百人一首ものがたり 1番 天智天皇

目次

  1. 小倉庵にて 権中納言定家と主治医・心寂坊の対話
  2. 1番目のものがたり「(たけるの)
  3. 系譜

秋の田の刈り穂の庵の苫を荒み

    わが衣手は露に濡れつつ

 

百人一首ものがたり

小倉庵にて (ごんの)中納言(ちゅうなごん)藤原(ふじわらの)定家(ていか)と主治医・(しん)寂坊(じゃくぼう)の対話

青白い額に汗がうっすらと滲んでいる。汗は玉になって(まぶた)のあたりまで流れて来る。定家は袖で無造作にふき取って筆を動かしながら傍らの心寂坊に「紙をくだされ」と手を伸ばした。

 心寂坊が紙を差し出すと、定家はぺッと唾を吐いたがそれは唾ではなく虫だった。七匹もの肥った蛭がうごめいている。

「いかがですか、痛みは和らぎましたか」心寂坊が訊ねると、

「変わらないようです」

「困りましたな。ではもう少し貼ってみましょうか」

「・・・そうしていただきましょう」

定家は筆を置いて口を開けた。奥歯が二本ばかり残っているが、歯茎が腫れて血が滲んでいる。心寂坊は箱の中から(ひる)を一匹つかみ出すと、

「もっと口を大きくお開き下され」そういいながら蛭を定家の口に貼り付けた。

「肩の蛭も取り替えていただきましよう」

 定家は上半身裸になった。グミの実のように膨れた蛭が痩せた背に取り付いて血を吸っている。心寂坊は新しい蛭を二十匹ほど貼り付けた。これが終わると定家は何事もなかったように再び書き出した。血の気の失せた唇から息切れとも苦痛の(うめき)ともつかぬ吐息が漏れてくる。

あと四年で八十。誰もが土に帰る歳なのに、このお方は黄泉津(よもつ)大神(おおかみ)が迎えに来ても「まだやり残した仕事が山のようにありますので行くわけにはまいりませぬ」と断るに違いない。心寂坊は長年の主治医として、また和歌の弟子として定家を身近に見てきたが、年を経るにつれてますます巨大になり、天地の神々とも通じる力を身につけてきたように思えてそら恐ろしいものを感じる。病み衰えた体を駆り立てているものは一体何なのか、心寂坊は背を丸めて何かに取り憑かれたように書き続けている定家の姿をつくづくと見つめた。夕日が小倉山に傾き、遠い森の彼方から気味の悪い声が響いてくる。昔、(げん)三位(さんみ)頼政(よりまさ)が退治した(ぬえ)という怪物はあんな声で鳴いたのだろうか。心寂坊が気をとられていると、

「第一番がどうやら出来ましたぞ」という声がした。

「・・・第一番が・・・」

 心寂坊は定家が常々「百人一首を作ろうと思うのですよ」と言うのを聞いていた。天地(てんち)開闢(かいびゃく)から今日に至る間に活躍した人物の中から百人を選び、それぞれの歌一首を集めて歌集にするという。心寂坊は古今集が一番と信じていたので新しい試みには正直なところ心惹かれなかった。しかし「一番が出来ましたぞ」という声を聞くと、突然胸の奥に震えを覚え、【いったいそれは誰だろう】と首を伸ばした。

予想外の人物だった。「天智天皇」このお方が第一番だという。

天智天皇

・・・これはどうしたことだろう。この天皇がどのような歌をお詠みになったのか、憶えがない。当惑していると、

「納得が行かぬようですね」と定家は微笑した。「『古代からの優れた歌人百人を集めた歌集』と聞けば、筆頭は柿本人麻呂と思うでしょう。また神話の時代を含むとなればスサノオの『八雲立つ出雲八重垣・・・』と決まっています。しかし私は別の基準を定めたのです」

「おっしゃる意味がわかりません。定家様はその新しい基準で、どのような歌集をお作りになるおつもりなのですか」

「日本の夜明けから落日までを明らかにするための歌集を作るつもりです」

「・・・夜明けから・・・落日・・・」

「我が国はイザナキ・イザナミの神話から続く古い国です。しかし長い年月、光の無い闇の世が続きました。スサノオ神話には『天地は暗黒に閉ざされ、(よろず)(わざわい)が国中を覆った』と記されています。独裁政治が続き、国中が疲弊(ひへい)していた時代が長く続きました。

