商都土浦・水郷の盛衰

佐賀純一「商都土浦・水郷の盛衰」まえがき から 

「予ものの心を知れりしより四十路あまりの春秋をおくれるに、世の不思議を見る事やたびたびになりぬ」

『方丈記』冒頭に続く一節だが、鴨長明が目にした世の不思議は彼の時代にのみ起きたわけではない。事の大小は別として、いつの時代にも不思議は起こることであるし、太平洋戦争が始まった昭和十六年に生まれた私も後の世に生まれる者からしてみれば、とても出会うことのできない人々と共に生きてきたということになるに相違ない。

高木福三郎さんから話を聞くようになったのは私が父の診療所で働くようになって間もない頃である。診察を終えると往診鞄に録音テープを入れ、毎日高木さんの家を訪ねた。かつては繁栄を極めた町並みや城下町の面影は既に消えかけていたが、高木老人の語る町は今にも目に見えるように生き生きと息づき、活気に満ちていた。反物屋、宿屋、酒屋、乾物屋、糸屋・・あらゆる職種の人々が軒を連ね、表通りも裏路地もごったがえして、町中に張り巡らされた水路には川船が舳先を連ねて水面を行き来していた。

私は話に心を奪われ、数多くの古老を訪ね、往時の有様をつぶさに聞き、記録した。瓦屋、馬の鞍屋、荷鞍屋、紋屋、豆腐屋、馬肉屋、下駄屋、置屋、芸者屋、女衒、西洋洗濯屋、畳屋、桶屋、船問屋、薪問屋、船頭、帆引き漁師、渡り漁師、大徳網漁をする網主、神楽棧漁師、蛯樽漁師・・職種は二百にのぼり、家々の数は一千戸を越えた。

父もまた私が集めた話に啓発されて水彩画に描いた。昭和四十八年「スケッチで綴るふるさと土浦」が誕生した。しかし聞き集めた話や父の絵は山のようにあったので、七年の歳月をかけて「土浦の里」を出版した。この書物には水戸街道沿いの町並みの全てと裏長屋に通じる路地や住人をできるだけ正確に書きとどめようとの試みも成された。古老たちから聞き取った職種、屋号を草稿に作り、一つの町内の全体図が描きあがるとその町に住んでいた老人に見てもらい、修正を重ねて一つの町の家並み図が出来上がる。こうして数年の歳月をかけて土浦全体で三十一枚の家並み図が完成した。これらの家並み地図は「町並み回想」として「土浦の里」に収録した。「土浦の里」の完成とともに英訳版の準備に取り掛かった。

「土浦の里」の英訳が完成し講談社インターナショナルから「Memories of Silk and Straw」と題して欧米諸国で発売されたのは一九八七年(昭和六十二年)の事である。アメリカ・イギリスに続き、ドイツ、フランスでの出版が相次ぎ、これまで取り上げられることのなかった近代日本の庶民の姿を現す書物として評価を集め、英米では数多くの大学のテキストとなった。 それから三十数年の歳月が過ぎた。あの頃訪ね歩いた家々はほとんど消え失せ、話を聞かせてくれた高木老人や多くの古老たちもすべて居なくなった。鴨長明からはるかに隔たった時代にも、人の営みがうたかたに過ぎない事に変わりはない。しかしここに書き留めた人々の話は常陸風土記の「古老」の話と同じように二度と聞くことのできない貴重な宝であることには少しも変わりがない。

消滅した霞ケ浦周囲の村落地図

1_石田の家並
2_沖宿の家並1
3_戸崎
4_川尻の家並
5_崎浜野家並
6_田宿の家並み
7_1赤塚西
7_2赤塚東
8_平川
PlayPause
1_石田の家並
1_石田の家並
2_沖宿の家並1
2_沖宿の家並1
3_戸崎
3_戸崎
4_川尻の家並
4_川尻の家並
5_崎浜野家並
5_崎浜野家並
6_田宿の家並み
6_田宿の家並み
7_1赤塚西
7_1赤塚西
7_2赤塚東
7_2赤塚東
8_平川
8_平川
previous arrow
next arrow