず。その正使の命に従わぬというのは篁に非があることは明白。その篁の肩を持ち、遣唐大使たる藤原常嗣にこそ非があると右大臣は申されるのか」

「そのようなことを申し立てるつもりはありません。しかし篁は申すまでもなく、重代の臣。その才能は天下あまねく知らぬ者はなく、朝廷における働きはいかにもめざましいものがあります。それほどの人物を死罪に処するのは国家の損失。罪を問うのは当然のことながら、これまでの功績と天候の不運などを考慮し、情状酌量を成すべきであると私は申しあげけたいのです。篁は、二度、唐に向かって出航しているのです。運がよければ、今頃長安で皇帝に拝謁していたかも知れません。それが逆風によって夢が断たれた。悲運と申すべきでありましょう」

「では、右大臣、この詩をどう思われますかな」

 左大臣藤原緒嗣は一枚の紙を床に広げた。

「これは何でござりましょう」

「篁が朝廷に差し出した漢詩です」

紫塵嫩蕨人拳手 碧玉寒蘆錐脱嚢

「しちんの若きさわらびはひと手をにぎる 碧玉の寒き蘆は錐ふくろを脱っす」清原夏野がそう読みあげると、左大臣は、

「では、その意味は如何」

「早春の慶びと草木の勢い良く生まれ出る様を歌ったものでありましょう」

「そうであろう、そのようにも読める。だがそれだけであろうかな」左大臣は清原夏野をちらっと睨んで、文章博士の方に顔を向けた。

「菅原清公殿、博士は、どのようにこの詩を読むべきであるとお考えか、ぜひあなた様の学識を開陳していただけませぬか」

 左大臣に促されて菅原清公は重い口を開いた。

「左様・・・錐嚢を脱すという言葉は、思いますに、『史記』の平原君伝に同じ表現が見られます。」

「して、その意味は、いかなるものでありましょうか」

「それ賢士の世に処るや、例えば錐の嚢中にあるが如し。その存在は、時を経ずしてたちどころに現る、と解釈されまする」

「では、賢士とは誰のことであるか」

「申すまでもなく、平原君であると同時に、己を平原君にたとえた小野篁自身でありましょう」

 「では、錐とは何のことか」

「錐のように鋭い才能を備えていると誇っている己のことでありましょうな」

「ふむ。それで、嚢とは何か」

「その才能を包み隠すもの。世に出ることを妨げているもの、国家制度、人間関係、その全てを意味しておりましょう」

「ではこの詩は次のような意味であろうか。すなわち小野篁は朝廷をはじめ、律令制によって運営されているこの国をずたぶくろにたとえ、鋭い錐のような才能をもつ篁は、そのずたぶくろの中に閉じこめられているのに耐えられず、切り裂いて飛び出そうとしている、と、こういうことになりましょうな」

 左大臣の厳しい詰問を受けて、文章博士は口ごもった。すると横から「そのように解釈を広げるのはいかがかと存じます」と右大臣清原夏野は反論した。

「私はつい五年前まで『令義解』の編纂に携わっておりましたが、事業を進めるに当たりましては文章博士菅原公や、この度の遣唐大使・参議・藤原常嗣殿、讃岐永直殿などの他に、小野篁が加わっておりました。篁は律令制の一段の充実に格別の思いがあり、きわめて熱心に編纂事業に集中し、その気持ちの直なることは誰しもが認めるところでした。そうした経緯を考慮いたしますれば、律令制をずたぶくろにたとえ、それを錐で破ろうなどと篁が考えていたとは、到底思えませぬ。その漢詩は、素直に、早春の蕨のように力が余っている気持ちを言い表したものであると考えます」

  左大臣と右大臣が激しく対立したので篁の処遇は持ち越しとなった。夕方、讃岐永直は篁の屋敷を密かに訪れた。

「このままでは死罪は免れぬぞ」と永直は青い顔をして小声で言った。「どのように考えても大使藤原常嗣がそなたに何の断りもなく上皇に直訴した行為は間違っていた。しかしこの度の遣唐使派遣は我が国の威信を賭けた大事業ぞ。その大任を上皇の許しを得ずに投げ出した罪は大きい。しかし上皇はかねてよりそなたの才能を高く評価している。今からでも遅くはない。明朝内裏に参内し、お許しを乞うべきだ。私もそなたに付き添い、上皇にお許しを懇願する決意をしている」