聖徳太子は我が国に日の光をもたらそうと努力されましたが果たせませんでした。慈円殿は『愚管抄』に『聖徳太子は十七箇条の憲法を定め、冠位の品々を定め置かれたが、太子失せ給いて後、世衰え、民乏しといへり』と記しています。

太子の果たせなかった夢を実現した人物が、天智天皇です。史書を通覧(つうらん)すれば日本国の基礎を築いたのは天智天皇である事が分かります。天智天皇と藤原鎌足、この二人の力によって日本に夜明けが訪れたのです」

 虫が鳴いている。心寂坊は恐れ入って耳を傾けていた。

「心寂坊殿は天智天皇の母がどなただったか、ご存じですか」

「・・・存じません」心寂坊は恥じ入って答えた。

「宝王女というお方です。(系譜参照)後に即位して(こう)(ぎょく)天皇、またさらに斉明天皇となられましたが、実は蘇我入鹿(そがのいるか)が皇位を窺ったのはこの時です。しかし奇しくも危機を救ったのは大陸の出来事でした。

随が滅亡し群雄割拠していた大陸に()(せい)(みん)という大英雄が現れたのです。彼は瞬く間に周辺諸国を征服併呑(へいどん)し、律令(りつりょう)体制(たいせい)による国家経営によって大唐国を築き、唐の太宗(たいそう)となりました。もし彼が内政に徹していたら、唐は古今絶無の大帝国となったでしょう。しかし彼の体内には征服者の血が流れていました。国内統一を終えると朝鮮半島に大軍を送ったのです。高句(こうく)()の反撃にあい一度は失敗しましたが、太宗の後継者高宗(こうそう)は大遠征軍を編成し高句麗に波状攻撃をかけました。高句麗が落ちれば、新羅、百済も攻略され、やがて日本も攻撃の的となる・・・大陸にいた日本人留学生は戦況を詳細に報告しました。日本国内が分裂していては唐の軍隊に太刀打ち出来ない。その危機感が若い中大兄皇子や中臣鎌足を奮い立たせ、大化改新が実現したのです」

「・・・」

「しかし改新後の状況はますます深刻になりました。日本の同盟国・百済は唐・新羅の同盟軍に破れて滅亡に瀕し、日本に援軍を求めました。斉明天皇は援軍派遣のため筑紫に赴きましたが心労のため、突然ご崩御。中大兄皇子は即位の儀式をあげぬまま急遽天皇となり、兵三万二千を半島に送りました。しかし、我が軍は、唐・新羅同盟軍に大敗し、三万二千の兵と一千の兵船を一度に失ったのです」

「・・・」

「百済王国再興どころか、日本そのものが存亡の危機に瀕しました。早急に大陸からの侵攻に備えなければなりません。天皇は九州に(みず)()を築き、大和防衛のための築城に取りかかりました。防衛は焦眉の急でした。国を失うことが何を意味するか・・・戦いに敗れ、日本に逃れてきた百済の難民の姿が全てを物語っています。」

「・・・」

「国土を守るため幾十万の人民が労役に服しました。河内と大和の国境の高安山に山城を築き、斉明天皇の時に建造した天香具山の山城も改造を加え、頂上には望楼や砦が築かれました。築城のために野には運河が掘られて数百の船が巨石や砂を運搬して行き来しました。この他、讃岐国には屋島城を造り、津島には金田城を、太宰府防衛のためには大野山に大野城を、基山には基城を造りました。この二つの城は百済から逃れてきた福留と福夫が先導して構築した朝鮮式山城でした。日本人も百済からの難民も、国土防衛に命がけだったのです」

「そうした時期があった事さえ、私はろくに知りませんでした。恥ずかしい事です」

「このことは日本書紀に詳しく記されていますからお読みになればよいでしょう・・・しかし一番の問題は、こうした危機的状況にあって、天皇は勅命を下すだけの独裁的存在だったのか、という点です。もし冷酷な支配者が国土防衛のためと称して圧政を敷いたとしたら、あるいは内乱が起きていたかも知れません。しかし天皇はその類の権力者ではありませんでした。

私は歌詠みですから、天智天皇の御製を見ればその人格が分かります。天皇にとって臣民の労苦は自らのものでした。天皇は忙しい公務の中、苫屋を一つ一つ回って汗と泥で汚れた人々を励まし、時には粗末な苫屋で夜を過ごしたのです。私がこの天皇を百人一首冒頭に選んだのはこうした事情を考慮した末なのです。しかし歌を選んでも、三十一文字だけでその苦難の時代の全てを理解するのは困難です。そこで私は一つの歌に一つの物語を付け加えることにしました。これがその第一番目の話です。まずは読んで見るとしましょう」

 定家は紙燭(しそく)の灯りが照らす机に巻物を広げ、(しわがれた)れた小さな声で読み始めた。

第一番目のものがたり     (たけるの)(みこ)

建王

天智天皇は城塞(じょうさい)望楼(ぼうろう)から人々の働く姿を眺めていたが、数日間一睡もしなかったので石に腰を下ろしたまま、ふと深い眠りに落ちた・・見渡す限りの軍馬だ。馬蹄(ばてい)(とどろ)き、砂塵が空を覆っている。矛、槍、剣が閃き、虹色の旗が風に(なび)いている。・・・呆然と見ていると、兵馬が進軍する草原に、痩せた若者が立っていた。

金色の鎧をまとった将軍が馬上から若者を見下ろしている。

「お前は何者だ」と将軍は言った。

「お前は誰だ」痩せた若者は言い返した。

「聞きたいか?では聞かせよう。わしは、李世民」

「何と!李世民、唐の太宗・・しかし死んだのでは」

「わしは死んだ。今は息子・高宗が皇帝だ。しかし高宗は戦を知らん。だからわしは高宗に取り()いて兵を率いているのだ。お前はわしが戦の神であることを知ってしよう。わしの勢力は、北はトッカンを越えて氷原に及び、西はチベツト吐蕃(とばん)からペルシヤ大食に広がっている。東に位置する朝鮮の新羅(しらぎ)は降伏して臣従(しんじゅう)を誓い、百済(くだら)は滅亡した。しかしまだわしに従わぬ野蛮国がある。日本だ。だが間もなく降伏し、中国皇帝は日本の支配者となろう」太宗の亡霊がこう述べると、騎馬兵団は嵐のようにどよめいた。

 若者は騎馬軍を遮って剣を抜き、叫んだ。

「お前の軍は、これ以上先に進んではならぬ」

「これはおかしなことを言う奴だ、なぜ進んではならぬ」

「私は天智天皇の子・(たけるの)(みこ)だ。私は日本を守らねばならぬ」

 これを聞いて太宗は笑った。

「お前は、たった一人で、百万の大軍に立ち向かうつもりか」

 天智天皇は驚愕した。私の子、建王が唐の大軍を押し止めようとしている。あの・・・口がきけぬはずの子が・・・不憫(ふびん)な子だ・・・私が、妻の父、()(がの)山田(やまだ)石川(いしかわ)麻呂(まろ)を、陰謀の(かど)で殺した、その罪が建王の口を塞いでいる・・・

ああ、その子が、今、唐の大軍を止めようと、堂々と口を開き、李世民に剣を向けている。私に代わって、唐の大軍と戦おうとしている・・・助けなければ・・・。天皇は剣を抜き、走り寄ろうとした。だが、少しも動けない。唐の大軍は建王を十重二十重に取り巻いている。

「私の前に降伏せよ」建王の声が聞こえる。

「それは面白い」李世民は馬上から愉快そうに若者を見下ろした。「お前を見ていると若い頃を思い出す。千里を走っても疲れを知らなかった。千度戦ってますます意気盛んだった。若さは良いものだ。勇気も良い。しかしお前の勇気はたちまち挫ける」

 太宗は黄金の太刀を抜き放つと、建王の首を葦の穂を切るようにあっさりと斬ってしまった。

(たける)(のみこ)の首から河のように血が流れてゆく。血の流れる川向こうの岸に子供がひとり、手鞠(てまり)をついている。手鞠は大きく弾んで川に近づいてくる。付き人もなしに、危ないではないか、そう思ってよくよく見ると、それはなんと先ほどまで李世民に立ち向かっていた建王だ。殺されたはずの建王が、無心に手まりをついている。八つになっても口がきけず、足下もおぼつかないのだ。