 篁は永直の真心に感謝し、縁に酒壺を出して永直の盃に酒を注ぐと夜空に向かって詩を口ずさんだ。

人更に若いことなし 

時すべからく惜しむべし

年常に春ならず 

酒を空しくすることなかれ

 永直が早々に立ち返った後も篁は夜空を見上げながら酒を飲んでいた。

      ≋

〈私の祖・小野妹子は聖徳太子の命を受けて、隋の煬帝に国書を提出したのだぞ〉と彼は星空に独り言をつぶやいた。

〈煬帝は何千里の大運河を開削し、大河のごとき水の上に、四階だての金の大船を造り、金玉で目も眩むほどに飾り立てた部屋が百数十、八万人の船引き人夫に船を両岸から弾かせ、大帝国を遊行したという。そうした大業を成し遂げた皇帝に拝謁しても、我が祖、小野妹子は少しも臆することがなかった〉

「日出づるところの天子、書を、日没するところの天子に致す。恙なきや」

 皇帝の顔が怒りに染まるのを小野妹子は平然と見ていた。

「このように無礼な国書をもたらした使節の言葉を、二度と上奏してはならぬ」

 煬帝は激怒した。臣下たちは震え上がった。ところが小野妹子は悠然として身じろぎもしない。煬帝は訝しんだ。

〈日本は東海の端にある未開の小国と聞くが、これほどの人物を送り出すとあらば小国であるはずがあるまい・・・我が国は間もなく朝鮮に大遠征軍を送る準備をしているが、朝鮮半島を征服した後は日本を滅ぼし、属国とせねばならぬ。そのためには使節を送り、彼の国の実情を探らせるに若くはない〉

 煬帝はそう考え、妹子の帰国に当たっては、裴世清以下大勢の官人を日本に送ったのだった。

〈あなたは隋という大国の皇帝を手玉に取った・・・まったくもって、あなたの為したことは信じがたい・・・〉篁は酒を飲み干し、夜空に向かって語りかけた。〈日本書紀にはあなたは煬帝の国書を臣下に預けたものを百済人に盗まれたとありますが、あの記述は、事実なのですか〉

《事実である》

〈しかし、あなたは国書を焼いたとも聞いております〉

《私は百済人から国書を取り戻し後、焼いたのだ・・・何故私がそのような暴挙を為したのか、お前なら分かるであろう》

〈・・・あなた様は、煬帝の国書をご自分でご覧になり、これを太子にご覧に入れてはならぬと判断なされたのでしょう〉

《その通りだ。煬帝の国書は無礼な言葉に充ち満ちていた。しかも、これより後、朝貢することを望むなら、まず太子自身が隋に渡り、煬帝に友好の証を立てるべきである、と記されていた。そのような国書をお目にかければ、太子がどのように思われるか明らかではないか・・・わたしは御心をわずらわす価値もないと判断し、焼いたのだ。無論、死を覚悟の上である。ところが太子は私を責めるどころか、私を大いに褒め、難波で大饗宴を開いて下さった・・・私は面目をほどこし、客人たちは聖徳太子の人徳に深く打たれた。

間もなく裴世清は病に倒れ、そのまま亡くなった。太子は私に命じて「裴世清の死を煬帝に伝える使者として隋に赴きなさい」と仰せに成られた。そこでわしは再び海を渡り煬帝に拝謁して、

「やまとの上皇、もろこしの皇帝にもうす」と始まる太子の書を提出した。煬帝はわしの顔をつくづくとごらんになり、

「そなたは世にもまれな運に恵まれた男だ」と申された・・・その時から二百年、私の末裔であるそなたが遣唐副使の職を放棄した罪を問われ一人蟄居している姿を見るのは悲しい。だが、上皇はそなたを死罪にはすまい。そのようなことをこの国の帝がするはずがない。なにしろ、煬帝の国書を失ったと申し上げても、太子は何一つ咎めなかったのだからな・・・その太子の皇孫たる嵯峨上皇もまた、そなたを愛しているからこそ怒りも大きいが、やがては許してくれることであろう》

 頭上の星空は青く怪しく澄み渡り、天空の彼方から無数の星が雨のように降ってくるのが見えた。それはまるで天の川が決壊して、星が夜空に流れ落ちているかのように、風に吹かれる落花よりも激しく、地上に向かって絶え間なく落ちてくるのだった。承和五年の彗星の出現であった。

 嵯峨上皇は天空の異変に動揺し、全国の社寺に護摩を焚き、絶え間なく読経すべきことを命じた。都の東寺・西寺では護摩が焚かれ、民衆も夜空の異変に毎夜祈りを捧げた。右大臣清原夏野は上皇に嘆願書を提出した。

「天空に変事が起きている時、死罪は慎むべきでありましょう。何とぞ小野篁の罪を一等減じ、流罪にいたしますように」

 上皇は右大臣の懇願を容れ、篁は隠岐に配流となった。

 

 篁は渚を歩いた。波打ち際に美しい貝殻が無数に落ちている。

〈これは星のかけらであろうか。この星のかけらを船にして波を越えてゆけるのであれば、唐の国へ行ってみたいものだな・・〉

 篁は歌った。

 わたの原八十島かけて漕ぎいでぬと       人には告げよ海人のつり船