「建王、動くな。じっとしていなさい」天智天皇は思わず河の中に足を踏み入れた。と、何者かが右の足をつかんだ。

「誰だ」叫んで河の中を見ると、貴公子が姿を現した。

「お前は!」

「あなたが殺した有間(ありまの)皇子(みこ)だ。あなたは無実の私を殺した。故に私は復讐のためにやってきた」

「何を申す。お前は無実ではない。お前は私が唐の大軍の攻撃に備えて城塞を造らせると、あらぬ噂を流して臣民を惑わした。お前は次のように述べ立てた。

『天皇は三万もの功夫を使って溝を掘らせ、二百艘もの船を造らせて石や物資を運ばせ、七万の功夫に香具山から石上山まで城塞を造らせている。山の木々は切られ、野は荒れ、人民は呻吟している。それなのに自らは紀湯に遊んでいる、これこそ彼が正気を失い、国を滅ぼそうとしている証拠ではないか』と。そしてお前は、塩谷連鯯魚(しおやのむらじこのしろ)(もりの)(きみの)大石(おおい)らと語らって、反逆の旗を揚げようとした」

「あなたは何百年の都・大和を捨て、難波(なにわ)(なが)(えの)豊崎宮(とよさきのみや)を造営した。これに費やされた金銀ははかりしれない。ところがあなたは造営したばかりの都を放棄し唐の軍を迎え撃つと称して城塞(じょうさい)を造り出した。唐が如何に大国とはいえ、海を渡って遠く大和の国まで攻め込んでくるものか。あらぬ妄想にとらわれて人民を酷使し、天にも届くほどの城塞を造ろうとしている者に国政は任せられぬ」

 有馬皇子が叫んでいる間に、建王はますます河に近づいた。王は鞠をつきながら歌っている。

「私の子が、あのように口をきいて、歌っているぞ」天皇が叫ぶと、有間皇子はあざ笑った。

「あなたには分からぬのか、建王は死んだのだ」

「死んだ?馬鹿な、あの子は鞠をついている」

「そうとも・・・だがもうすぐ聞こえなくなるだろう。私があの皇子を黄泉の国へ連れて行くのだから」

 有間皇子は汀に近づいて建王の手を取った。

「その手をはなせ!」

天皇が叫んで走り寄ろうとすると、有間皇子の姿は消え、年老いた貴人が行く手を遮った。

「死んだのですよ」と老人は静かに言った。

「あなたの子、そして私の孫の(たける)(のみこ)は死んでしまった。あなたの所為(せい)で」

「おまえは誰だ」

「あなたは私をよくご存じです。私はあなたの義理の父親なのですから」

「何と、お前は!石川麻呂」

「ようやく思い出してくれましたね。そうですとも。私は、あなたと共に、蘇我入鹿を大極殿で殺しました。私はこの国を救うため、あなたに荷担して、従兄弟を殺したのです。しかも私は、大切な娘二人を、あなたのもとに嫁がせました。それなのに、あなたは無実の私を、謀反の疑いで殺した!」

「・・石川麻呂、私を許してくれ・・聞いてくれ。唐の大軍が攻めてくるのだ。私は白村江の戦いで三万二千もの将兵を失い、この国を護る軍船は一隻もない。それ故私は九州に水城を造り、各地に防衛のための要塞を造っている。だが百万の大軍が押し寄せたら果たして持ちこたえられるのか・・・石川麻呂、どうか私に知恵と力を課してくれ」

「国を守るのは天皇の役割。私は黄泉国に行かねばなりません。しかしひとりでは寂しい。だから、私の孫、建王を連れて行くのです」

「あの子は私のかけがえのない皇子。健気(けなげ)にも唐の大軍と戦おうとしたのだぞ」

「それなら皇子はもう十分に役割を果たしたわけですね」

「どうか建王を奪わないでくれ。日本は今、存亡の危機にある。建王はただ一つの希望なのだ」

「あなたの言葉が信じられない・・・だが、私も一度は大臣をつとめた身。日本の国はかけがえのない祖国。それ故、あなたに訊ねましょう。あなたの思いを歌に詠んで聞かせてくれませんか」

山田寺仏頭

山田寺は蘇我山田石川麻呂が建設した菩提寺。石川麻呂は天智天皇に陰謀の嫌疑を受け、寺で自刃。山田寺は廃寺となった。現在仏頭は国宝に指定されている。興福寺宝物館蔵

「なぜこのような時に、歌などと」

「歌こそ我が国の象徴・・和歌を知らぬ者にこの国を任せるわけにはゆきません。あなたはこの歌をお忘れではないでしょうね」

 水門の 潮のくだり 海くだり 

後も暗に 置きて行かむ  ()しき吾が若き子を 

  置きて行かむ

「それは・・母が残した歌」

「そうですとも。斉明天皇が建王を愛おしんで歌われた歌です。人は生まれ、死に、国も生まれ、また滅びますが、歌は代々歌い継がれ、絶えることはありません。荒れ狂うスサノオ命も櫛稲田比売と出会って喜びの歌を詠み、建国の英雄となりました。ですから、あなたがこの国の臣民を心から思い、臣民と苦労を分かち、戦のない、静かな日々の平和を望み、その望みが叶えられた悦びを、ひとつの歌に詠んで見せてくれるなら、私はこの国をあなたに委ね、建王も残して行きましょう」

石川麻呂は天皇の顔を見つめた。天智天皇は歌おうとした。しかし言葉にはならなかった。これを見て石川麻呂は言った。

「では、お別れです。さあ、建王、こちらへおいで」

 石川麻呂が手を伸ばすと、建王の手から鞠が転げて河の中に落ちた。建王は鞠を追いかけて河に沈んでしまった。

 中臣鎌足が近寄ってきた。

「夢をごらんになられましたか・・・(うな)されておられました」

 天皇は起き上がると眼下を眺めた。

「鎌足、この要塞(ようさい)は何万の敵を防げると思うか」

「敵が二万なら一月。五万なら一日」

 馬蹄の音が近づいて使者が入ってきた。使者は叩頭して書面を鎌足に手渡した。

先帝(せんてい)(斉明天皇)からの文でござります」

「帝からの・・・帝は()うに亡くなったではないか」

「お仕えしていた女官が、ご生前の歌を見つけたのでございます」天皇は胸騒ぎを覚えて文を開けた。歌が記されていた。

 飛鳥川(みなぎ)らひつつ行く水の

あいだ間も無くも思ほゆるかも

 (飛鳥川が水しぶきを立てて流れる時、その水が絶え間なく流れてゆくように、私はあなたとこの国のことを絶え間なく思っているのですよ)

天皇はよろめきながら外に出た。眼下に建築中の城塞が見える。

「・・・母はあれほどの激務と苦悩の日々にも愛するこの国を思って歌を詠んだ。私も歌さえ詠めたら」

「歌が、どうかなさいましたか」鎌足は不審そうに訊ねた。

「石川麻呂が夢の中で言ったのだ・・・」

「石川麻呂は、何と」

『もしあなたがこの国の臣民を心から思い、苦労を分かち、戦のない平和を望み、望みが叶えられたその喜びを、ひとつの歌に詠むことができたなら、あなたに建王を残そう。そしてこの国を委ねようと・・』

だが、私は詠めなかった・・・自分の子どもさえ救うことができぬ私に、この国を守り通すことができようか・・・」

天皇は望楼に立ち、はるか夕日の沈んだあたりを見つめた。稲穂が黄色く実っている。農夫たちが立ち働いている。天皇は鎌足と共に山を下り野道を歩いた。夜のとばりが落ち、望楼の空に月が出た。

天皇は立ち止まり、鎌足を見つめた。

「鎌足、お前は私を助けてくれるか」

「私はあなた様の為に生きているのです」

「私が間違いを冒しても許してくれるか」

「間違いを冒さぬ者は、人ではありません。私は常にあなた様のお側にあり、いかなる難事からもお守り致します」

天皇はこれを聞いて急に眠気を感じた。

苫に身を横たえると、さまざまな思いが矢のように見えては去っていった。

目を覚ますと、薄明かりが庵の戸口に差し込んでいた。苫屋の屋根は朝露が玉のように幾列も光り、窓の外には刈り入れの迫った薄明の田がしっとりと広がっている。彼は景色に見入りながらふと歌った。

 秋の田の刈り穂の庵の苫を荒み

    わが衣手は露に濡れつつ

第一話 関係年表

645年 大化の改新(中大兄皇子十九歳) 

同年   唐軍第一次高句麗遠征

647年 第二次高句麗遠征 

648年 第三次高句麗遠征

660年(斉明6年)唐・新羅連合軍の攻撃により百済滅亡

661年 斉明天皇崩御 天智天皇即位

663年 唐・新羅連合軍と白村江で戦い日本軍大敗

664年 内政の充実を図り、新冠位二十六階を制定。

この頃庚午年籍を制定 対馬・壱岐・筑紫に防人、烽火を置き、水城を構築して外敵に備える。

667年 大津宮に遷都

668年 高句麗滅亡 百済からの難民二千人を東国に置く。

669年 藤原鎌足薨去

672年 天智天皇崩御(四十六歳)

系譜